これを愛と呼ばせておくれ。
誰にも話せないことだってある。
自分をよく知る人に話せること、知らないからこそ話せることもよくあるけど、相手との関係性とか話したところで意味ないと思ってしまうと喉まで出かかってるのに、言いたくても言えないことがある。
そんな話って、自分の中だけで反芻して自分が自分のためだけに理解できてたらいいやと思うけど、3秒後には誰かに届いて欲しいという思いにもかられる。
それは愛について最近感じたこと。
誕生日が近くなると、自然に年齢だのこれまでの人生だのと懐古しつつ、直近の人間関係についても無意識に思考が巡る。
日々仕事に忙しく、休日は知人らと遊ぶ。
今流行りのものを身につけて、界隈の好きそうなスポットにでかける。
SNSには何不自由なく生きている様子が映し出される。
いいね!と受け取る無意味な数字や閲覧回数に己のチープな承認欲求が満たされるのを感じる。
でも、友達とお茶しながらも、映えた写真を選んでいる時もぼんやりと考えている。
行き過ぎたlookismの世の中で顔の造形や衣食住のセンスだけで判断される時代。
中身がどうあれまずは顔。
隣ではそんな浅はかな会話が繰り返される。
隣にいる人がどんな思いをするかも考えずに。
その良し悪しで人を選別してゆく若者を見て少し悲しくなる。
いつの世も盛者必衰の理の中でしか生きられない。
綺麗なものはいずれ綺麗ではなくなるのだ若者よ。
しかし1番その思考に支配されて手足を縛られて口を封じられているのは自分だ。
セフレのあの子はもう私の事を忘れて可愛い子に乗り換えたかな。
私は今の水準から綺麗でも可愛くもなくなったら誰も相手にしてくれないのかな。
誰かのための私であり無意識のうちに利用され、消費されている。
誰も私の事を思い遣ってくれない。
自分しか自分を労われない。
「誰も私の孤独に気がついてくれない。」
そんな思考迷路におちていて、自分の心の中をそっと覗くと仄暗い井戸の底から孤独が両手を広げているように感じて背筋が寒くなる。
「ほら孤独な僕とハグをしよう」
誰もがいうようにSNSには綺麗なものしか出てこない。キラキラした場所も友達も人間関係衣食住その他一切がまるごと嘘ではないけど画面には映し出されない日常に本当の私はいる。
誰にも語れない話の中に私の心はある。
誕生日の1週間まえ、元彼から連絡が来た。
「SNSで繋がったお友達も多くていらない心配かもしれないけど、お誕生日の夜、1人でディナーになってしまうなら、私でよければぜひ一緒に食べるからね」
ご察しの通り、誕生日は1人だ。
朝から自分のためだけにプレゼントを買いに行って
家族以外誰も気に留めない一日を過ごして
夜は1人分の惣菜を買ってアニメでもみながら食べるつもりだった。
付き合っていた時から、寂しくなっていないか?とことあるごとに連絡をくれる彼だった。
1番の心の理解者であり、いつも私の心そのものと向かい合ってくれていた。
そんな芸当ができるのは20年来の親友か母くらいだ。
綺麗なものではなく、ナマモノとしてのありのままの私の感情の発露に心を寄せていてくれていた。
少し歪でわがままで気まぐれな私の、仄暗い孤独に温かく両の手を広げてくれるのは彼だけだと悟った。
元彼ではあるものの、お互いに人生にはなくてはならい存在だと自認しあった相手だという自負はある。
これはそんな心と心の繋がりが生む愛のなせる所業だと感じた。
私が綺麗でも可愛くなくとも、見た目の綺麗さ以前に人間性という部分を見てくれていた彼を私は自慢に思う。
私もそんなふうに彼を愛せていたかな。
今日は彼は何を食べただろうか。
夜、何を想い眠るのだろうか。
あと数時間で齢が一つ増える私が、一年を過ごしたこの年齢の最後に考えたのは、誰にも言えない愛の話だった。
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