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「自己責任」とはなにか。-安田純平さん解放について-

  シリアで拘束されていた安田純平さんが解放された件、まずは命が助かって本当によかったです。以前、IS(イスラム国)が活発だった時は、拘束された外国人がかなり残虐に殺害されていましたから、ご家族やご友人もさぞ心労が募っていたことでしょう。
 こういうとき、外様の人間がどういう言葉を使うと適切なのかわからないんですけど、おめでとう、なのか、よかったですね、なのか。なんかしっくりくる言葉がなかなかみつからないんですが。とにかく、最悪の結果にならなかったということは素直によかったなと思います。

■「自己責任論」と批判合戦

 さて、ネット界隈では安田さんの帰国を歓迎する声と、批判する声が飛び交っております。大方の人は、安田さんという一つのアイコンを使って、自分の信条や価値観をぶつけ合っているだけのように思いますがね。本当に本人のことを考えるなら、今はそっとしておいて、おいおいなにか語る段になって初めて、議論を始めるのが適当なのではないでしょうか。

 そして今、ネット界隈で飛び交っている言葉が、「自己責任」という言葉。辞書で調べると、以下のような意味だそうで。

【自己責任】
自分の行動の責任は自分にあること。
            (『デジタル大辞泉』より)

 今回の報道や種々の意見を見ていると、この「自己責任」という言葉の解釈の仕方が、なんだか違うんじゃないかなと思うんですよね。

 そもそも、ジャーナリストとして紛争地帯の真実を伝えようという行動は、その勇気を称えられてしかるべきであると思います。銃弾や砲弾が飛び交う戦場に分け入って、危険と隣り合わせの毎日を過ごしながら、実際に紛争に身を投じる人々の生活を追い続ける。そうすることで、我々一般人は、異国の地で起こっている悲しい現実を知り、それに対して世界は何ができるかということを考えることができます。とても大切なことです。
 安田さんを擁護する方の多くは、ジャーナリストという職業の重要性についてある程度理解していて、安田さんの活動を評価しているのだと思います。メディアが擁護するのも、基本的には同じ立場であるために、価値観を共有しているからでしょう。

 では、なぜ本来称賛されるべきジャーナリストが批判の対象になるのか。それは、安田さん自身が過去、twitterで発言した内容が問題だからです。

シリアのコバニには欧米からもアジアからも記者が入っていて、フェミニストの若い女性やら学生メディアやってる大学生やらまで集まっているが、日本は経験ある記者がコバニ行っただけで警察が家にまで電話かけ、ガジアンテプからまで即刻退避しろと言ってくるとか。世界でもまれにみるチキン国家だわ。
― 安田純平 (@YASUDAjumpei) 2015年6月19日 
戦場に勝手に行ったのだから自己責任、と言うからにはパスポート没収とか家族や職場に嫌がらせしたりとかで行かせないようにする日本政府を「自己責任なのだから口や手を出すな」と徹底批判しないといかん。 
― 安田純平 (@YASUDAjumpei) 2015年4月3日

 ジャーナリストというのは本来、反権力といいますか、権力によって踏みにじられる弱い人間の側に立つ人が多いですから、日常的に反体制的な発言が出てくるのは致し方ないのかな、とは思います。現に、安田さんがシリアで取材していたのは、アサド政権に対抗する反体制派の人々であったようですし、権力によってないがしろにされる個人の悲哀を、これでもかというほど見てきたのでしょう。

 人の内心については想像の域を出ませんが、上記の発言をした頃の安田さんはジャーナリストとして戦地に赴きたいという信念が強くあって、邦人の安全確保のためとはいえ、渡航を思いとどまらせようとする政府に対して不満が募っていたのではないかなと思います。それゆえに、「チキン国家」「徹底批判」という強い言葉を使ってしまったのかもしれません。でも、強い言葉は人の目を引くとともに、反感を買うこともあります。

 そして、やはり使用されている「自己責任」という言葉。

 安田さんはおそらく、現地に行って危険な目に遭う可能性があることについては、ジャーナリストという仕事を選んだ以上、ある程度は覚悟していたでしょう。公開された日記の文面からは後悔する様子も垣間見えましたが、死んでもしょうがない。自分で選んだ道、すなわち「自己責任」であるという意識は、人よりも強く持ってはいたのだと思います。解放後のコメントなどからは、自分が国家の力も影響して救い出された、という「事実」に対して、本来権力者を批判すべき自身の立場として、こうなるのは避けたかった、という意地や苦悩というものを感じます。

 とはいえ、安田さんは「自己責任」と強気で言い放ったにもかかわらず、シリアで武装勢力に拘束され、多くの人の助けが必要な状況に陥ってしまいました。これに、twitterでの「強い言葉」に反感を持っていた人々が、「あんなデカい口を叩いていったくせに、情けなく助けを求めるのか」「自己責任と言って渡航したのだから、助ける必要などない」という批判が噴出することになったわけです。

■「自己責任」の範囲が違うのではないか?

 この「自己責任」という言葉ですが、今回の一件の場合、どこまでの責任を自分で負うことを指すのでしょうか。

 今回、「自己責任」=「何があっても他者や日本政府に責任を求めない」ということであると解釈している人が多いように見えます。でも、海外で邦人が武装組織に拘束された場合、拘束された人間の思想信条、過去の発言や行動がどのようなものであれ、「見捨てるという選択は絶対にありえません。今回、日本政府は何もしなかった、という批判をしている人もいるようですが、さすがにそんなわけはないと思います。トルコやカタールなどの周辺国とも連携を図りながら、いろいろなルートを模索していたはずです。

 積極的に身代金を用意する、ということは日本のテロに対する方針には反していることですし、海外に自衛隊なり警察の特殊部隊なりを派遣して武力で救出するなんてこともできませんから、解放までに時間がかかるのは致し方ないことだったのではないでしょうか。

 つまり、安田さんに課せられる「自己責任」とは、現地に赴き、取材中に銃弾に当たってケガをしたり、場合によっては命を落としたりしたとしても、誰にもその責任を問えないということ。そして、武装勢力などに拘束された場合、日本政府が解放のために努力したとしても、必ず救出できるとは限らず、場合によって殺害されたとしても政府の責任は問えないということ。この二点だと思うのです。

 ですから、批判する方たちの言う「自己責任なんだから救出の必要はない」という解釈はそもそもの前提が間違っているのではないでしょうか。これは、安田さんの過去の発言にもあるようですが、政府は、いかなる事情があろうとも、海外で拘束された邦人の救出に最大限の努力をする責務があるのです。「自己責任論」を語るのであれば、まずその責任の範囲から考えるべきです。

■対立の種になるのが安田さんの本意なのだろうか?

 メディアやネットを見ていると、「自己責任論」という錦の御旗を掲げた心ないバッシングを多く見かけますが、同時に、バッシングする人に向けた攻撃的批判もよく見かけます。そういった対立を生むことは、はたしてジャーナリストとしての安田さんの本意なのでしょうか?

 安田さんが取材していたシリア内戦では、「二つの正義」と、その正義を中心にたくさんの思惑が引き込まれ、内戦という災いを生んでいます。その結果、死んでいるのは弱い人たちです。
 アサド政権も、反体制派も、それぞれにそれぞれの正義を掲げています。政権側にとっては「治安維持」という正義。反体制派は、「腐敗した権力への反抗」という正義です。ただ、相反する二つの正義のどちらが正しいのかを論じることに、あまり意味がないのではないかと僕は思います。
 ある視点ではどちらも正しくて、またある視点ではどちらも正しくない。正しい、正しくないについていろんな人が互いに攻撃しあっても、結局のところ何ももたらさない。たくさんの人が銃を持って殺しあう現実が生まれているだけです。

 安田さんのドキュメンタリーの一部で、反体制側の民兵の前職を聞く、というシーンを見ましたが、みなさんレストランのシェフだったり、牧羊をしていた人だったり、本当に普通の、市井の人。そういう「普通の人」が、なぜ人を殺すために武器を手にするのでしょう。それは「正義」のためではないのかなと思いました。

 正義に殉ずると言うと一見崇高なものにも感じますが、結果として、正義の名のもとに多くの人が死んでいきます。人を殺す口実や理屈となる「正義」に、果たしてどれほどの価値があるのだろうか、と思ってしまいます。

 誰かが間違っている人がいるから人が死ぬのではなく、相手が間違っているのだとお互いが言い合う「対立」こそが、人の命を奪う状況を生むのではないでしょうか。

 人の考え方は千差万別で、絶対的正義などというものはこの世には存在しません。絶対なる正義というものが存在しえないからこそ、我々は「法」というルールを作り出したり、「倫理」という漠然としたものを考えるようになったりしたわけです。安田さん自身もそうですし、批判する人も擁護する人もそうなのですが、自分の考えこそ正義と強硬に主張することは、対立を生むのだ、ということを自覚する必要があると思います。その対立こそが、戦争や分断を生む。すべての悲劇の原因になるのです。

 「自己責任論」を間において、お互いの考えが間違っている、と言い合うことは、何の価値もないばかりか、対立を生む害悪でしかありません。感情的な言葉のやり取りは、決して議論を深めません。

■対立を避けるために考えなければいけないこと

 安田さんを批判する人は、怒りを持って批判する人もいれば、半ば揶揄しているだけのような人など様々だと思います。ただ、その批判の多くは、根拠のはっきりしないものばかりです。武装勢力と結託してわざと拘束され、身代金をせしめているのではないか、といったものですとか、実は日本人ではなく韓国人なのではないか、といったものまで。事実と反している事象、事実かどうかがはっきりしていない事象に対して批判の言葉を浴びせるのは、もはや「批判」ですらありません。誤報や誤解で間違った認識を持ってしまうことはあるでしょうが、自分が批判しようとしている事象が本当に事実なのかは、せめて能動的に確認しようとしなければならないと思います。

 また、批判者は「自己責任」という言葉を使いますが、その言葉の重みをもう一度噛み締めなければいけないと思います。その言葉を使って安田さんを批判している人の中のどれほどの人が、その言葉が自分にものしかかっているものなのだ、ということを理解しているでしょうか

 顔も見えない、相手からの反撃を受けないと思って好き勝手言っている自分が、急になんらかのトラブルに巻き込まれて批判を受ける側にだってなり得ます。何気なくtwitterで発言した言葉に尾ひれがついて、事実でないことが事実とされて拡散し、結果、どう説明しても晴らせない汚名を被る可能性だってあります。それによって、家族や友人を傷つけてしまったら、どうやって責任をとるのでしょう。自分がやっていることが自分に返ってきたとき、自分だけで責任をとることができるでしょうか。

 本当に覚悟を持った自己責任論者であれば、きっと軽々しく「自己責任」などという言葉を使えないのではないでしょうか。「自己責任」の名のもとに人を叩いているという事実こそ、「自己責任」という言葉を理解していない証拠なのではないかなと思います。

 安田さん自身は(おそらく)聖人君主ではないのでしょうし、発言も問題がないわけではない。ですが、その安田さんを愛して結婚した奥さんもいらっしゃるわけですし、ご両親もいる。どんな理由であれ、三年半も離れて暮らして、苦しまないわけがない。そういう人たちがいるにもかかわらず、軽々しく「自己責任なのだから助けなければいい」と言い放つことは、当事者の側に立って考えるという感覚の欠如ではないでしょうか。

 では、逆に安田さんを擁護している人はどうでしょうか。僕が見ている範囲では、批判に対して強い言葉で反論しているケースが多いように思います。批判している人の多くが保守的な考えの持ち主に見えるためか、なぜか政権批判を繰り広げている人もいます。

 ですが、そういう強い言葉を使って人を非難して、安田さんに対する考えを変えさせることができるでしょうか。より対立の溝を深め、安田さんに対する悪い印象を強めるだけです。なんの意味もない。自分のいら立ちや怒りすら抑えられない人に、人を批判する権利があるでしょうか。
 バッシングしている人たちも、まったく何の理由もなく叩いているわけではないのです。まず、安田さんがどうしてバッシングを受けるのか、ということに対して、「自分と視点が違う人はこう感じるのだな」という理解が必要です。

 バッシングの原因の一番は、前述のシリア渡航前の安田さんの言葉に対する反感だと思います。やはり、あれだけ渡航注意をした政府を罵倒してシリアに渡り、結果として拘束されるという「失態」を犯したわけですから、当然反省してしかるべき、と多くの人が思うでしょう。過去にイラクでの拘束経験があるということも、その反感に拍車をかけています。

 以前、ISに拘束された湯川遥菜さんが殺害されたとき、湯川さんの父親は誰かに責任を擦り付けるような発言は行わず、自らの悲しみを素直に述べ、尽力してくださったすべての人に感謝をします、といったコメントしました。きっと、多くの人が潜在的に安田さんやそのご家族に求めているのは、そういうコメントなのでしょう。
 潔く自分の非を認め、人に感謝し、悲しみや喜びを受け止める。安田さんがいくら反体制的思想の持ち主とはいえ、自分を救出するために尽力した政府関係者というのは必ず存在するわけですから、感謝の気持ちを持つべきである、というのは人として当然の感覚かなと思います。「政府のそれは善意ではない」という人や「同調圧力」などと反論する方もいらっしゃるでしょうが、それは所謂「エクストリーム擁護」という印象をあたえるだけで、あまり意味があるとは思えません。

 安田さんが自ら「韓国人です」と発言したことがことさら取り上げられたのも、当事者である安田さんの言葉や考え方が一般的な日本人の感覚としては受け入れがたいこともあり、一部、反韓感情を持つ人たちと結びついて「やっぱり(我々と同じ)日本人じゃなかったんじゃないか」という一つの解のようになってしまったからではないでしょうか。 

 もちろん、今後、安田さん自身が、自分の過去の発言について反省の弁を述べるなどのことをするかもしれませんし、そうなればバッシングも多少は落ち着くでしょう。バッシングする人の多くは、「なぜそうなるのか?」がわからない点をもとに批判するのです。なぜ三年半拘束されてケガ一つなく無事に帰ってこれたのか?なぜ、日本語で「韓国人」と名乗ったのか?なぜ、一度拘束されたという過去があるにもかかわらず、同じ過ちを繰り返したのか?
 もし、安田さんを擁護するのであれば、批判者がなにを批判しているのかを受け止めて、それらに対して冷静に、理論的に説明することが必要です。反論に筋が通っていれば、「そういうことなのか」という納得を生み、バッシングは沈静化していくでしょう。もちろん、それでも揶揄する人たちは一定数いるのでしょうが、世間の大半が納得すれば、批判の矛先はいいがかりのようなバッシングをする側に向きます。

 ジャーナリストの活動の価値を知らない一般人が多いのは仕方ないことなのですから、批判に批判で返す前に、まずはジャーナリストとはどういう存在なのかということを丁寧に知らしめていくことが、安田さん、果ては世界中のジャーナリストたちの立場を救うはずです。某ニュース番組では、冒頭でいきなり批判者を「情けない」と切って捨てていましたが、そういうことを言えば言うほど安田さんへのバッシングに変わるのだ、ということがなぜわからないのかなと残念に思います。

■自己責任論というのは、責任の放棄である

 結局のところ、「自己責任」というのはなんなのでしょう。今回の場合は特に、僕は「責任の放棄」に他ならないのではないかと思います。

 例えば、安田さんが使った「自己責任」という言葉は、「自己責任ということにしていいから、俺の好きなようにさせろ」という意味合いでした。でも、実際に拘束されてみると、安田さん一人の力では自己解決をすることができませんでした。当たり前です。
 結果、少なくない数の人が動き、もしかしたら少なくない額のお金も動いたかもしれません。仮に、(政権側の)シリア軍による戦闘行為によって救出されていたらどうなっていたでしょう。戦闘で命を失った兵士やその家族に対して、安田さん個人がどんな責任が取れるのでしょうか。また、政権側に借りを作ってしまったら、アサド政権の正当性を担保することに利用され、反体制派に立って報道することもできなくなってしまっていたのではないでしょうか。

 個人の力で負うことができる「責任」など、たかが知れている。安田さんは、自分の能力ではどうにもならないリスクを負わなければならないこと、そしてそのリスクをできる限り確実性のある方法で避ける、というジャーナリストとしての「責任」を、「自己責任」という言葉で放棄してしまったわけです。
 政府に渡航を止められて、それでもどうしても現地に赴きたいと思ったのであれば、これだけのリスクヘッジをしている、ということを政府側に突きつけて納得させなければならなかった。そして、そう言って渡航した以上は、無事に帰ってこなければならなかったのです。それをしなかったしできなかった、ということは、やはり批判されてしかるべきですし、真摯に反省すべき点ではないでしょうか。

 では、安田さんを批判する人たちの「自己責任論」はどうでしょうか。
 そういう言葉を使う人の中に、安田さんのジャーナリストとしての仕事内容を知っている人がどれだけいるでしょう。また、シリア情勢や、内戦で死んでいく人たちがいることについて、真面目に考えようという人がどれだけいるでしょう。
 日本という平和な国で安穏とした生活をしていると、外国で起きている内戦など、遠い世界の出来事か、フィクションのように感じてしまうのかもしれません。俺たちは平和だから関係ない。勝手に戦争している奴らが悪い。そして、そんなところにわざわざ自分で行くやつは、なにが起きても「自己責任」だ。
 でも、実際日本で内戦が起きたらどうなるでしょう。例えば、(ないとは思いますけど)独裁政権が成立したり、他国に侵略されたりして我々が被支配民となってしまって、誰にも知られない中で虐殺されたり、人権を奪われたりしたら。外の世界の人に知ってほしい、関心を持ってほしい、と願わないでしょうか。
 危険地帯に行くやつは自己責任。そういう意見は、危険地帯に行ってまで大切な真実を伝えよう、というジャーナリズムに対する「無視の姿勢」であり、同じ地球に済む人間として、世界で起きている悲劇を考えるという「責任」の放棄ではないでしょうか。

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 結局のところ、「自己責任論」というのは、論ずることに意味があるのだろうか、と疑問に思います。いや、どこまでを自己責任論とするのか、真剣な議論は必要なのかもしれません。でも、単なる「責任の放棄のための方便」となっている現状では、自己責任とはなにかを深掘りしたところで、問題の本質から遠ざかっていくだけのように思います。
 ジャーナリズムの意義。個人の生命の価値。危険を冒してまで真実を追求するという行為の意味とリスク。いくら議論しても、きっと一つの正解があるわけではないでしょう。でも、それを考えるということは、大切なことだと僕は思います。

 安田さんに対しては、今後も評価と批判とが割れて、いろいろな意見が飛び交うでしょう。でも、「自己責任」で片付けるのではなく、この事件を機に、「本当に考えなければならないこと」に世間の耳目が向いていくことを願ってやみません。


 

小説家。2012年「名も無き世界のエンドロール」で第25回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。仙台出身。ちくちくと小説を書いております。■お仕事のご依頼などこちら→ loudspirits-offer@yahoo.co.jp