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対称性について

※ほとんど論文というよりエッセーに近い文書。あしからず。

a)対称性
 「対称性」とは、aがbとある関係にある時に、bがaと同じ関係にある状態を言う。(数学辞典/編著;伊藤雄二、一松信/朝倉書店)同じ関係にあることからa=bならば、b=aが成り立ち、図に表わせば下記のようになる。(図1参照)

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性質は、一つの点、面、線を中心にして両端にある二面、又は、二つの点が互いに向き合う事で、対応しており、対称点を中心にして二つは分かれている。具体的に述べれば「左―右」、「男―女」、「昼―夜」、「静―動」、「雄―雌」等であり、同時性の軸の上で成り立っている。対応しあうことで、相互的に変化してゆく。主に対立、極、相関、相似、相違にあるもの同士が選ばれてゆき、限定されている。「昼―夜」を例にして言えば、対称的になることによって、「昼は夜となり、夜は昼となる」関係になってゆく。昼と夜は、同時性の軸の上でつながりあい共存している。選ばれてゆくことで、まとめれば太陽が昇ることで「昼」、沈んで、夜になることで、月が出てくる。「昼」、「夜」のつながりは、太陽が出ることになって昼になり、昼は太陽が昇ることで生じる。一方、夜は太陽が沈み、月が出ることで夜となり、対応しあうとともに、太陽は昼であり、昼は太陽であることで対応し、月は夜であり、夜は月であることになる。どちらかを要素として、括弧に入れてゆけば、対称的な関係は「昼(太陽)―夜(月)」、「太陽(昼)―月(夜)」となり、括弧入れしたことで、物事の本質が現れてゆき「昼」と「夜」は、太陽と月の二項関係で生じる。この「昼」と「夜」の現象は、事実的なものになるが、昼と夜とが互いに限定しあうのは、世界である。何を言いたいかというと対称とは、一つの点、面、線を中心にして、両端にある二面、又は、二つの点が互いに向き合う事で対応するが、結びつきによって創ってゆくのである。「括弧に入れる」としたのも事実関係を動かしている物を探す事にあり、互いのつながりあう関係を見つけるために対称的であることを示そうとした。
 なぜに、対称的であるかと言うと,互いに対応し、同じ関係にあるからであり、対応しあう事のない非対称になれば、a=bならば、b=aが成り立つのではなく、aはbになるが、bは、aではない。対応しあう事はなく、優れているとされる事のみが、一方的に「よい」とされてしまい、人工的に分けた知識により常識が成り立ってゆく。非対称に対し、対称性はこのような優れた認識から離れると同時に、遅れているとされる認識を見直し、人工的に分かれた、又は分けた認識を見直すことになる。(Lator,1993)
 「昼―夜」の二項関係を要素分けしたが、「昼―夜」を太陽(昼)、月(夜)として還元しても対称的で、優劣に分けても、一つの事実、本質を結び付けてゆくには、両方を解釈し、理解するには優れた認識、優位性を打破し、対称的につなげる必要がある。
従来ある思考は、非対称的に成り立っており、互いに同一的にあることはなく、優れた認識、優位性によって成り立っている。先に挙げた「昼-夜」の対称的な二項関係は、互いに結びついているが、「昼」が優位であれば、「夜」は劣位な物となり、対称的な関係は成り立たなくなる。その逆も同じ事で、優劣があり、結ぶ事で、対等に扱う事ができる。時に、行き過ぎた判断、優位すぎる観念、認識の停止することで、思考がなされる。主に科学、哲学の思考を停止させてゆくが、すぐに行き詰る。対称性の同時軸は、共存するもの同士の間の関係にあり、時間的な継起はない。時間的な継起の軸が対称性を結び付ける点を、分けてゆくからで「綱引き」で例えれば、一本の綱を使い、二組に分かれて競う競技のようなものである。この同時性の軸の上で、互いに綱を引き合う事で勝負をすることで相互的に限定しあう。時間的な継起は消滅するが、時間的な継起性の軸によって分割されて行く為に、行き詰ってゆく。
主に、神話がいい事例を示している。神話は対称的な関係に基づいて語られてゆく。同時性の軸によるつながりの中で、対称性の空間によって教訓、心構えが創られる。周囲の世界に適応し、動植物、社会関係等、具体的な事物を用いる事により、対称的な同時性の軸の中で、神話は作られる。時間的な継起が止まった中で、動植物、社会関係との約束、つながりが創られる。神話的な思考が対称的な関係において人間が野生の動植物達に対し、一方的に優位になる事や、傲慢になる事にならないように、互いに敬意を持つことを語っていた。現実的ではないが、相互的で同一的なつながりによって創られていく。

b)器用な仕事(bricolage)
「器用な仕事」。対称的な関わりを創る時、器用な仕事は、周囲にある具体性に基づいて行われる。神話も同じで動植物、社会関係等、具体的な事物を用いる。具体性を用いてゆく事で、具体的な二項関係の論理で、創られてゆく。この組み合わせる作業において「器用な仕事」が成されてゆく。フランス語では、「器用な仕事」は「bricorage」と呼ばれている。フランス語で用いられているのは、「野生の思考(1970)」の著者であるクロード・レヴィ・ストロースによって考案された物で周囲の諸関係によって創られる偶然性によって関係が形づけられてゆくことで、関わりが明らかになってゆく。
この言葉は、「bricoleur」。動詞として用いられ、古くは、球技、玉突き、狩猟、馬術にも用いられており、偶発的な運動を指した。器用な仕事をする人、「ブリコルール(bricolerur)」は、玄人ではなく、素人であり、周囲のある物をありあわせで、組み合わせて創る。選ばれる材料は自分の周囲にあるもの、材料を用いて自分の考えを組み立ててゆく。自然認識の中にある具体的な事物を扱ってゆくが、人と環境との限定し合う関係の中で周囲にある雑多で、限られた多様なものが集められて偶発的に創られてゆく。
この行為は、具体性によって作られてゆくが、現代でも変わらない。
例えば、神話的思考は周囲にある具体的な事物を集めて、組み立ててゆくが、子供は具体的な事物を集めて、空想の話を構造化し、語っているようなものである。ある子供は、異なる映画や漫画に出てくるキャラクター同士を一緒に戦わせたらどうなるかと常に考えていた。彼は、具体的な事物を論理に用いる事で、異なる映画や漫画のキャラクターを対称的に組み合わせている。この対称的な関係は、異なるもの同士を、「戦い」によって組み合わせる事で神話的な思考を行っていた。このキャラクター同士を戦うものとして扱えば、事実的な事に他ならない。しかし、「戦う」行為によって、この神話的な思考は成り立っている。
 これらをまとめてゆくと、「器用な仕事(bricolage)」は、自分の周囲にある具体的な事物を集めてゆくことで、偶然的な話を組み立ててゆくが、自然的に認識していった事実を用いて組み立ててゆくが、それにより事物同士の対称的な関係が創られてゆき、構造化される中で、本質が明確となってゆく。神話的な思考は感情にそって具体的に作られてゆくが、それに対して、エンジニヤ、科学者は抽象性、計画性に基づく事で、必要に応じて道具を用いてゆく。
学問はそのような手段を用いる事で、新しい発見を求めてゆく。作られた理論を構造化し、形式的に考え、理性、判断、概念、定義、比例関係を用いてゆく。近代科学は、このような手段を用いてゆく事で、結果を出してゆく。それに対し、器用な仕事である「bricolage」は、具体的な科学であり、周囲にある具体的な事物を集めることで、神話的な思考が成される。互いに異なってゆくが、構造を用いてゆく事で対称的な関係により、抽象性は具体化され、具体性は抽象化されてゆく。形式的な思考が抽象的ならば、形相を本質としている。形相的に論理を考えてゆけば、抽象となり観念的で、質料が感情的なものとすれば、身体的な行為となる。二つが二項的な対立、極、相似、相違であっても、対称的な関係によって相互的に影響しあい、一つの形になる。
形とは形相、質料を対称的に繋げることで成立する。言い換えれば、理性であるロゴスと、感情であるパトスを総合したものである。形を創ることで、形式論理の抽象性は具体化され、具体性は、形式論理の抽象性によって筋道を立てて行くことで、形は相互的なものになる。「器用な仕事」は構造的に、周囲にある物事を集めてゆくが、形によるものである。形は、理性的なロゴスと感情的なパトスが結びつき、総合されてゆくが、二項的な論理の関係にあり、対立、極、相似、相違のつながりにより、対称的に結びつく。形をつなげているのは「一」あるが、「形なき一」であり、形の無き形である。(三木清、2001)「一」とは、事実を動かす意識のことを示すが、「形なき一」であり、二項的な論理の関係している構造の中で、形が創られてゆき構築してゆく。これは、対称的な関係によって結びついており、形は現象の間に全ての分類、関係、事実が現れて、つながることにより相互性が共有されてゆき、様相は追求される実践的な目的が含まれている。一つの軸であるネットワークが成立する。これらは、原理によって要素が創られてゆく事で、「形なき一」により動かしてゆく。

c)原 理
人は様々な思考、感情等の基礎的なプロセス、構造により論理として示す事ができる。精神科医イグナシオ・マッテ・ブランコは、分裂症の研究(分裂症における基礎的な論理―数学的な基礎;訳 廣石 正和<現代思想-24、10-12号 242/269>)を通して、人間の様々な思考が見出してくる。それを定式化した原理を紹介してゆく。この二つの原理は、二項論理より定式化され、動き、無意識によって示され、違反を記述するものである。この原理を通して、原理が定式化されており二頁的な論理により示されるが、不均質な物ではなく、同質的な対称性を扱うかのように、成立する。主に、アリストテレスの論理「aは非aではない」は、「aはb、bはa」という思考となり、違反する。これらの原理を用いて、対称的な関係について紹介していきたいと思う。(分裂症における基礎的な論理―数学的な基礎より)
 
Ⅰ.一般化の原理;無意識は個体(人間、事物、概念)を他のメンバーもしくは要素を含む集合もしくはクラスのメンバーのように扱う。無意識はこのクラスを、より一般的なクラスのサブクラスとしてあつかい、このより一般的なクラスを、さらにより一般的なクラスのサブクラスもしくは部分集合として扱われる。

一般化の原理は、個体をしばしば限定してゆく対称の原理にしたがい、動く
クラスは英語で人、物の種類、類を意味し、全体性をしめしている。個体(人間、事物、概念)をメンバーのように扱っている為に、この原理は個体であるクラスにしか興味がなく、物事の固体化してゆく方向ではなく、一般的なあらゆる可能性の内、いくつかを選び取り用いる事で対称の原理が適用される。

Ⅱ.対称の原理;無意識は、あらゆる関係の逆をその関係と同一のものとし、
同一化させるように扱う。言い換えれば、非対称な関係を対
称的であるかのようにあつかう。(図2参照)

具体的に言えば、「ジョンはピーターの兄弟」であり、「ピーターはジョンの兄弟」となり、扱われる。ジョンとピーターは、対称的な関係により扱われる事で、対等になる。この二人のつながりは、「兄弟」を中心にして成り立っており、「兄弟」を通して、ジョンとピーターはつながっているともいえる。
この原理は、部分と部分とのつながりにより、全体と一致し、非対称によって妨げられる時間的継起はなくなる。同時に同一化したように扱われるが、「扱われているため」に同一的な考えから、離れることもできる。

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 対称の原理は、一般の原理によって。対称の思考を「人」と「動物」の関係で述べれば、「人が動物、動物が人」となるのは、「人が動物に影響を与え」、「動物が人に影響を与える」ので、相互的に「人」、「動物」の持っている要素を圧縮し合うことで、扱われる。これらの原理は事実、要素を集めて行き、個体である類を扱ってゆく。自然的な認識の中で個体が起こり、留まる。一般化されてゆく中で、いくつかの可能性を選んでゆく。思考の原理は、事実同士をつなげる事にあり、「形なき一」を仲介して、二項論理をつなげてゆく。ここで説明される無意識とは、「形なき一」であり、形は多様性によって成り立っているが、対称の原理によって、多くの可能性から二項論理を選び取ってゆくので、残りの可能性は括弧付けされることで、保留されてゆく。対称的な関係では、部分と部分のつながりで全体と同一化する。同時に部分は全体と同一化する。
部分と部分のつながりで全体と同一化するのは、「人」と「動物」は互いに持つ要素を影響しあうことで、影響した、影響された関係であり、部分が全体に影響を与えることで、個体の要素を無意識である「形なき一」は、クラスのサブクラスのように扱うので、他人のことを自分のように扱う。
この関係を具体的にするために、神話での事例を挙げることにする。トンプソン・インディアンは、北米大陸西海岸に住み、狩猟を生業とし、山羊を狩っている。そのために、「人」、「山羊」の結婚を通して、狩人としての心構えが語られている。この神話の中では、狩人である人が山羊となり、狩人の妻である山羊が、人間となり、互いの部分が同一化してゆくことで、全体化している事をしめしている。

狩人の一行が、山に山羊を狩りに入った。父親と七人の兄弟からなる一行で、父親は、狩りの名人と歌われていたにもかかわらず、一頭の山羊を見つけられなかった。一行は山中にキャンプした。そのころ、末の息子は、まだ狩人になる訓練を受けている最中で、まだ一人前でなかったが、その晩彼らの前に現れた一頭の山羊を追いかけていってみごとに仕留めることができた。このとき、彼は、山羊の皮を剥ぎ、肉を切り分けているあいだ、掟をきちんと守って、祈りを捧げ、山羊の体をとても丁寧に扱った。
その作業が終わって、キャンプに戻ろうとしているときである。彼の目の前に、色の白い美しい女があらわれた。女は、自分の家について来るよう誘った。
(中略)
彼は立て続けに四晩、発情した。いつもはじめの三回は雄山羊に追い払われたが、四回目には勝って、すべての雌山羊をわがものにした。それがすむとまた一日中眠るのである。
四昼夜がたって、妻が弓矢を持って「後についてきなさい」といった。一緒に行くと、ほかの山羊たちもみんなでついてきた。一行は高い崖の頂きに着き、そこから一気に底まで滑り降りた。無事に全員が底につくと、山羊たちはみんな彼にさようならを言った。
妻は別れ際に言った。「さあ、あなたの弓矢がここにあります。あなたはもう立派な狩人ですよ。あなたには、山羊たちが人であることがわかっています。ですから山羊たちを殺したら、死体を扱うのに、敬意を払わねばなりません。あなたにはすべての雌山羊とつがったのですから、雌山羊はあなたの妻で、あなたの子供を産むのです。だから、決して射てはなりません。子山羊はあなたの子孫なのですよ。義理の兄弟である雄山羊たちだけを射なさい。彼らを殺しても、すまないと思うことはありません。なぜなら、彼らは本当に死ぬのではなくて、家に帰るだけなのですから。肉と毛皮はあなたがとりますが、本当の彼ら自身は家に帰るのです」。それから女は肉の包みを若者に背負わせて、別れた。
(中略)
兄弟たちは、狩りにでかけて、まだ戻っていなかった。そこで末の息子は、彼らを探しに出かけ、飢えて弱っている兄弟たちを見つけた。彼は兄弟たちをキャンプに戻し、一人で狩りに出かけた。山の中腹に雌山羊と、子山羊を見つけた。山羊に近づいて射ようとした、まさにその瞬間である。「私はあなたの妻ですよ。妻と子供を射ないように気をつけて!」。彼は恥じ入って、「ごめんなさい」と叫んだ。「あわてていたので、忠告を忘れてしまったんだ」。雌山羊は来て、彼を抱いた。「必ず、私の忠告を聞いてくださいね。もし聞かないと、もっと悪いことがおきますよ。二度と子供を射てはなりません。彼らがみんな、あなたの子供だと言うことは、知っているでしょう。決して雌山羊を射てはなりません。彼らはみんな、あなたの妻なのですから。」
雌山羊と子山羊はこうして去っていき、やがて見えなくなった。すると間近に雄山羊が現れた。じっと立っているのだ。その雄山羊を射て、肉を兄弟たちのところに持っていった。兄弟たちは言った。「雌山羊たちではないな」。「うん、雌山羊たちはすばやく逃げてしまったよ」と若者は言った。すると兄弟たちはこう言った。「嘘をつかなくてもいいよ。おまえが山羊たちと暮らしていたことや、雌山羊がおまえの妻で、子山羊がおまえの子供だってことは、僕たちはすっかり知っているんだ」。
まもなく彼らは父のキャンプに戻り、若者はそれから四日間狩りをして、たくさんの雌山羊を仕留め、たくさんの肉を持って、戻ってきた。
(「熊から王へ カイエ・ソバージュⅡ」より、p38~42 著;中沢 新一/講談社選書メチエ)
  
この関係を通して述べるのは、動植物、社会関係等の具体的な論理を用いて語っている。この神話では、「結婚」を中心にして、人と山羊の関係が狩人としての心構えを教えている。
「狩り」と「採集」を生業とする狩猟民にとっては、自然環境と向き合うことで生きている。言い換えれば、「器用な仕事」によって神話が思考し、語るのと同時に生活洋品も限られた自然の中に生息する動植物の中から、食べるもの、狩猟、採集用具となる材料等を見つけて、加工して扱わねばならない。
人と山羊の対称的な関係を通して、山羊は人間となり、人間の若者を山羊の世界に招き、山羊の毛皮を着せることで、山羊となって、夫婦となり、つながりを創ろうとした。同時に、夫婦となると同時に別れていった。同一な関係を創るのは密接であり、社会的なものである。狩猟、採集に求められるのは、関わる環境に対する細かな知識が必要で、経験する中で適応してゆく。経験する中で適応するためには、生活に必要な技術を思考してゆく。「器用な仕事」でも同様に、神話的思考をするのみに留まらない。周囲にある材料を集めてゆくことで、材料との会話の中で適正を理解してゆく中で、狩猟、採集に適応してゆく道具を作って行く。
自然環境と向き合う生き方は、自然の恵みに従って生きることに、等しい。神話におこる対称的な関係は、原理において行き過ぎたバランスに対して、歯止めをかけてゆき、同時に分離してゆく。「人」、「山羊」という一般化されてゆくクラスは、互いに夫婦の関係によって同一化されてゆくが、最後には離れてゆくが「夫婦」、又は「約束」の形によって互いにつながろうとする。
一方的に「山羊」を狩る事になれば、人間自身も生きてはいけないことになる。この対称的な関係により、人と山羊は、同一化して行く一つの軸を創ってゆく。対称は、時間的継起を止めてゆく事で一つの軸を創り、軸を循環させる。部分と部分の同一化により全体化することで円環の循環をしてゆく。

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