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【小説】超絶技巧練習曲

「それなりに有名な練習曲さ。生の演奏を聴く機会は少ないかもしれないけれど、録音されたものはよく流れるから、一度くらいは耳にしたことがあるのではないかと思う」
 つばめは舞台へ登った。全員が観客席に座り、彼女一人だけが舞台の左手にあるピアノの椅子に座った。彼女は背骨を張り、柔らかい首を少しだけ前に傾けていた。そして冷徹な視線を鍵盤に向けた。
 完全な沈黙を確認して、燕は息を吸い、吐きながら高音のけんを小さく、多数鳴らした。次なる吸気に合わせ、緩やかな調子で静かに、全体として高い音の、小さい鐘が無数に鳴らされているような、低音よりも高音が多い複雑な音色を奏し始めた。比較的多い打鍵により多様な音が泉から湧くように、ささやかなうねりに乗って穏やかに響き渡った。音律には明確な調子が有り、全くの高音と、それよりは低い高音の旋律が短い間隔で繰り返された。鐘や教会を思わせる厳かな雰囲気を帯びながら、全体的にどこか人間的な情感の流れを伴っていた。全く淀みなく唄う様に弾く演奏者は、一方で目を細めながらも世俗性を棄てた厳しい表情で、冷たく、しかし極めて躍動的な身体動作で音律を支配していた。相近そうきんの高音で構成された音律が滑らかに、多彩な間隔で、多数の音階で、高音の主旋律と相対的低音の副旋律とで調和を以て、人間的な感情を潜ませ、聖職者の慇懃さ、つまりは作為性が隠され切らない冷静さを含ませながら流れた。高音と準高音とは両者共絶えず、一方の音階が優勢で奏される時も鳴り止むことがなかった。準高音で主題が弾かれる間にも高音が小さな音量で、主題より速い拍で止めどなく打ち出され続けた。規則的に、最初の主題を思わせる旋律に回帰し、全体に秩序が与えられた。しかし次第に拍が速くなり、それでいて打鍵の数も初めから変わっていないか、寧ろ増えているようにさえ思われ、全く多様な音素が複雑に、次々と連続して瀑布の如く噴出し、一音一音を気に止めて聴くことは不可能となった。それでも全体的に完全な調和性が付き添っていた。已然無機質な表情で、聖俗の両極と異なる次元において統御を維持する演奏者は、大瀑布を成す極小の飛沫一つ一つを掌握し、一つの音が他の音や全体にどう作用するか計算を尽くし、数え上げれば吐き気を催す無尽蔵の音素間の相互関係を完全に支配していた。彼女は自然界に潜む美と人間性の完成した発露を現出させていた。最後高速拍に、最初の主題から構成される一連の繰り返された体系を完璧な調整の下、自然素朴に創出した演奏者は、演奏を終えて、完成させた創造者の姿を帯び、完全な沈黙の場に独り君臨した。


 お読みいただきありがとうございました。
 今作は『薄暗い鍵盤組曲』という製作中の長編小説に書き込む予定の一節です。公開済みの部分は以下よりご覧ください。

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