見出し画像

【短編】黄昏の殺人者 後編

 ぼくはしだいに佐々木さんから目が離せなくなっていった。牧さんも、そうだったと思う。それは他の利用者さんを蔑ろにすることではむろんないけれど、重要性において劣るというのか、もはや関心が持てなくなってしまったのだ。なんだろう、仕事に慣れてきて、日々の業務をテキパキと片付けてゆくことができるようになったせいかもしれなかった。

 週に二回、朝夕の送迎で佐々木家を訪れるとき、中年の女性が見送り、出迎えに門扉まで出てくるけれど、とくに特徴のない容姿からは、血縁かどうかの判断がつかない。夫の姿を見かけたことはなかった。

「おはようございます。よろしくお願いします」と笑顔で会釈する姿に何ら不審なところもなく、連続殺人犯の娘とは到底思えない。というか、連続殺人犯って、結婚して子を成したりするものなのか。犯罪歴がなく、変態的な性癖も持ち合わていないけれど、ぼくには結婚して戸建てを購入し、子を育て、大学まで出してやる、そんな甲斐性なんてまるでないというのに……。きっと時代のせいだな。

 シリアルキラーというのは、女にモテず、孤独で社会不適応であるようなイメージがあるけど、そうなると、ぼくもその仲間のひとりということになってしまうから、更にもっと別の要素、たとえば親から激しい虐待を受けていたとか、天涯孤独で親の愛情を知らず育ったという要素が付け加わるのではないか。

 だとするなら、人工的に(実験台の赤ん坊をそういう環境に置いて)シリアルキラーを育てることができることになってしまう。やはり環境ではなく、遺伝がモノを言うのか。そう考えると、シリアルキラーの遺伝子が存在することになり、やっぱり結婚して子を成すことで脈々と受け継がれてゆくのだろう。


 入浴介助のときには、ヒートショックや転倒、火傷などのリスクを避けるため、細心の注意が必要で、体温と血圧の測定結果によっては入浴は中止となる。利用者さんの多くは入浴を楽しみにしているし、佐々木さんも例外ではない。彼は、いつも体温も血圧も正常そのものだ。

 浴槽に入ると、決まって目を閉じて気持ち良さそうに「うー」とうめき声をだす。膝を抱えてじっと浸っている間、何を想っているのか、おそらくは何も想っていない。筋肉が落ちて皺ばんだ体を支えて湯から出し、染みの浮き出た骨張った背中をボディソープで泡立てたスポンジで軽く擦る。陰部は自分で洗ってもらうのだが、白く縮れた陰毛から顔をだした萎れたペニスが嫌でも目に入り、犠牲者の首を絞めるときそれは屹立したのだろうかなどとついあらぬことを考えてしまう。シャワーで泡を流してから、風邪を引かないようバスタオルで丁寧に拭いている間、彼はなされるがままになってている。

 利用者さんに話しかけるときに、しばしば赤ちゃん言葉を使ってしまうことがあった。「危ないでちゅよー」とか「気をつけまちょーね」とか、助動詞です、ますの語尾のサ行がなぜかタ行になってしまう。「気持ちいーでちゅね」と入浴介助のときにうっかり口にしてしまい、はっと我に返ったことがある。しかし佐々木さんはまったく意に介する様子もなく、こちらの言っていることをどれぐらい理解しているのか逆に不安になってくるのだった。

 自らの歪んだ欲望を満たすため、うら若い(ばかりでなく、女児から中年まで)女性たちの未来を次々と奪っておいて、自分はのうのうと老いさらばえているのか。背中を洗っているうちにしだいに憎しみが嵩じてきて、今、この瞬間に簡単に殺せるなと、ふと気づかされる。ロープなんか必要ない。直接この両手で首を絞めて殺す、後頭部を掴んで浴槽に押し込んで溺死させる、あるいは壁のタイルに思い切り頭を打ちつける、いや、それでは即死ではないか。一瞬ではなく、できるだけ苦痛を長引かせる方法はないものか、生まれてきたことを後悔させるほどの、犯した罪の重さに見合うような。時には赤ちゃん言葉を話し、慣れた作業を機械的に繰り返しながら、いつしか血塗れの妄想に耽っている。


 天気に恵まれれば、ボランティアの手を借りたりして、昼食後に散歩に出かけることもある。大抵は車椅子に乗せたままになってしまうのは、預かっているお年寄りに万が一のことがあれば大変なので、歩行器や杖を使用しての散歩は人手と手間がかかりすぎてしまうからだ。

 梅雨時の晴れ間を狙って、季節の花を愛でに公園まで車椅子を押してゆく。ミッションは紫陽花鑑賞であるが、無事帰還しなければミッションコンプリートとはならない。

 近所の児童公園では、就学前の子どもたちが走り回り、母親たちはベンチでお喋りに興じていた。灰色の雲に初夏の日差しは遮られ、大気は湿り気を帯び紫陽花の花の珠は瑞々しく潤っている。その花壇の前まで車椅子を押していって、「きれいねえ」と牧さんが殊更に大きな声で言ったのは、年寄りは耳が遠く、反応が鈍いからである。耳元に口を寄せて、「ねえ、そうでしょう」
「おや、まあ、きれいねえ」オウム返しにおばあさんが言った。
「本当にねえ」別のおばあさんも言った。
 佐々木さんを乗せた車椅子の手押しハンドルを握ったまま、淡い青紫の手毬のような花があちこちに開いているのに見惚れていると、不意に牧さんがこちらを振り返った。青い顔をして、ぼくではなく、佐々木さんを一心に見つめている。

 彼が魅入られているのは、満開に咲き誇る紫陽花ではなかった。力のなかった目が今や値踏みするように砂場で遊ぶ女児たちを捉えて、唇が薄く、いやらしく横に引き伸ばされている。誰にも何にも関心がなく、食事も入浴も散歩も、全てに受け身であった佐々木さんがこの時ばかりは車椅子から身を乗りだすようにしている。骨と皮ばかりに痩せた両手が肘掛けの先端を握りしめてぶるぶる震え、血管が浮き出していた。

「さあ、そろそろ戻りましょうか……」
 あなたは人を殺したのか?
「少し冷え込んできましたね。暖かくしなきゃ」
 本当のところ、何人殺したのか?
「紫陽花、きれいでしたねえ」
 女たちを陵辱したのか? それは殺す前だったのか、それとも殺した後か?
「戻ったら少し休んで、オヤツにしましょうか」

✳︎

 施設のワゴン車を運転して老人たちを家まで送り届けるのはぼくの仕事で、まだ若くて力もあり、運転の腕も確かだから重宝されていたと言っても、過言ではない。

 その日は、牧さんとペアになって、彼女が運転を担当し、ぼくが利用者さんの乗降の補助をした。住宅街の一方通行の狭い道路に車を停めて、歩行器のおばあさんに付き添って裏路地の袋小路の家まで送って戻ると、彼女は外に出てぼんやりと煙草を吸っていた。
「知らなかった。煙草を吸うんですね」ぼくは少し驚いて言った。
「今日はね、ちょっと付き合ってほしいのよ」
「呑みですか? いいですね」
「呑みじゃないよ」
 そう言って、彼女は親指でワゴン車の薄暗い後部座席を指した。そこに残っているのは、佐々木さん一人だけだった。

 助手席から、ハンドルを捌く牧さんの横顔を見つめていた。日は黄昏れて、対向車のヘッドライトに照らし出される彼女の顔は、不思議と静謐な表情を浮かべていた。
「あのー、これ、ヤバくないですか?」
「何が?」
「何がって、この人を早く帰さないと、誘拐犯にされてしまう。今頃、騒ぎになってるかもしれない。通報されますよ」
「大丈夫、今夜は泊まりということになっているから」
 頼まれて利用者さんを泊めることは間々あることはある。だけど、それは介護保険の適用外であるし、スタッフの負担も大きいから、あくまでも例外的な措置であった。
「聞いてませんよ」
「だって、話してないから」
「誰にも?」
「そう、だから一晩中連れ回しても問題ないってこと。神谷くんには迷惑かけたくないしね」
 車は住宅街を出て幹線道路をしばらく郊外へ向けて走り、それからそこだけ暮れ残っている山の方へ折れて、坂道を登った。人っ子一人見当たらない集落を過ぎ、田植えの済んだ水田の間を縫ってゆく。佐々木さんは、いつまで経っても帰り着かないことに何の不審もなく、暮れゆく窓外の景色に顔を向けていたけれど、その瞳には何も映っていないかのようだった。
「事件のこと……」
「え?」
「色々と調べてみたんですよ、当時の新聞など漁って。容疑者の名前も写真も載っていました。それから、犠牲者の方々の名前も写真も。迂闊でした。自分が生まれる前の事件だから、なんだか歴史のような遠い出来事に感じていて」
「まさか犯人がまだ生きていて、自分の身近にいるとは思いもしなかったでしょ」
「犯人ではなく、容疑者ですね。いや、元容疑者か」
「それをこれから確かめに行くの」
「三人の遺体が同時に発見されたという。一人目は白骨化しており、二人目は腐乱死体、三人目は死後数日だったとか。あなたは……」
「最後の事件……母を奪われたの」
 全身の肌が粟立ち、髪の毛一本一本の根元がきゅっと引き締まった。かつて、これほどまでに昂ったことはなく、激しい動悸のために呼吸が乱れる。これほどの高揚は、ぼくの退屈で凡庸な人生にもう二度と訪れることがないだろう。
「母の記憶はあるけれど、とても不確かなの。それはひょっとしたら後からつくった偽の記憶なのかもしれない」

 それから牧さんは車を路肩に寄せて停めて、しばらくハンドルに覆い被さるようにうつむいていたけれど、意を決して頭を上げると、「さあ、行くわよ」と声を振り絞った。ぼくはバックドアを跳ね上げ、スロープを引き下ろして固定し、車椅子に乗せた佐々木さんを外に出した。ヘッドライトが消えると、日は完全に暮れていて、街灯もなく民家も遠く、辺りは闇に閉ざされている。しかし、老人がこちらを不思議そうに見上げているような気配がする。耄碌した頭脳に警戒心が芽生えたのかもしれなかった。

 暗くてよくわからないが、かつて田んぼだったこの辺りは今では休耕地となって、手入れされないままに雑草が放恣に繁っているらしかった。牧さんが用意していた懐中電灯を点けると、円錐状の白色光が闇を切り裂いてゆく。

「わたしはね」と牧さんが続けた。「母の死が理解できるような年齢ではなかった。それに誰も母が殺されただなんて、幼いわたしにわざわざ教るような人はいなかった。だから、ずっと何も知らなかった」

 側溝のグレーチングを越えて、未舗装の農道を通ってゆくと、鬱蒼とした樹林帯が近づいてくる。風が出てきて、樹冠がかすかにそよいでいるのがわかる。そして、座シートの上で老人が落ち着きなく身を捩るのがハンドルのグリップまで伝わってくる。

「ああ、大丈夫でちゅよ」なぜだか、赤ちゃん言葉が自然に出てきた。

 先をゆく牧さんがギクリとして立ち止まり、光の輪をこちらへ向けたそのとき、ポツポツと雨が降り出した。子どものようにイヤイヤをする、老人の目尻や窪んだ頬に折り畳まれた無数の皺が陰影を刻んだ。遥か上空から雨滴が次々と落ちてきて、人工の照明に輝きながら、木々の葉で、ぼくらの頭上で、そして額で弾けた。しだいに雨脚は強くなり、足元の雑草が騒ぎだす。懐中電灯の光に眩む、濁って分別のうかがえない眼がまるで涙を溜めているように見える。顎を上げ、まるで咆哮するかのように歯のない黒い穴となった口を大きく開けているが、いかなる声もそこからは聞こえてこない。

「ここよ、ここで母は発見されたの」 

「さあ、全然怖くないでちゅからねー」
 女児を連れ去るとき、この男は安心させるために、こんな風に赤ちゃん言葉を使ったのかもしれなかった。それとも一切は牧さんの妄想で、ぼくはただ引きづられているだけなのかもしれない。雨に打たれながら、ぼくは車椅子を押して、犠牲者の娘の方へと一歩一歩近づいていった。……

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?