小学校の「さん付け」~教員の努力とコメンテーターの発言~
「あだ名」によるいじめ防止のため、すべての児童を「さん付け」で呼ぶルールを決めている小学校に対して、コメンテーターたちが
「いじめの根本解決にはならない」
と発言し、自分だったらこうするなどの個人の見解を述べているテレビを見ました。
僭越ながら、日夜、子どもたちのために身を粉してがんばっている教員の方々の気持ちを代弁すると
「そんなことはわかっています」
だと思います。
世の中、全員が教育評論家
日本人すべてが義務教育という制度で教育を受けた経験があるため、誰でも教育に関して意見や考えをもちやすく、テレビ業界の人でなくても今やSNSで誰でも自由に発言することができます(今まさに私がやっています)。
エビデンスベースで考えたい私にとっては、「それぞれ個人の経験は尊重しますが、個人の経験が全体を表すとは限らない」ということを理解していますので、テレビのコメンテーターが何を言おうと気にならないのですが、それに影響される一部の方々が小学校に対して悪い印象をもってしまう可能性があるので、双方にとって気の毒で仕方ありません。表現の自由が認められているので、自由な発言は問題ないのですが、せめてしっかりと取材してどういった経緯で「さん付け」になったのかを確認してほしいものです。
努力せず、安易に小学校が決めたという世論になってしまうと、本当に必死に子どもたちと向き合っている教員の方々が虚しさを感じてしまわないかと心配してしまいます。やり方について賛否両論はあっていいと思います。簡単に「ダメだ」とレッテルをはってしまわないで、建設的な意見で学校も子どもたちもより良い方向に進めるようになることを願うばかりです。
「自分たちで呼び名を決めたらいい、自己申告制にしたらいい」などの提案
また、このようなコメンテーターの意見もあります。建設的な意見として私もいい考えかもしれないと思いましたが、もしかすると小学校の先生方はそれらを試した上でうまくいかなかったので、苦肉の策として「さん付け」ルールになった可能性も考えられます。しかも、このコメンテーターの提案は「いじめの根本解決にならない」という意見に対する解決策ではなく、「さん付け」の代案ですから、本質から離れていることに気づきたいところです。
「さん付け」ルールを決めた理由を元教員の私が推測すると、恐らく
・Aくんはあだ名OK、Bくんはダメなどの個別対応が難しい
・「自分だけではなく、みんながあだ名を言っている」という意見に対して
そのみんなを特定するのが困難、さらに、みんなが数名だった場合の対応
が難しい
・「うちの子だけですか?」「嫌がらせのつもりで言っていない」「Aくん
は良くて、Bくんはダメというのはなぜ?贔屓?」「別にあだ名ぐらい」
「わかりやすくルールを作ってほしい」などあだ名に対する認識が千差万
別
などが考えられ、平等性を保てない状況が想起されます。40人クラスの場合、40通りの考え方があり、それを担任1人がすべて個に応じて対応するのは不可能に近く、全員の考えをルールに加味すれば、かなり細かなルールになってしまい、結局誰も把握できない状態になってしまいます。最終的に全員が少しずつ我慢するところのルールに決めざるを得なかったというところでしょうか。
学校がより良い方向に進むためには…
正義、悪の単純な対立構造を安易に作らないことです。普段の些細なトラブルの場合、双方の誤解から始まっていることが多いので、そこで
「あいつが悪い」「自分は悪くない」「あいつだけ謝れ」「自分は正義」
などと考えてしまうと、解決したとしてもしこりが残ってしまいます。もちろん、悪質なケースの場合は論外ですが…
子どもも保護者も教員も(私も)全員、完璧な人などいませんので、トラブルが起こったときは互いに非を認めあい、個人ではなく集団として高め合える関係性を築くことが大切だと思います。特にトラブルが小さい些細なことであればあるほど解決しやすいので「これぐらい大丈夫か?」「この程度で?」と思わずに、解決しやすいうちだからこそ時間をかけて話し合いをすれば、より良い関係性を築くことができるはずです。子どもたち、保護者の方々、教員の方々で支え合う関係性ができれば、学校がより良い方向に進むのではないでしょうか。とはいえ、一朝一夕でできることではないので、なかなか難しいと思います。
「さん付け」ルールなどの枝葉部分に注目するのではなく、本質に目を向けるコメンテーターの意見がもっと増えれば、教育界もより健全になるのではないかと感じました。
日々、教育に携わるすべての方々へ敬意を払い、考察を終了します。
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