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草の根広告社/父子手帖(ニコニコチャンネル復旧までの臨時更新)

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「授業参観」

 授業参観が嫌いだった。学校での自分を親に見られたくなかったし、同級生に親を見られるのが恥ずかしかった。

 娘はぼくが学校に来ることをどう思っているんだろう。学校での自分を親に見られること、同級生に父親を見られることを恥ずかしいと思ってはいないのだろうか。

 参観したいという親としての気持ちと参観されたくなかったという子供の頃の自分の葛藤を抱えて、娘が毎朝歩いている通学路を歩いていく。唯一の救いは「ママは仕事で行けないんだ」と伝えたとき「えー、じゃあパパは絶対来てよね」という娘の言葉だ。「じゃあ」という接続詞に込められた「やるせない気持ち」や「二番手に対する落胆」が多少気にはなったが、少なくとも「来て欲しくない」という拒否感だけは今のところないのかもしれない。

 卒業したときはいつか親として来るなんて想像もしていなかった小学校の下駄箱。今となっては自分の背丈よりも小さいことに改めて驚く。校庭から昼休みの生徒達の賑やかな声が聞こえてくる。その姿を少し早く到着した親御さんたちが昇降口で眺めている。なんとなく娘は校庭にはいないような気がして、まっすぐ二階の教室に向かう。廊下の前に貼り出されたキュウリの観察日記。娘の絵と文章を新鮮な気持ちで読んでいると、半開きになった扉の向こうに娘の姿を見つけた。大勢の同級生と一緒に工作をしている。輪の中心ではなく、集団の後ろの方に仲良しの友達と肩寄せ合っているところに娘らしさを感じた。娘なりになんとか居場所を確保しているんだなと安心した。

 こんな風に親の目を意識していない学校での子供の姿を垣間見ることも授業参観の目的なのかもしれないと感じた。それともうひとつ。授業参観の真の意味に気づいたのは授業が始まった後だった。気がつくと娘の背中ではなく、先生のことをチェックするように見ていたのだ。授業が国語や算数ではなく道徳だったことも大きい。担任の先生が、どんな考えを、どんな言葉で、どんな風に伝えているのか。子供がどんな先生によって人格を育まれているのかを自分の目で確かめておくことはとても重要なことのように思えたのだ。親の姿を意識していつも通りではない子供の姿を見ることよりずっと。

 授業参観が嫌いだった。学校での自分を親に見られたくなかった。同級生に親を見られるのが恥ずかしかった。けれど親もぼくではなく先生を見ていたのかもしれないと思うと、恥ずかしいのはむしろ自意識過剰な自分の方だったのだ。

 かといって近い将来、娘に「授業参観来ないで」と言われても「気にしないで、見ているのは君よりも、先生だから」とは口が裂けても言えないや。

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