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セッション。『今』をどう感じるか。

3月21日は久しぶりの快晴だった。
花冷えもゆるみ、麗らかにのどかな朝。家人がお彼岸用のもち米を半殺しにする横で私は思った。

そうだ、セッション行こう。

東海旅客鉄道が打ち出した名キャッチコピーが如く軽いノリで占いに行くのもどうかと思うが、ちょっと聞いてほしい。

3月の私は、あんまりうまくいってなかった。
これからの30代は体力だと気合を込めてトレーニングをぶちかませば筋を痛め、絵を描くなら美術史は必須だと参考書籍を搔き集めればそこで力尽き、止めとばかりに荒れ狂った天下の気圧様が私の自律神経をオーバーキル。
おかげでリビングデッドな日々が続いてしまっていたのだ。

そして人間、こうなると碌な事を考えない。
鬱々とした思考が固まって、まっっったく身動きが取れなくなってしまう。

こんな雁字搦めになった頭を、ちったぁ緩めたい!

気圧が去ってやっと回復してきたら、思ったのはそれだ。

そもそも大体やることは固まってきたけど、なんかブースターが足りない。友達にも話すけど、もっと気楽に話して思考の整理がしたい。
そういう時は、信頼できる所で話がしたい。

それにこちらではタロットだけのセッション以外に、引いたカードのイメージを感じて、用意された石をイメージに沿って配置、その石やイメージがどういうものか読み解くセッションがある。

これが結構面白いのだ。

まあ、最初はタロットだけのセッションを予約しましたが。(お財布事情)

セッション受けて、すぐ変えましたが。(お財布事情?)

因みに行ったのは、前にコーチングを受けたここ↓

そもそもお店に行くときに、店のブログで好きな作家さんの新作を相手も読んだと知って、生態=オタクの私は調子に乗ってセッション中のどこかで感想会も挟み込みたいと下心満載に庭のミモザもぶった斬って持って行ったけれども。
(注:オタクはいつ如何なる時も推しへの愛を語れる隙を狙っています。推しで我を忘れる生き物のため、走りだしたら止まりません。生態を知らない周囲の人は、ノンブレス早口トーク(ずっと俺のターン!!)でタイムロスをしたくなければ安易に餌を与えない(話を振らない)ことをお勧めします。)

久しぶりにお会いした嬉しさで、花渡すだけで感想を忘れてしまったっていうね。。グッバイ、私の下心。

そういう訳でセッションだ。
順序立てて言えば、まず生年月日から自分の気質を、年齢から人生周期を教えてもらう。
そこから、『自分の現状』と『これから』について(これから?多分、たしか、そう。(年齢と経過日数により記憶が混濁))カードを各1枚引き、それごとにカードから受けたイメージに沿って石を配置する。という3行程がある。

で、私の気質で言えば、皇帝と死を持っているので

皇帝:男性性優位。行動力を持ち、計画を立てて目的を達成するの大好きマン。仕事ガンガンやってこうぜ!オレ様こそがリーダァァァ!!
:極限状態こそ至高。今日もギリギリを生きている。出会いがあれば別れがあるのは当然でしょ。そこで見えるものこそ、そう、真実(ウットリ)

注:こちらは私のイメージ図
画像はボイジャータロットより一部お借りしました

こんな恐怖の足し算により出来上がるのは、理屈ぶったド級のマゾ
HPゲージが赤にならないと生きた実感がしない。むしろここからが本番。
平穏では輝けないとんだ昼行燈が爆誕する。

そんな自分が、・・・シンプルに嫌だ。(普通が、普通がいいんだ)

気質を言われた時は、当て嵌まらないと思ったんですがね。人生振り返れば、めっちゃわかる場面がいっぱい、いっぱい出てくるんですよ。へへ。

因みに人生の周期は、deathを乗り越えて現段階は創造の『art』。我が世の春キタコレと内心ガッツポーズを取るも、この人生の周期はさらに「お前の限界はそれまでか?(そうじゃないよなぁ??)」と煽る『devil`s play』が控え、調子に乗りまくったあげく『tower』でしっかり墜落し、何もかも失った後に見つけた、そう、これが希望、、、

という、とんだ韓ドラ周期が待っているらしい。(注:うろ覚えです)

とんでもねぇな、と笑っていた私だが、掛けられたのは「でも、今のdeathの時にしっかり落ちておかないと次のdeathの周期(50代?)が辛いのよ・・・」という言葉。
そ、それって、わ、私の絶望がまだ足りてない・・・ってこと?!」と思わずちいかわムーブを起こしてしまったけれど、「大丈夫、私が30代の時に比べたらしっかり落ちてるから!!」と言われて、よかった・・・、よかった・・のか?

っふ

で、現状のカードを引いて、石を置くターンになったのだけれど、私は始め、浮かんでいた記号的なイメージに沿って石を設置。出来た、となってから、いや違うな、と出来た配置を崩して改めて完成させた。
それを読み解いてもらうと、まず形が最初のままだったら今日の日のエネルギーに沿ったものだったのに(大意)、最後に崩すし、最初にカードのど真ん中に置いた掌ぐらいの石と両サイドに置いた小石は、種類で言えば同じ石で小石の左右の配置も合っていればバランスが最高に良かったのに最後に崩すし
「・・・香緒さんって、直感が強くてバランスが整えられる形がわかっても、それを最後はどうしても崩したいんですね(;^∀^)」と言われて、私は。

私は。(遠くの海を眺め、波音に耳を澄ます)

そして、2枚目の「これから」についてのカード。
これが、厄介だった。

ぜんっぜん、配置が決まらねぇのな!!

そもそも出てきた『change』というカードが気に食わない。
カードの絵から、グルグルと渦巻くエネルギーと森閑とした空気を感じたけれど、『変化』?『変化の時期』だって??どういうこと??全然上手くいってませんが???

「いや、むずかしいですね」

なーんて苦笑した顔で取り澄ましながらも、内心では嵐。
1枚目のようにイメージ通りに沿ってもだめ、イライラする感情の通りにカードを隠すように石を置いてもだめ、最初に気になった石を基に黒から白へグラデーションのようにして円で囲って配置もだめ
最後はなんだ、ストーンヘンジか。

その間も、変化とはどういうものと思うか?、トラウマについての話など色々していましたが(その中でもトラウマのケアについて、今は原因を遡るような方法を取るのではなく、あるがままを感じる方向へシフトしている話が興味深かった。ようこそ、マインドフルネス。)、その時にぱっと思いついたのがこれ↓

冴えない中年女性が、別次元ではカンフーマスターかつ成功した女優となっていて、ドレスアップ姿でレッドカーペットを歩く場面。

それが思い浮かんでから、私は言った。

「そうか。私は変化というものは、いつもより良い方向へ変わらないといけないことだと思っていた。しかし、そうではなくて、変化とは良い変化も悪い変化もただただ感じること。波のように来るものをただ感じることだ」

と、思ったことをそのまま言ったら、丁度石の配列も自然と決まった。
石の種類も読み解くと、バランスを取り、自分にとってパンドラの箱を開けるようなことであったらしく、これが現段階の私にとっての真実なんだと納得した。

そもそも私はあの時ああすれば良かったと過去の後悔を繰り返すし、将来が不安だったり理想と現実が乖離しすぎてしんどくなったりする。そのくせ、今をどうしようもないものだとも思っていた。
なんというか、過去と未来に意識が引っ張られるのだ。
それは、過去も未来もある種、像として固定化して具現化したものの引力が強いからかもしれない。

今って疎かにしがちよね。

けれど、私が動けるのは今しかないのだ。
流動的な時間があるのは、今、ここ。この時点にしかない。

そう考えると、今ってすっごいヤツなのでは??

なんか概念が、変わったかもしれない。と驚いている内に、あっという間にセッションはタイムアウト。

話しながら石を置く私を見て、絵を描くときには思考と直感の混合タイプを生かして話しながら描いたらいいんじゃないかなという、それ見つかったらヤバイやつでは・・・!というアドバイスを貰って私は帰宅した。
(だが、それも制作に煮詰まりすぎて美人書道家インフルエンサー(情報過多)の真似して般若心経を半目で唱えている姿を洗濯物持ってきた家族に見られたときよりは恥ずかしくない、ハズ。。あの時の言い訳は、苦しかった。。。)

それから半月、今の私がどのくらい変わったのかは、正直わからない。
ただ、間違いなく『今』というものの捉え方は変わったと思う。
つい良い変化だけしか受け入れたくなくて他の変化を認められず苦しかったのを、良いも悪いもただ感じることへ意識をシフトさせると大分肩の力が抜けた気がするのだ。

最終的に決まった石の配置と、走り書きしたメモ。文字が汚い。

そこから、対話が自分のテーマと、言った場所や会った人でイメージが浮かんだときはなるべくラフを描くようにしている。
その時は、拘っていたアナログを手放し、デジタルでぱぱっと描くように変えると、ぐっと描くことへのハードルが下がった。

changeのイメージを探って

その日、その時に感じたことを絵にする。
これが案外難しかったりするけれど、追わず惑わず、そのまま描いていきたい。
とりあえず、やってみよう。





※以下蛇足↓

そう言えば、思考で話をすると、相手は心の中でジャッジをしてしまうらしく、感覚で話をすると、ジャッジではなく共感をしやすいらしい
「あのヒツジはモコモコだね」と言えば、「そうだね、モコモコしてるねぇ」となるけど、
「あのヒツジは、顔と足が黒いサフォーク種。余分な脂肪分が少ないので、臭みもなくガッツリいけるラムですな」といえば「そうですね」となっても相手は(いや、ラム肉は人間の消化器系温度よりも4℃以上高いからガッツリ食べたら脂肪が固まって最悪手術で脂肪を取り除くことになるやん。あと、羊の臭みは品種というより個体差、もしくは処理によるのでは?)と思われてるかもしれない。(ってことだろうか)

で、これからの時代は思考より感覚らしいけども、思考が無ければ橋やビルも建たないし仕事が出来ないので、どっちかというと自分の気持ちを自分で確認しながら、思考の助けを借りて進む時代になるってことかと解釈している。
昭和なんて特に自分の気持ちを無視して「24時間働けますか?」が当たり前、個より組織、前進あるのみ脱落者は見捨てられて終わりだったけれど、結果的に無理が祟って心身ともに壊れてしまったり、負荷が家族へ向かって機能不全家族になってしまったり、虐待の世代連鎖が続いてしまったりと問題が今も続いている。
でも、自分の柔らかで曖昧な感情感覚を無視して起きた問題も、恥ずかしいことでは無く、昔よりは医療機関やソーシャルワーカーの手を借りやすくなったし、自分の心や感覚に向き合いやすくなった時代へ変化しているとは肌感覚で思うし。

自分の中でも、思考で描いた絵と感覚で描いた絵がある。
思考で描いた絵はより技術的、感覚のはただただ感覚で描くだけなんだけど、感覚は感覚で適当にやればいいのかといえばそうじゃなく、ここに水っぽい表現を描きたいと思ったら結局デッサン力が要るから思考も鍛えないといけないんだよね。思考=基礎だから。
そういうことも読んだ本に書いてあったなぁ。。。

ああ、道のりは遠い。


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