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「ボーイ・ネクストドア」05

(承前)
 卓上コンロの上の使い古された土鍋、覚えている限り昔から使い込まれた土鍋の蓋を開けると、濛々と湯気が上がって野菜が煮立ち、吹きこぼれると姉が炎を調節してから、網杓子で丁寧に灰汁を掬っていった。父の好物である鍋料理を家族四人で囲むなんて、何年ぶりのことだろうか。幼い頃、食事中にテレビ番組に夢中になっていると鍋奉行だった父に叱られたものだけれど、今ではその父の方がテレビに見入っている。それも昔なら絶対に選ばなかったような、いい歳をした大人達がじゃれ合ってふざけているような番組だ。もっとも、内容が頭に入っているのかどうかは怪しいところだけれど。
 かつて我が家では、酒屋からビールをケースで取り寄せていた。父が禁酒してからは母も遠慮して家では飲まないから、アルコールは一切置いていないはずだ。父はブルーベリー風味の黒酢を炭酸で割ったものを飲み、他の三人はペットボトルからウーロン茶を注いだ。
 鍋は昆布で出汁をとったシンプルな鶏の水炊きだった。鍋料理ならアレが煮えた、コレはまだ、灰汁をとって、何を投入してなどと一応は会話は尽きないものだ。
「ほら、お父さん、鶏が煮えたよ」と姉。
「うん」
「こっちの白菜はまだだから」
「うん」
「薬味のネギは?」
「うん」
「いやねえ、生返事ばかりで」
「うん」
 父の視線の先にはいつもテレビがあった。最近は家事も手につかずサボり気味で、一日中何もしないで、とくにすることもなく、すべきこともなく、ただ煙草を次から次へと灰にしてゆくだけで、ぼんやりと関心もなくテレビを観ている。そんな人生もあるのだな、と思った。テレビの中には断片的で、正確ではないかもしれないけれども、様々な人生があった。スポーツ選手が活躍したりしなかったり、役者が演じたり、歌手が歌ったり、芸人が体を張ったり、アナウンサーが原稿を読んだりして、皆んなお金を稼いでいる。そしてもちろん、原稿で読まれるような、逮捕されたり、殺されたり、行方不明になったりするような人生もある。
 またしても、想いは行方不明の女の子の方へ移ってゆく。
「お隣の佐藤さんのところの、男の子ことを覚えている?」姉が言った。
「そういえば、最近、見ないねえ」と母。
「最近って、いつぐらいからのこと?」
「うん、誰のこと?」箸を止めて、ぼくは訊いた。
「誰って、佐藤さんところの、あたしの同級生だった」
「姉貴の同級生……。あれ、あそこの家に子どもなんていたっけ? おかしいな全然見かけたことがないけど」
「それはねえ……」母が姉と見交わした。「登校拒否だったのよ」
「今はね、不登校っていうの。拒否っていう言葉の、なんというか、積極的なところを嫌って。学校に行きたくないという強い意志があるとは限らない。行きたいのに、行けないとか。たとえばいじめで学校に行きたくなくなるのは、拒否とはいえないでしょ」姉が説明した。
「なるほど。考えたことなもなかった」
「それじゃ、佐藤さんちには、不登校の子どもがいたってこと? 姉貴のクラスメイト? どんな人だった?」
「だから、それが不登校だから、印象が薄いのよ。ほとんど学校に来ていないって。別にね、いじめとかあったわけじゃないんだけど、担任が谷口で、責任感の強い先生だったから、何度も自宅訪問して説得してたみたいだけど」
「それでどうなったの?」
「どうにも。たぶん出席日数が足りないまま、中退かな」
 立っていって、幕を開くようにボウ・ウィンドウにかかった緑色の遮光カーテンを引くと、夜闇を背景にガラス窓がスクリーンになって、まるでホームドラマのワンシーンみたいに食卓を囲む家族の団欒風景が映っていた。その見せかけの団欒の奥を見透かすかのように眼を凝らす。先程、隣の夫婦は車で出かけて不在のはずだった。しかし、見上げると、二階の窓が一箇所、雨戸もカーテンも閉じられずに明かりが灯っている。もちろん、だからといって、誰かがそこにいるということにはならない。
「ねえ、父さん」呼びかけても反応が鈍い。「父さんってば!」
「ん、なんだ?」
 湯気の向こうで、膜のかかったような瞳を見開いて、きょとんとしている。
「この間さ、お隣から助けを求める声を聞いたって言ったよね」母と姉の表情が凍りつくのも構わず、ぼくは続けた。「それって幼い女の子の声じゃなかった?」
「どうだったかな? そんなことを言ったかな」
「覚えてないってこと?」
「んー」そう言って、父は頭を前後にゆっくり揺すり始めた。今まで見たことのない動作だ。
「それとも男の子の声だった? ひょっとして何か見たんじゃないの?」
 屋内は禁煙にしているから、父が煙草を吸うのは庭かバルコニーになる。そこからは隣家を観察するには好都合だし、音も聞こえやすいだろう、というよりもむしろ、我が家の庭に面したインナーバルコニーはあたかも佐藤家の芝居を観劇するために誂えられた桟敷席であるかのようだった。一方で、キューブハウスは要塞だかトーチカのように内に秘密を守り、その窓は外に向かって開かれるのではなく、なんだか銃眼のように見えるというの事実だ。しかし、ひょっとしたら父は何かを眼にした、もしくは耳にした。そして、眼にしたこと、あるいは耳にしたことを幻だと思うことにした。そんな思いつきに過ぎないような推理にも、不意に肌が粟立つ。なぜなら……なぜなら、そんなことを考えついたのは、おそらくこの世界に自分ひとりだけなのだから。そして、ただこのぼくひとりだけが、この事件を解決することができるかもしれないから。
 突然、鍋がひっくり返るほどの勢いで母が立ち上がった。下唇を噛み、眉間に皺を寄せ、鬼の形相でこちらを睨みつけてくる。こんな剣幕で怒る母を、ぼくは今まで一度も見たことがなかった。
「んー」と唸りながら、父が体を前後に揺するその角度がしだいに大きくなってゆく、机に頭をぶつけやしないか、鍋に突っ込みやしないかと危ぶまれる程に。
 ぼくは、久しぶりに家族四人揃ったせっかくの夕食を台無しにしてしまったのだ。
「……ごめんなさい」そう言って、自室に引き上げる他なかった。

(続く)

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