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ウクライナとロシア

ウクライナは1991年にソ連から独立した。
ソ連がロシアになり、中央アジアの国々が独立した。

ソ連から独立した国を知ったのは1994年の広島アジア大会。ウズベキスタン、カザフスタンの国名が初めて出てくる。そしてウズベキスタンはサッカーで優勝したのが印象に残る。

1998年、旧ソ連の国々がサッカーワールドカップ予選にも出た。そして選手の何人かがロシアリーグでプレイしていて、呼ぼうとしたら所属クラブから料金を請求された話が合った。それだけロシアの経済はひどかったと思う。
プーチンが出てきたのは2000年代。大統領になったことから、名が知られるようになった。そこから経済が持ち直したと思う。
その次の年に、ウクライナではキエフの「ディナモキエフ」というクラブがヨーロッパのサッカーシーンで注目されていた。アンドリーシェフチェンコが有名になった。

歴史

最近調べるとウクライナもロシアも旧ソ連で、タタールのくびきを受けた間柄だ。そして、今のロシアとウクライナの戦争を見ると、昔あった東西冷戦の縮図が濃く圧縮されて起きたと思う。

ロシアとウクライナが明確に分かれたのはモンゴル・タタールの襲来によってだ。モンゴル帝国の支配により、キーウ(キエフ)は没落した。そして村に過ぎなかったモスクワが台頭した。タタールのくびきを境に両者が発展に差が出た。後者はロシア帝国になっていく。

この違いが両者の認識を分けた。

そして、ロシアのモスクワはキエフのマネをして権威化した。
それはキエフが同盟を結んだ東ローマ帝国との姻戚関係だ。
当時のキエフルーシは、東ローマ帝国の皇帝バシレイオス二世(マケドニア王朝)に妹と婚姻を結び、姻戚となった。その過程でキリスト教をも受け入れた。
モスクワも東ローマ帝国のバライオロゴス王朝の最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪と婚姻関係を持つことで、自らを第三のローマを名乗った。東ローマが滅んだことにより。

まとめ

すべてがキエフの模倣により、モスクワは第三のローマを名乗り、ロシア帝国になった。しかしモンゴル帝国の成れの果てにしか見えない。
東ローマから権威を受け継いでも、カリスマ性はモンゴル帝国の物で、そのカリスマを強引にしか使っていない。

モスクワはモンゴル帝国支配化で発展した。
その当時キエフは衰退したが今はキエフがウクライナ戦争で、西側諸国の支援により発展しようとしている。それを思うと歴史の皮肉にも見える。
なぜならモスクワの発展の対比に見えてしまうからだ。

もしキエフが発展していけば、モスクワは衰退してしまうのかもしれない。

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