「ボーイ・ネクストドア」01
父が病気をして仕事を辞め一日中家で過ごし、母が代わって外で働くようになってから、炊事・洗濯・掃除は父の担当になった。
「家事って大変なんだね、知らなかったよ」などと、どこか他人事のように言ったものだ。
その言葉を、母は聞こえなかった振りをした。あるいは、無視したのかもしれない。
毎朝決まって食卓の中央にパンを盛った籠を置いて、あとは卵やベーコンを炒めたりするぐらいで、とくに凝ったことをするわけでもない。弁当もつくってくれない。それでも酒をやめてから、やめるように説得され、それを不承不承受け入れてから、時間が有り余っているせいか、コーヒーにこだわるようになって、朝から豆を挽いたりする。そうして、感想を求めてくるのだけれど、とくにこだわりのないぼくには迷惑な話といえる。「ちがいのわからない少年」と言って、父はぼくをからかった。バリスタでも目指す気か。
その朝、一階のリビングダイニングでニュース番組を見ながら、自慢のコーヒーを飲んでいた父が突然言い出した。
「昨夜は、なんだかお隣さんの方がうるさくなかったか? 夜中に目が覚めてしまったよ」
学生服のぼくが出勤前のスーツ姿の母を見ると、母は眉をひそめ、下唇を噛んで父を見つめ、部屋着とパジャマの境が曖昧な父はぼんやりと天気予報を見ていた。どのみち病院のデイサービスをのぞけば散歩か買い物ぐらいしか外出の用もなく、リモコンでテレビを消しても、気がつないかもしれないほどの関心しか払っていない。
「隣って、どっちの?」母が応えないので、仕方なしにぼくが訊いた。
ぼくの家は、丘陵を切り拓いて開発された新興住宅地の縁にある。このベッドタウンも、しだいに高齢化が進み、成長した子どもたちが大学進学や就職で出て行くと、人口は著しく減っていった。姉も今年の二月に専門学校を卒業すると、都会の方で一人暮らしを始めていた。ぼくもさ来年は受験になるが、進路のことはまださして考えていない。
「こっち」と、庭に張り出した出窓から棒樫越しに見える隣家の白い、というかかつて白かったキューブハウスの外壁を顎で指した。建った頃には近未来的だったかもしれないが、今ではなんだか浮いてみえる隣家は、擁壁で一メートル程うちより高くなっていて、坪数もずっと多い。この佐藤家とは挨拶するぐらいの付き合いしかないし、そもそも何をしている人なんだろう、見かけることもほとんどない。
「なんか人の怒鳴り声がして、それから物が倒れたり、壊れたりするような音がしたんだけど」
「えー、ぜんぜん気がつかなかったけど」
もしかしたら、幻聴が再発したのかもしれないと不安になる。一年前は被害妄想がひどく、わけのわからない理由でぼくたちを罵ったりしたものだけれど、その頃のことは思い出したくない。おかしなことを口走っても、それを頭ごなしに否定すると激しい反発を招くことになるが、かといって同調し過ぎると妄想を助長することになると、医者にアドバスを受けている。バランスが重要ということだろうが、一体どうしろというのか。
「もし騒音が続くようだったら、お隣さんに話してみるよ」
出勤前の母が小さく、しかし聞こえるようにため息をついた。
なぜかコーヒーほど料理にこだわらない父は、夕食に米は炊いても、おかずは揚げ物などスーパーの惣菜で済ませることにしている。母は仕事で遅くなることが多く、結局自分から言い出して、ぼくが料理を担当することもある。とはいっても、つくれるのはカレーかシチューぐらいだけれど、そういう食べ物がひどく恋しくなるときがあるのだ。
キッチンでホワイトシチューを煮込んでいると、何もすることのない父が食卓でぼんやり見ている夕方のニュースの音声が聞こえてくる。政治、経済、国際紛争……その一切が自分には関係がないように思える、もちろん父にも、よりいっそう父にこそ無関係だ。
ところが、不意に大きな声を出した。
「あれ、これ、うちの近くじゃないか?」
シェパードを連れた、ネイビーの制服の男たちが棒で足元の草叢をつつきながら斜面を上る、その背景はどこにでもあるような鄙びた里山であるが、アナウンサーの告げる地名はたしかにこの町のものだ。今まで16年間生きてきた中で、自分の暮らしている地域をテレビで初めて見たことになる。世の一切の重要な出来事は、すべてテレビの中で生起すると思っていたぼくは、密かに興奮した。皿を並べる手を止めて、父の横に座り込んでニュースに集中する。
都会から遊びに来たまだ小さな女の子が、親が目を離した隙に行方不明になって二日経つ。地元の警察・消防団が付近を隈なく捜索しているが、今のところ手がかりはまったくなく、目撃情報を求めている。瞬く間に報道は次の事件へと移ってしまった。
いつも連絡もなしに遅くなる母を待たずに、父と息子が向い合ってシチューを啜っている。
「それにしても、一体どこへ行ってしまったんだろう?」父が言った。
「うん、山に迷ったか、変質者に連れ去られたか、それとも動物に襲われたとか?」
「何の話だ?」
「何のって、行方不明の女の子の話。父さんこそ何の話?」
「もうずっと探しているんだが、どうしても見つからないんだよ」
「だから何を?」
「うん、まあ、いいよ、その話は。そんなことより学校の方はどうなんだ、ヒロ。ちゃんと勉強しているのか」
そんなことに本当は何の興味もないくせに、それでも体裁だけは父親らしく取り繕おうとする、そのことを喜ぶべきか、哀しむべきかわからなかった。父さんのせいで、授業に全く身が入らずに、受験勉強にも手をつけていないと答えたなら、どう反応するだろうか。
「うん、まあまあだよ」
「アウグストゥス」
「え?」
「アウグストゥスだろ、ローマ初代皇帝は。ユリウス・カエサルではなく」
ずっとつけっ放しだったクイズ番組の問題に解答しているのだった。
肩を掴んで激しく揺さぶりたい。そして、こう言いたい。「ぼくはここだ、ここにいる……」
(続く)
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