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【エッセイ】「喧嘩したがる人々」へのアンチテーゼ

 僕は接客業に携わっているから、当然様々な人に出会う。時には今日はじめて会ったのに昔からの知合いかのように親密になれる人や、あるいは逆にとことんまで人の親切心を拒否し、距離を取る人もいる。人間というのは実に多様だなと感心するばかりである。
 そして、時に望ましくない人とも出会う。初対面にもかかわらず敬語を使わず、こちらが発言した内容を聞かず一方的に自分の意見を押し通し、こちらが口を開けば「は?」と威圧する。こちらが提案すれば否定し、その上「この会社の程度がしれる」や「ありえない」などと非難を平気で吐く。こちらがルールを提示すれば「常識的に考えておかしい」と主張する。そこまで不満ならば帰れば良いのになぜかこちらのサービスを渋々利用していく。
 いわゆる「クレーマー」であり、「トラブル・メーカー」である。僕はこうした人たちを「喧嘩したがる人々」と読んでいる。

 「喧嘩したがる人々」はいわば「自己過激派」、「自己中心的」といえると思う。「自分」が不満に思ったから、「自分」が腹が立ったから、「自分」がすべてにおいて優位に立っているから……あらゆる場面において行動の動機付けは「自分」がどうかである。「自分」の正義は正しく、誤っているものは正しい「自分」によって裁断されなくてはならない、と。
 運が悪いことに僕はこうした人たちに何度も何度も出会ってしまった。もちろん接客業に携わってからだけでなく、これまでの人生でも「喧嘩したがる人々」にはエンカウントしてきた。大学生時代、僕が村上春樹好きというだけで鼻で笑われ、馬鹿にしてきた人は何人もいた。「私は村上春樹が嫌いで、どこがいいのかわかりません」とわざわざ僕に言ってきた人もいた。理解しようともしないのに、「わたしは嫌いですがいったいどこが好きなんですか」と訊いてくる人は自己破綻していることに気づかないんだろうか?

 僕はそのエンカウントのたびに、少しでも彼らの心理を分析・理解できればうまく付き合うことも、いなすこともできるんじゃないかと考え、仕方なく喧嘩に付き合ってきた。
 でも、正直に言って、僕は未だに理解できたためしがない。そもそも僕と考え方が正反対なのだ。例えば、「喧嘩したがる人々」がネット上で「自分」の考えにそぐわない意見を見つけたら「自分」の正義に従って批判(というより僕は「非難」だと思うけど)のコメントを書き込むとする。では僕の場合どうするかと言ったら、まずそもそも書き込まないだろう。
 そこには一体どんな心理があるか?想像するに、「喧嘩したがる人々」はそぐわない意見を見つけて「自分」が不満に思ったから、書き込むのだろう。一方僕はこう考える――、自分と異なる意見があるのは当然だし、そもそもそんな意見ひとつに時間を費やすこと自体が無駄でしなかない、究極的に言うなら「どうでもいい」と。そもそも僕はこの世で口論ほど苦手なものはないし、わざわざしたくもない。

 これは仮説なんだけど、「喧嘩したがる人々」は合理的な判断を不得意とし、長期的な利益を軽視して目の前の利益に飛びつく傾向があるんじゃないかと思う。
 僕は自分で言うのもあれだけど、ある種の合理主義的な人間だ。世間一般で言う「合理主義的な人間」というのは一切の無駄を省くようなイメージがあるけど(個人的にそれは「経済・合理的」だと思う)、僕はそれとは少々異なる。僕にとって「合理」というのは「意味・価値があるか」に尽きるだろう。
 それをすることで長期的に見たときに「自分にとって意味・価値を持つ、あるいは持つ可能性があるか」と判断するのだ。だから僕は読書をするし、音楽を聴くし、映画をとことん観る。それらがいつの日か僕に揺さぶりをかけて意味・価値を持たせるタイミングが来ると知っているからだ。
 一方、「喧嘩したがる人々」というのはそういった合理的な判断がうまくできないように思う。常に「自分本位」で動き、「自分」は常に優位にあり、そぐわないものは自ら否定しに行く。その口論の時間がまったくの無駄であっても彼らは気づかない。
 実際に僕が接客した例でも、自分の懐の金銭を一銭たりとも消費するわけでもないのに、こちらのサービスを不合理かつ感情的に否定し、常識的ではないと断定し、サービス元を馬鹿にし、サービス全体に対して「自分」に都合が良くなければ全部喧嘩をふっかけ、すべて都合が良いようにさせる。「自分」が妥協するという頭はハナからなく、折れるのはいつでも相手だと信じて疑わない。相手が妥協案を持ち出したら、それを虚仮にし、「自分」の実力で得た結果であると誇示する。
 まったく正直に言ってしまうが、僕からすれば、こんなものはただの「おままごと」だ。「自分」が世界の中心だと思っている幼子の妄想までこちらが階段を何段も降り、その上自らをわざわざ下にして相手の都合の良いように振る舞ってあげる。そうすれば小さな世界の王様はきゃっきゃと喜ぶ、というわけだ。
 40、50歳になっても「おままごと」が止められない人々を見ているのは実に胸が苦しい。それでいて自分がそうした状況にあることに気づくこともできないという事実に憐れみすら覚える。

 サマセット・モームは「弁舌の才というものは思考力を伴わない」と言ったが、僕もその通りだと思う。口が達者で相手を言い負かすことが得意な人々に欠けているのは、「まさに今口論している状況というのが一切の無駄だと気づかない思考力」だと思う。
 どうして自分のことを正しいとそこまで信じることができるんだろう?そこには刮目すべき心理がもしかしたら隠れているのかもしれないが、僕は何も期待しないこととする。おそらくただの自尊心で作られたハリボテだろうから。あるいはもしかしたら、本当にあるのかもしれないけど。どうだか。
 「喧嘩したがる人々」にはこれからも遭遇するのだろうけど、そのときに一回くらいは言いたいものだ、「そんなことはどうでもいいから、まぁイーグルスのアルバムでも聴いて肩の力抜きなよ」って。口論したって結局何も意味ないんだからさ。テイク・イット・イージー、テイク・イット・イージー。
 

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