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創価学会

創価学会。聞くとウンザリする集団。彼らは自分たちで自力本願というくせに、その自力は集団行動しないといけないものと言っていた。

彼らは大先生を拝んでいた。
この人に自己陶酔するらしい。そのままならいいが、ターゲットを定めると執拗に追いかけてくる。約束もないのに家に来たこともあるし、外出しだしたときに鉢合わせにもなったことがある。

どこかで監視しているような事をしている。
そのくせ、説教することには熱心で、メールに説法を言ってくる。もういいよと反論すると、その送り主は逆切れして怒り出す。

そして熱心すぎる。他に昔いた踊り団体のリーダーは創価の人間でやりにくかった。やりにくいのに、女性を集めるのには長けていたと思う。女性の好きになる踊りだからだろう。

この人も踊り関連のメーリングリストに、創価の価値観を基にした話を出していた。そのほかは踊りのすばらしさを主張していた。高知の団体は素晴らしい。偉大だと。そう言って成功者のようにふるまっていた。

だが、懐が大きいように見えても、踊り以外の価値観には不寛容だったと思う。創価の人間は創価の価値観以外の宗教には不寛容で、自分たちが一番と思っている。

踊りの価値観と創価の価値観が入り混じっているので、始末が悪い。踊りの価値の宣伝も大変なのに、時々、創価の価値を入れてくる。

この人は私を友人としていた。しかし、そう見えても、創価学会に入れることしか考えていなかった。かわいそうな人間と見ていたからだろう。その視線は常に感じていた。他の人間は無邪気に接していたように見える。

同時に、私は人間関係の分析の図を作っていて、この団体の副ボスには封殺されていた。このリーダーにも、役に立たない、自己満など私に言ってきた。図式を作り始めであったのもある。その一方で評価するそぶりもしていた。(人間関係の分析は学生時代の失敗により)

元々は、この価値観を回避するために作ったところもある。この当時、田辺元の「種の論理」をやっていて、面白さにきずいていたし、この論理自体、宗教分析する要素も持っていたこともある。個種類の3要素でなり、個と種の交互媒介により、普遍の類を自覚する仕組み持っていた。類は自覚。種は共同体の社会を指し、個は種から生まれる成員となり、種と個の関係性によって類は作られる。

この論理をお守りにして、創価の人間と対峙した。リーダーはこういう知識を使いたがっていたようだ。

時に釈迦の様だとも言ってきた。意識したことはないが。
人のマネをしようともしていた。自分の作った団体で、尊敬されているのにな。

その後、トラブる事もあった。ただ、人の作ったものの都合のいい所をパクる能力にたけているから、始末が悪い。自己アピールや自慢話が強くて、嫌なので、距離を置くようにしている。組織を賛美絶賛する事には多大なことをしてた。

私は賛美絶賛する価値観には違和感がある。客観性がない。聞くだけで長所ばかり言っている。あの踊り団体はその背景もあり、踊りのヒエラルキー(踊りのインストラクターを頂点とする)と踊りに肯定された自己陶酔する女性たちがいた。

批判的になって言ったこともある。あの自己陶酔的な同調性には今も理解できない。宗教的な熱狂性が相まって、主観的になりすぎる。創価学会の価値観には煽る価値観はあっても、諸行無常の考えはないと思う。

どのみち彼らは誘惑してくる。入れば人生良くなる。この少しの差だと。それが勝利とでもいうのだろう。しつこく言ってくる。入っても選挙活動のコマにされて、騙されていくのがおちだろう。

創価の価値観は踊り団体の中で味わったが、理不尽さばかりだった。対等な価値観でないものを下に見るし、エリート気取りさもあった。このエートスが、踊りを教えるインストラクターの行動に色濃くあった。ダメ出しはしても、自分らにはされない仕組みには。トラウマになる価値観だ。




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