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幻想 踊り 共感 その外に

否定されると、否定している観念がよみがえる。
鬱気味になって出てくる。嫌な人、苦手な人に言われると出てくる。

「見る人も、踊る人も楽しく」。こんな共感性に煽られていった先にズレて言った。共感性は幻想だった。よさこい踊りのモットー言っても、それは共感しあう先の自己陶酔、同調しあうことにある。

この同調性。合わない。「他に行け」と言われても、他がない。この場所の引力にひかれて張り付く始末。共感できないものは弾かれていくが、そこにいる悲しさ。

彼等の共感性からズレると、生きづらさが舞っている。
「踊りに服従しろ」
そんな遠回しなソフトなささやきがやってくる。憂鬱な夜に、踊り子たちの陶酔者が監視をしてダメ出ししては、折っていく。
自己陶酔できないものの末路。

「楽しむなら、じぶんなりにしたら?」
そんな言葉で突き放される。
哲学の学びでの閃きはあっても、彼らには関係ない。
話がずれると、ボス猿のNO.2が抑えつけてくる。ストレスがたまる。
こちらの楽しみには関心がない。

「楽しもう 楽しもう」
(バカヤロウ!) そう叫びたくもなる。

皆が同調して陶酔。女たちは誰が誰かの個別の特徴は見えてこない。
みんながよさこい踊りの個性を尊重している。

ここの仲間意識は、よさこい踊りに服従する事が求められる。
ソフトに、ハードに。そこから外れると、忘れられてた生きづらさが音を立てて甦る。

踊りの監視者たちがダメ出しをして支配する。監視者たちはエライ人、誰にも監視されず自由に陶酔する。
それ以外は無関心で、対等でない他人を自己満足にする。
実際は彼らも踊りの身に満足し、それ以外は無関心だ。

空間の中、時間が生産されていく。どこまでも。その中で共感幻想が繰り広げられる。
私はここに牙をむいて、爪痕残す。

共感性の外、挑発される別の場所を探している。
奴らは無関心なものには不寛容で先がない。先を探さないとならないから。

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