見出し画像

属性で人を嫌うことは非効率だからしないことにした

ネット上には誰かをこういう人間だと決めつけるためのレッテルが溢れていて、見ているだけで疲れてしまうことがある。
フェミニストだとかヴィーガンだとか人種だとか支持している政党とか入試方法とかいろんな一つの基準によって馬鹿にした名前をつけて怒ったりからかったりする。

私は性差別に反対する人間だからフェミニストだ。でも、私とは違うフェミニストの発言に同意できないこともある。でも、考えが違うから私かその人かどちらかがその属性を奪われて偽物になる訳ではない。違う本物にすぎない。
そして私にはフェミニスト以外の属性だってたくさんある。オタクだし、アンチ反知性主義だし、日本国籍だし、女だし、若者だし、学生だし、クリエイターだし、根暗だし、ポジティブだし、地球球体論者だし、属する括りをあげたらきりがない。それに今までなんども所属を変えてきた。これからも必ず変わる。

私は今、レッテルを貼りがちな差別的な人間という所属を変えようとしている。
出発地点が低かったのでまだまだできていないことだらけだ。
私は、明るい人間を見れば悩みなく幸せで暗い人間を嫌うに決まっているとレッテルを貼る。耳障りの良いことを言って行動を起こさずに集合写真ばかりあげて「水面下ですごいプロジェクトが進行中です!」が口癖の人を見れば志がないとレッテルを貼る。異性に愛想を振りまいて思わせ振りな行動ばかりする人は本当に人を愛することなんてできないとレッテルを貼る。
でも、私はそういう人を全員見た訳でもなければ、その行く末まできっちり追ったことなんてないのだ。
それどころか、北関東の男は女の容姿に厳しいとか顔が平面的な女は男に媚びるとか根拠のかけらもない偏見を抱いていたことすらある。これは私の恥じるべき黒歴史としか言いようがないのであえてこの場で告白する。サンプル数はそれぞれ4程度だ。そんなn数で対照群もなしによく結論づけたものだ。ハゲタカ学会にだってリジェクトされるにちがいない。恐らく、ただ嫌いな奴の悪口にバリエーションをつけたかっただけだ。馬鹿らしい。

数年前までミスコンに出場するような華々しい女性は私のような地味な人間に対して恐ろしい感情を抱くか、もしくは存在が見えないものと決め込んでいた。
万人受けは狙い難い容姿を引っさげ、酔った勢いで応募したことがきっかけで今のミスコン出場者が多数在籍する事務所に入ったのが約3年前のことだ。
結論から言うと出会ったミスコン出場者、皆、めちゃくちゃ優しかった。勿論、私の想像していたような人もいるだろう。優しい人も優しくない人もいる。ミスコンに出ていない私のような人間とまるで同じだ。

学校の教育方針とウマが合わず不登校だった私は教師という存在を地獄の使者とほぼ同一視していた。私に酷いことばかり言ってきた人が何人もいたからである。
しかし、仕事を始めてたくさんの教育関連の仕事をいただいた。幼い私が蛇蝎のごとく嫌っていた属性の人たちは私を尊重してくれた。私自身も尊敬できる教育者と出会い、今日 勤務先の塾で8年目の契約を更新してきた。もはやちょっとしたベテラン先生である。

私は教師が嫌いだったのではないのだ。あいつとあいつとあいつとあいつがたまたま教師だっただけにすぎないのに「あいつら」が嫌いと「教師」が嫌いを間違えていた。私がもっと愚かだったら、あいつとあいつとあいつとあいつが嫌いなばかりに有機物が嫌いだと思い込むところだった。いや、むしろその方が人を傷つけずにはすむかもしれない。

SNSが発達した今、「嫌いなあいつ像」は膨らみやすい。
いろんな人の不快感や恨みを雪だるま式にまとってどんどん大きくなる。
生きていると嫌いな人はできる。その嫌いな人は間違いなくなんらかの属性をまとっている。嫌いな人のうちに共通点となる属性があるとそれが諸悪の根源だと思ってしまう。勿論その可能性は否定されるものではないけれど、その属性の名札を見た瞬間に脊髄反射で憎む必要はないと思うのだ。
憎むのには莫大なエネルギーがいるし、好ましい誰かを好きになる可能性を捨てることになる。人を憎むなら一人一人憎まないと損をするのは自分なのだ。
でないと私は恋人をいじめた男を憎むために慶應義塾大学レスリング部の罪なき知らない人々を余分に憎んでしまうことになる。そんなの無駄としか言いようがないだろう。

考えの違いだって同じである。
一人の人間の中にだって色々な考えや価値観があるのだから、好きな人だからと言ってその考え全てに同調しなければいけない訳ではないし、嫌いな奴の言った一理あるなと思った発言の粗を探す必要はない。それに自分の考える正しさも他人の考える正しさも流動的なものだ。

何かの属性の人100人と敵対するかもしれないけれど、101人目は私の唯一無二の親友になるかもしれない。

私は多様性を大事にしたい派閥の人間である。多様性を否定する派と唯一無二の親友になることが相当難しいことは承知しているが、それでも、多様性の一旦としてその人自体は尊重したいと思う。
メディアに出る人間なので私のことを好きじゃないと発信する人を見かけることも少なからずある。これに関しては大切な私を絶対に傷つけたくないという強い意思を持っているので即座にミュートする。もう人生が触れ合う事はないかもしれないけれど、私を嫌いという多様性の一旦を担って幸せに生きてくれとそっと手を合わせる。

一人一人見て判断する事は面倒だ。一気に100人1000人と嫌いになったり好きになったりする方が一見効率は良く見えるだろう。
でも、どうせ人の限られた人生で実際に出会える人間は少ないのだ。一つのりんごに虫食いがあるからといってえぐりすぎたら食べられるところがグッと減ってしまうように、一回の人生だからこそ一人ずつ見るような非効率さが無駄を減らすと思う。
せっかくだから食べるところの多い人生を送りたいと思う。今は正直、リンゴの箱ごと捨ててしまいがちな私だけれども。

#エッセイ #コラム   #差別   #生き方 #フェミニズム

いただいたサポートは今後の活動の糧になるように大切に使わせていただきます。