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ゼレンスキー 米国議会での服装

ウクライナのゼレンスキー大統領の米国議会での演説があった。
その時の服装はスーツでなく、普段着に近いもので、グレーの服で首元の下にウクライナを象徴する槍のマークあった。
https://youtu.be/AUbLPa4N8S0?t=57

ウクライナのマークは別にしても、服装を見て驚いた。この戦争下で服装でアピールしている事。
ウクライナの歴史を考えると3つあり得る。
 
1.国民へ庶民派である事のアピール
2.キエフと親交のあった当時、東ローマ帝国で軍人皇帝となっていた皇帝のアピール。
3.クリミア半島をかつて支配していたクリミア・タタールという遊牧民の族長のアピール。

3つ書いた。見たまんまの印象である。

1は、国民に対し、同じ目線で政治をする、ロシアとの戦争を戦う事への表れと思う。

2は、ウクライナこそ東ローマ帝国の後継であることをアピールしている表れとみる。ロシアもモスクワを「第3のローマ」としているが、キエフのマネだ。東ローマ帝国はローマ帝国が東側に分離して、続いた国でキエフとの親交がロシアより古い。親交を結んだ当時の皇帝はマケドニア王朝のバシレイオス二世。彼は軍人皇帝で、あまたの戦場を駆け抜け戦い、領土を回復させた。同時に妹のアンナをキエフに嫁がせている。ゼレンスキーはバシレイオス二世の影響を受けているのかもしれない。軍人的側面としてであり、個の皇帝は質素だったと言う。ここでいうキエフは、ウクライナの事で、かつてキエフは自らをルーシと名乗っていた。

3は、ウクライナにあるクリミア半島にかつて遊牧民がすみ、クリミア・ハーン国があった。クリミア・タタール人が統治していた。
その遊牧民の族長としてのイメージ、アピールと思われる。この国はモンゴル帝国のキプチャクハン国の分派で、クリミア半島に定住し、1441年頃~1783年まで存在した。
この国はかつて、モスクワにも攻め込み、クレムリン以外を燃やしたと言う。(ロシア側からしたら、クレムリンの為に町を燃やして回避させたのかもしれない)
ウクライナ側にとっては、クリミアハン国の歴史は、ロシアとの戦争を戦い、守るための動機を支えている面があると思う。


1~3をまとめると、ゼレンスキーはウクライナの為にウクライナの歴史を体現させている。そして、服装で示しているのだろう。

同じ庶民としての国民へのアピール、親交を結んだ当時の東ローマ帝国の軍人皇帝としての指揮官、後継者の権威、クリミアハン国の族長としての権威。

これらの要素を背景にして、ゼレンスキーはウクライナのために戦っているのだろう。歴史が重なっている。

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