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昔いた沖縄のよさこい踊り団体

昔いた沖縄のよさこい踊り団体(2003-2006の事)

異文化性

個性の尊重、異文化礼賛しているが、知る限りの看板のみの建前。
実際は、よさこい踊りの個性と異文化を尊重しろという物だろう。
「個性の尊重」、「異文化礼賛という言葉」は述語になっている。そこに主語はない。主語は隠れている。
括弧に入っている。それは、個性、異文化礼賛(沖縄ほにやの)となり、踊り団体の主体性によって無意識に作られている。

それを尊重しない人間は飼い殺しにされる。
ズレてて、不満を持っている人間はなおさらに。そして何か協力しようとしても、その瞬間に横やりが入り、疎外されていく。

話がずれてても、何かに協力しようとすると、そうなる。
だからこの団体の人間は、踊りを与えてくれた高知の団体やよさこい踊りを賛美して、自己陶酔する。
彼らの言う異文化は「よさこい踊り」なのだろう。
「よさこい踊り」という異文化に対して個性は、与えられた「沖縄ほにや」という踊り団体の個性に写される、となる。

ただ楽しさだけを求めているのだから。
文化を作るとは言うが。

人間の共感でズレて疎外されれ、その一方で、団体は作業の募集をしても、気に食わない人にはやらさせない。連中が言うことは「変わればいい」としか言わない。=服従なのかもしれない。

素晴らしい理想に自己陶酔される方が多かったが、その自己陶酔性に賛美できない人は相手にもしないのだろう。だから、機嫌が悪いと、ヒステリックになる。「すごい」ということに理解してないことに対して。

踊りでダメ出しするのはいいが。ダメ出しするインストラクター側はなぜかダメ出しされない。いつも地位の高い場所から言うだけ。
まぁ、毎年高知に行って、よさこい祭りに踊る踊りを手にして、力の源泉に触れてそうなっているのだろう。

このような分析を言っても、関係ないさ、としか言わないだろう。
初めだけいい顔して、排除してくるのは予想できる。鋭く言われるのが嫌いな方もおる事だし。理想は大きいが発展性に乏しかったから。

感想

個人的な立場を言うと、仕事探す中でそこにいた。そして仕事するつてや訓練もかねていたこともあったが。それが失敗かもしれない。合いそうもなくて、やめることを2003年4月頃に言ったら、逆切れされた。それで止まったが、なじめなかった。大勢いる女性の尻に目が泳いだが、よさこい踊りに対しての過剰な同調性や陶酔性にはついてけなかった。

明るく見えるが、慣習的で、教師志望の人間が権限握っていて、教条主義体質が濃かったのもあるかもしれない。それによさこい踊りに対しての概念が乏しかった。「楽しめばいい」だけであとはズレの指摘のみ。
集団での踊りなので、そうなるのだろう。

団体への感想

趣味に対しての自己満足性と、募集された作業に対しての疎外性。
踊りでのダメ出しでの無気力。自己陶酔と賛美に対しての辟易さ。

在籍していた時には言語化するにも難しかった。やめて初めて言語化した。
不満になる事を言っても、言える環境になかった。言えばどこかで疎外されていく気がするし、人によっては視線で「言うな」と言ってくる。意見だけするなという女もいたが、意見して何が悪かったのだろうか。それこそ特権者意識だ。

踊りに対しての服従性が垣間見える。その女性は踊り団体でアイドル的な愛されキャラだった。自分も魅かれて、言いすぎて失敗もした。客観的に見ると純粋で優しそうに見えても、私に言わすと「人を心配して、憐れむ態度はするが、いざ頼ると手の平返したように避ける」となる。その上、無関心なことでも偉い人がすごいと言うと、態度を変えてくる。

八方美人な体質。はまり所が悪いとおかしくなっていく。
その女性は踊り団体のリーダーが好きだったようだ。当時は。あのあと仲良くならなかったらしい。

原因はあるかもしれない。推測だが、いた踊り団体が主催するイベントで、リーダーが何かの企画出してて、メンバーから反発されてた。内容は忘れたが、先に挙げた女性の態度も反発的だった。そのリーダーのある種の理想性についていけなかったか、合わなかったのかもしれない。

知人に聞いても何も言わないが、想像はできる。どうでもいい。





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