夜シカが来る
きっと一人で宮島に行ったのがいけなかったんだ。その夜から、もみじ饅頭がアパートの部屋の前に置いてあるようになった。もう三日連続で置いてある。もみじ饅頭、クリームもみじ、チーズクリームもみじ、やまだ屋のもみじ饅頭だった。にしき堂でも藤い屋でもない。いったい誰が、部屋の前にもみじ饅頭を。
四日目に、玄関の扉越しに僕は様子を窺った。息を殺して覗き穴から覗いていると、夜遅く、アパートの二階にある、僕の部屋の前の廊下に、にゅっと何かが現れた。覗き穴からの歪んだ視界で、僕は見間違いだと思ったのだけど、どう見てもそれは、人ではなく別のいきものだった。おそらくシカだった。僕は驚いたと同時に、どうしていいかもわからず、ただ息を殺して見ているしかなかった。
扉をへだてて僕の目の前にいるシカは、またもみじ饅頭らしきものを、あの長い首をもたげて僕の部屋の前に置いた。そして右を見たり左を見たり、大きな耳を動かして、周りの音を聴いているようだったり、いかにもシカらしい様子でしばらく居たかと思うと、脈絡もなく突然帰って行った。しばらく間を置いた後、僕は玄関の扉を開けた。いつもと同じ夜のニオイがした。もみじ饅頭が置いてあった。チーズクリームもみじだった。廊下を照らす蛍光灯が、一瞬切れて、また点いた。僕は何だか怖ろしくなって、扉を直ぐ閉め鍵をかけた。
どこに相談したらいいのだろう。警察だろうか。
「あの相談があって電話を掛けたのですが」「何のご相談でしょう」
「実はシカにストーカーされているんです。まだストーカーと決まったわけではないですが身の危険を感んじ—」
「ちょっと待ってください、もう一度よろしいですか」
「はい、シカにストーカーされているんです。シカが勝手にもみじ饅頭をおいて」
「よろしいですか、いたずら電話は切らせていただきますので」
「ちょっと待って下さい、本当にシカなんです、シカに」
というやり取りが僕の頭に浮かんだ。役所に行っても、同じことのように思えた。僕がシカにつきまとわれているということを誰も信じようとはしない。本当に困っているときは誰も僕を助けてはくれない。
宮島から僕の住む金屋町は、ニ十キロは離れている。宮島にひとりで行った帰り、僕はやまだ屋でもみじ饅頭を買った。シカはそれをどこかで見ていた。その後僕はフェリーに乗った。シカは海に入り泳いでそれを追いかけてきた。その後岸について広電の路面電車に乗り換え、市内に向かった。シカは僕の乗った路面電車を、走ってニ十キロ追いかけてきた。そして住んでいる場所を確認した。なんのために。
僕はひとり、真夜中に動物の行動原理を思い描いた。何か食べ物を住処の前に置いていく、ということは、つまりそれは求愛行動ということではないだろうか。それに気づいて、僕はあのシカに角が生えていたかいないかを一生懸命思い出そうとした。角は生えていなかった。僕はホッとした。僕は異性愛者なので、オスのシカから求められても、それは難しいことだった。
幸いにも休みだということもあり、僕はアパートの部屋から出なかった。しかし、部屋の窓のカーテンを閉め切っているのに、僕はどこかでメスジカからの視線を感じた。そんなところにいるはずもないのに、向かいのマンション、路地裏の窓。そこにあのメスジカがいるような気がした。そこからメスジカが、いまもじっと僕の様子を窺っているような気がした。朝になっても、昼になっても、僕は六畳のアパートの部屋でじっとしていた。しかし、僕は部屋の中にずっといるつもりだったが、冷蔵庫の中には何も入ってはいなかった。もみじ饅頭が四つあるが、それらに手をつける気にはなれなかった。
時計を見ると夜の九時だった。悩んだ末、まだ人通りがある時間帯なので、僕は近くのコンビニに食料を買いに行くことにした。そっとアパートの部屋の扉を開け、耳を澄ますようにして、辺りの空気を窺い、注意しながら歩いた。側にシカはいないようだった。あの先の角を曲がるとコンビニだ、というところまで来ると、その先の、コンビニが面している電車通りに、路面電車が一台停まっているのが見えた。
近づいて行くと、路面電車の中には、たくさんの男たちと女たちがいた。みな、スーツやブラウスを着ていた。スーツやブラウスを着た男女が、吊革などにつかまっていて、車内に点る明かりに照らされていた。服なんて着やがって、と僕は思っていることに気づいた。広電ワンマンカー宇品行き、と電車には書いてあった。路面電車に揺られ、家に着くと、ズボンやスカートを脱いで、性器を見せ、相手に尻を向けたりするのだ。
やがて、服を着た男と女を乗せた路面電車は、モーターの音を響かせて走り出した。社内の光を夜の街にまき散らしながら、僕の前から走り去って行った。遠く離れていく路面電車の窓には、人の影だけが映っているのが見えた。
真夜中、またシカがやってきたようだった。何か気配でわかった。僕は部屋の真ん中にいたが、扉の向こうにシカがいるような気がした。求愛行動の為に、またもみじ饅頭を咥えてきたのだろうか。宮島からここまでやってきたのだろうか。ニ十キロの道のり、往復四十キロを、海も渡って、マラソン選手、いやそれ以上だ。五日連続で、ここまでやってきている。扉に何かがこすりつけられる音がした。何か扉を舐めてもいるようだった。メスのシカの、鼻息が扉の向こうから聞こえた。