「ボーイ・ネクストドア」08
(承前)
梯子段を降りて、闇のなか手探りで照明のスイッチを探すと、掌が壁を探り当てる前に明かりがついた。カーポートと同様に人感式センサらしい。
ブーンという耳鳴りみたいな機械音が止むことなく響いている。突然の光に眩んだ眼が慣れるにつれて、細長い蒲鉾型の小さな地下室が浮かんでくる。片側の上下四段の集成材の棚にはペットボトル、トイレットペーパー、缶詰、段ボール箱などが並んでいる。反対側には簡易ベッド。物置代わりに使われているのではないらしい。梯子の裏側にある装置、煙突の付いた薪ストーブに似たような装置は空調か空気清浄機らしく、空気は澱んでいない。循環している。そして、温度は適切に保たれている。
棚の上に指を走らせると埃はなく、ベッドの上では深い海の色をした暖かそうなフランネルの毛布がきちんと畳まれている。部屋の向こう側は間仕切りカーテンで仕切られていて、恐る恐る開いてみると、ピカピカに磨かれた真っ白な便座が現れた。地下室はそれだけでの広さで、天井は高いが、ぼくの勉強部屋ぐらいしかない。
この部屋は使われている、もしくは間近まで使われていたにちがいない。
人の気配を感じる。かすかな空気のゆらぎ、仄かな体温、ひといきれ……。
「……助けにきたよ」
誰にともなく呟くと同時に明かりが落ちた。
振り返ったところを突き飛ばされた。尻餅をついて、便器の角で頭を打ち、眼の奥で火花が散った。一瞬何が起こったかわからなかった。
何者かが素早く梯子段を駆け登り、蓋を下ろす前に小首を傾げて、倒れているぼくをじっと観察しているらしかった。影になって顔は見えない。梯子がするすると引っ張り上げられ、扉が閉められる間際、朗らかな笑い声が木霊した。あるいは、それは幻聴かもしれなかった。
落ち着け、大丈夫だ。
後頭部ににわかに膨れあがってきたこぶをさすりながら、のろのろと立ち上がり、梯子があったところまで歩いて、ハンドルを見上げる。大丈夫だと自身に言い聞かせる。シェルターなら、必ず中から扉を持ち上げて外に出られるはずだ。あくまでも、ここがシェルターであったらの話であるが。
簡易ベッドを扉の下まで引き摺ってきて、その上に乗って何度かジャンプするが、虚しく空を掴むばかりだった。まだ大丈夫だ。
「おーい!」ぼくは叫んだ。「誰か、助けてくれ!」
自身でも呆れるほど切迫感のない叫び声だった。
落ち着け、閉じ込められたわけではない。いや、完全に閉じ込められた。
「父さん! 父さん! ぼくはここだ! ここにいる!」
なんだか、どこかで聞いたような台詞だな、とそんなことがちらと頭をよぎる、まるで他人事のように。
✴︎
「おかしな……」と朝食の卓で夫は呟いた。
眼が落ち窪み口元に深い皺が刻まれ、憔悴し切った様子で、病気になってから、かれこれもう十年も老けたように見える。
「一体どこへ行ってしまったのだろう」
化粧を済ませスーツを身につけ、慌ただしい出勤前の時間に妻は、夫が豆から引いて淹れたコーヒーを立ったまま口に含んで、思わず顔を顰めた。マンダリン。彼女には苦すぎたのだ。朝食に用意された、牛乳にたっぷりと浸かったシリアルには手をつけず、
「何が見つからないの?」
「もうずっと探しているんだが……」
それから首を傾げ、じっと耳を澄ませる形になって、「なんか隣から声が聞こえてこないか」
妻は小さくため息をついて、それでもリモコンで天気予報を消すと、ふたりの間に束の間の静寂が降りてくる。室内では暖かい風を送る空調機の機械音、外からは二重窓を通して、電線で小鳥たちが囀っているのが聞こえてくる。素晴らしい冬晴れの、放射冷却の朝。
「ほら、助けてくれ、父さん、ここから出してくれと」
「ああ、かわいそうに!」ファンデーションで相手を汚さぬように気をつけながら、部屋着姿の夫をそっと抱きしめて、「また幻聴が聞こえてくるようになったのね。薬が合わないのかもしれない。お医者様に相談しなくちゃ」
「そうだね。感覚が鋭くなって、研ぎ澄まされるようになって、色んな声が聞こえてくるんだ。これは終わりがないようだよ」
両耳をぎゅっと押さえつけてみる。しかし、声は外からではなく、中から響いてくるようでもある。
「じゃあ、君は、本当に私たちには男の子はなかったと言うのだね」
不意に夫は真顔になって訊いた。
「ええ、そうよ、私たちには女の子だけ」
「どうにも解せないな……ヒロ……というような名の子はいなかったか?」
「何を言い出すの、一体何を。それはね、隣の家の男の子の名前じゃないの。そんなこともわからなくなってしまったの、そんなことも……」言葉を継げずに、こぼれ落ちた涙がはらはらと頬を伝い、せっかくのアイメイクがいつまでも取れない疲れの隈のように滲んだ。
妻が車を出す所を、コーヒーカップを片手に出窓から見送ってからしばらく、そのまま夫は庭の棒樫の向こうのキューブハウスの壁、かつては白かったが今は薄汚れて黄ばんで見える外壁をぼんやりと見上げた。外界をひたすら拒む小さな要塞、或いは、頑ななトーチカのように自らのうちに閉じこもって安らっている。ハンドルノブを回して窓を開けて、もう一度耳を傾けてみると、たしかに救いを求める声が聞こえてくるくるような気がする、一体これが幻聴だというのか。
「それにしても、一体どこへ行ってしまったのだろう……」
(了)
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