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ずっと霞の中にいる

不登校2年目に突入した息子は、進級し小2になった。担任とクラスが変わり校長もスクールカウンセラーも変わった。去年は学校へ行くのは月に2回、放課後担任に会いに行くだけだったが、今年はいまのところ週に2回、授業中に2時間ほど学校に通っている。たまに給食も食べてくる。

校長が変わったからなのか、担任が変わったからなのかわからないが、去年とはだいぶ学校の対応が違う。不登校児が教室に入れないときにいられる別部屋ができたし、息子が学校にいる間は、教頭先生がつきっ切りでお世話してくださる。毎回昇降口まで迎えに来てくれて、帰りも送り届けてくれる。教頭は去年と同じ先生なのに、こうも違うと正直驚く。学校というのは、年度の先生にこちらが合わせるという雰囲気らしい。2年目にして理解した。

今年度の息子の気持ちは、去年と同じく全く学校へ向いていない。これだけ対応してもらって申し訳ない気がするけど、楽しくないものは楽しくないらしい。行きたくないものは行きたくないそうだ。母はたくさん話をしたつもりだけど、どうすることもできない。

そういう訳で、学校に通いながら、去年行っていた適応指導教室へも通っている。週に2日は学校へ行き、残りの3日は適応指導教室へ行く。日によっては、受けたい授業がある言って、学校へ行ったあとに適応指導教室に行くこともある。送り迎えもなかなか大変だ。

適応指導教室に行っているのに、どうして学校へも通っているかというと、適応指導教室に行くためには学校と連絡を取り合うことが必須なのだ。学校に行く努力をしてみてギブアップだった場合は適応指導教室に行ける、というシステムらしい。(もちろん設置目的はそうなっていない。不登校なら誰でも受け入れてもらえることになっている)

適応指導教室は、不登校支援をするために市が設置した小さい学校のような場所である。小1~中3までの子どもが、日によって5~20人ほどひとつの教室に集まり勉強や体育などの授業を受ける。最大8つも年齢差のある子どもたちが一緒に活動をしている様子は、イエナプランの学校のように見えることもあり、理想的で奇跡的な学校だと思えた。そして3年ほど前に成立した教育機会均等法に基づき、学校に戻ることを目的としない、子供それぞれに合った支援をするというコンセプトの教室でもある。先生から度々聞いたのは「必ずしも学校に戻らなくていい」「それぞれのペースでやっていこう」、そして「保護者が困ったと思ったときに支援をする場所です」という言葉だった。すごくいい場所だった。

息子はみんなと仲が良く、この場所がとても気に入っていた。不登校になり母はとても悩んだけれど、そのおかげで毎日本人が「行きたい」と思って通える場所を見つけられたことに母は心底安心した。学校は行かなくてもいいとか何だかんだ言っても、ほとんどの子どもがどうにか通っている学校に馴染めなかったことで、世間一般の普通から「はじかれた」感を拭うことができなかった。私たち親子のような人間は受け入れてもらえるところがないのかと感じてとても孤独だった。行ける場所があるというだけで、こんなに心軽くなれるものなのか。

10か月ほどほとんど休みもせずに通い年度末が来た。先生から「適応指導教室には、3月31日までしか通ってはいけない」と言われた。(適応指導教室は、長期休みは毎日教室開放している。毎日学校に行くという習慣を大事にしているので、希望者は普段通り通うことができるようになっている。コロナ禍ではあったが、3月中は開いていた)

子どもには「学校にも行ってみてね」と薄っすら、親には「ここの存在は忘れさせて、まずは学校に行くんだよと促せ」と強めに言われた。そして先生と親が学校へ促す話をしていることを子どもには絶対に伝えてはならないと念を押された。

適応指導教室が自分の学校だと思っている、かれこれ7年しか生きていない、学校の仕組みなどさほど分かっていない少年が、信頼している先生にほとんど何も説明されず、今まで通っていた学級でなく去年嫌だった学校に普通に行き始めることなんてあり得るのだろうか。甚だ疑問だった。

というかはらわたが煮えくり返っていた。信頼していた場所に裏切られたとしか思えなかった。

結局、「学校に戻れ」ということなのだ。毎年、年度が始まる4月には学校に戻ってみろと。新学期というタイミングに子どもは合わせなくてはならないのだ。嫌だったら戻らなくてもいい、個人のペースでいいというのは、あくまで学校に合わせることは大前提だけどが含まれていた。

私は、息子になんて説明すればいいのかわからなかった。いつも面談している臨床心理士は、育児は犬のしつけと一緒だと言った。まだ幼いんだから説明はいらない、普通に行せてくださいと言った。普通って何だよ。普通にから行かないからここに来たんだけど。犬のしつけって何だ。なんでも大人の言うこと聞かせるのがいいってことなのか。不登校支援の相談窓口の臨床心理士の言葉だと信じたくなかった。もう、どの先生の、どんな言葉も信じられなくなった。

支援って何なんだろう。学校の代わりに通っていい場所で、必ずしも学校には戻らないでずっと通ってもいい場所だと言ってるけれど、実際は嫌だった学校も通わなくてはならない。自ら進んで嫌な想いをしてみろと言われているようにしか思えない。だけど、支援している側はそれをいいことだと思っている。支援って、本人が望むことをするんじゃないんだろうか。まずは本人や家族と話し合って、どんな風に進めていくか相談しないと支援にならないのではないか。

そもそも、わたしの思っている支援が間違っているのか。先生が思っている支援は、子どもが学校や教育委員会の指針に合わせられるようにサポートすること。わたしが思う支援は、こちらの意見も聞いて方向性を一緒に考えて、個人のペースで進める。書いていて、わたしが間違っている気がしてきた。

適応指導教室は、学校の指針に合わせられるような子どもになることが目標だったのだ。教育委員会主催の場所だから当たり前か。もっと時代は進んでいると思っていた。
だったらお母さんが困ったときに支援しますなんて言わないで欲しい。学校に行かなくてもいいなんていう期待させるようなことは言わないで欲しい。不登校はダメで、学校に戻ることが正解って思ってる場所なんだったら、最初からそう言ってほしい。受け入れる心構えも体制も整っていないのに、何でも受け入れとますという態度が、困ってる側の人間をどれだけ傷つけることになるか。人生で困ったことがない人にはわからないんだろう。

これだけ多様性が叫ばれ、個人を尊重しようと世の中が動いている時代に、臨床心理士が聞いて呆れる。わたしは学校という組織がきらいだ。臨床心理士は大きらいだ。

(過去の下書きをアップ。2か月ほど前に書いた)

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