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【漢詩で語る三国志】第2話「覇者曹操、槊を横たえて詩を賦す」


曹操、槊を横たえて詩を賦す

 董卓(とうたく)亡き後、群雄割拠の時代に入り、いち早く表舞台に躍り出たのが曹操(そうそう)である。曹操は、政治家であり武将であり、また詩人でもあった。
 「槊(ほこ)を横たえて詩を賦(ふ)す」と言われるように、陣中でも悠然と詩を詠んだとされる。
 曹操は、楽府(がふ)という民間歌謡風の詩を王者の風格で雄壮に歌った。古朴で重厚な作風は、建安の時代気質をそのまま伝えている。

   短歌行  短歌行(たんかこう)
                             魏・曹操
  對酒當歌  酒(さけ)に対(むか)いて当(まさ)に歌(うた)うべし
  人生幾何  人生(じんせい)幾何(いくばく)ぞ
  譬如朝露  譬(たと)えば朝露(ちょうろ)の如(ごと)し
  去日苦多  去(さ)りし日(ひ)は苦(はなは)だ多(おお)し

  慨當以慷  慨(がい)して当(まさ)に以(もっ)て慷(こう)すべし  
  憂思難忘  憂思(ゆうし)忘(わす)れ難(がた)し
  何以解憂  何(なに)を以(もっ)て憂(うれ)いを解(と)かん
  唯有杜康  唯(た)だ杜康(とこう)有(あ)るのみ

  青青子衿  青青(せいせい)たる子(きみ)の衿(えり)
  悠悠我心  悠悠(ゆうゆう)たる我(わ)が心(こころ)
  但爲君故  但(た)だ君(きみ)が為(ため)の故(ゆえ)に
  沈吟至今  沈吟(ちんぎん)して今(いま)に至(いた)る

  呦呦鹿鳴  呦呦(ゆうゆう)として鹿(しか)は鳴(な)き
  食野之苹  野(の)の苹(よもぎ)を食(くら)う
  我有嘉賓  我(われ)に嘉賓(かひん)有(あ)らば
  鼓瑟吹笙  瑟(しつ)を鼓(こ)し笙(しょう)を吹(ふ)かん

  明明如月  明明(めいめい)たること月(つき)の如(ごと)きも
  何時可掇  何(いず)れの時(とき)にか掇(と)るべけん
  憂從中來  憂(うれ)いは中(うち)より来(きた)りて
  不可斷絶  断絶(だんぜつ)すべからず

  越陌度阡  陌(はく)を越(こ)え阡(せん)を度(わた)り
  枉用相存  枉(ま)げて用(もっ)て相(あ)い存(そん)せよ
  契闊談讌  契闊(けつかつ)談讌(だんえん)して
  心念舊恩  心(こころ)に旧恩(きゅうおん)を念(おも)わん

  月明星稀  月(つき)明(あき)らかに星(ほし)稀(まれ)にして
  烏鵲南飛  烏鵲(うじゃく) 南(みなみ)に飛(と)ぶ
  繞樹三匝  樹(き)を繞(めぐ)ること三匝(さんそう)
  何枝可依  何(いず)れの枝(えだ)にか依(よ)るべき

  山不厭高  山(やま)は高(たか)きを厭(いと)わず
  海不厭深  海(うみ)は深(ふか)きを厭(いと)わず
  周公吐哺  周公(しゅうこう) 哺(ほ)を吐(は)きて
  天下歸心  天下(てんか) 心(こころ)を帰(き)せり


 曹操(一五五~二二〇)、字は孟徳(もうとく)。祖父の曹騰(そうとう)は、桓帝に宦官として仕え、宦官の最高位である大長秋(だいちょうしゅう)となった。のち、費亭侯(ひていこう)に封ぜられ、巨万の富を蓄えた。

 父の曹嵩(そうすう)は、もと夏侯(かこう)氏であったが、曹騰の養子となり、曹氏を継いだ。曹嵩は、財力にものを言わせて、三公の一つである太尉(たいい)にまで昇りつめた。

 後漢末、董卓が朝廷で横暴を極めると、曹操は洛陽から逃れて、反董卓の兵を挙げ、袁紹(えんしょう)を盟主とする董卓討伐の連合軍に加わる。
 この時期、曹操は、「黄巾(こうきん)の乱」の残党三十万を投降させ、その中の精鋭を自軍に取り込み、群雄の間で頭角を現すようになる。

 建安元年(一九六)、曹操は、献帝を自らの本拠地である許(きよ)(河南省許昌市)に迎え入れ、天子を後ろ盾にして権勢をほしいままにする。
 
 やがて、袁紹と対立し、建安五年(二〇〇)「官渡(かんと)の戦い」で袁紹を破り、ついに華北を平定する。

 のち、曹操は丞相となり、着々と天下統一への道を進むが、建安十三年(二〇八)「赤壁(せきへき)の戦い」で思わぬ大敗を喫する。統一の事業は頓挫し、魏・蜀・呉の三国が鼎立する局面を迎えることになる。

人生は朝露の如し

 曹操の代表作「短歌行」は、人生のはかなさを嘆くことから歌い起こし、天下の覇者として有能な人材を探し求める心情を吐露している。

酒(さけ)に対(むか)いて当(まさ)に歌(うた)うべし
人生(じんせい)幾何(いくばく)ぞ
譬(たと)えば朝露(ちょうろ)の如(ごと)し
去(さ)りし日(ひ)は苦(はなは)だ多(おお)し

――酒を前にしたからには、さあ、大いに歌おう。人の一生はどれほどあるというのか。そのはかなさは、あたかも朝露のごとくだ。過ぎ去りし日々のなんと多いことか。

 人生は短いのだから、酒を前にした以上、大いに飲み、大いに歌おうじゃないか、と雄壮に歌い起こす。人の命の短さを日の出と共に消えゆく朝露に喩える。

慨(がい)して当(まさ)に以(もつ)て慷(こう)すべし
憂思(ゆうし)忘(わす)れ難(がた)し
何(なに)を以(もつ)てか憂(うれ)いを解(と)かん
唯(た)だ杜康(とこう)有(あ)るのみ

――人の世のはかなさを思うと、気持ちは高ぶるばかり。憂いは胸から離れない。いかにしてこの憂いを払おうか。ただ酒あるのみ!

「杜康」は、初めて酒を造ったとされる伝説上の人物。転じて、酒のことをいう。古代の人々にとって、酒はもろもろの憂いから心を解き放つためのものであった。

山は高きを厭わず、海は深きを厭わず

 天下取りの野望を実現させる上で、曹操が最も苦心していたのが、優れた人材の招致であった。曹操は、荀彧(じゆんいく)をはじめとする有能な知識人たちを積極的に陣営に取り込もうとした。

青青(せいせい)たる子(きみ)の衿(えり)
悠悠(ゆうゆう)たる我(わ)が心(こころ)
但(た)だ君(きみ)が為(ため)の故(ゆえ)に
沈吟(ちんぎん)して今(いま)に至(いた)る

――青い襟の服を着た若者たちよ。わたしは、久しく心に慕っている。ひたすら君らの訪れを待ち、深く思い続けて今日に至っている。

 「青衿」は、周代の学生の服装。ここでは、若い有能な士をいう。

呦呦(ゆうゆう)として鹿(しか)は鳴(な)き
野(の)の苹(よもぎ)を食(くら)う
我(われ)に嘉賓(かひん)有(あ)らば
瑟(しつ)を鼓(こ)し笙(しょう)を吹(ふ)かん

――鹿は、ゆうゆうと鳴き交わして仲間を呼び集め、野原のヨモギを食(は)んでいる。わたしも良き客人を迎えたならば、大琴を鳴らし笛を吹いて歓待しよう。

 「鹿鳴」は、『詩経』小雅「鹿鳴」からの引用で、君主が嘉賓を招いて宴を催し、共に天下を治めようとする意を表す。

明明(めいめい)たること月(つき)の如(ごと)きも
何(いず)れの時(とき)にか掇(と)るべけん
憂(うれ)いは中(うち)より来(きた)りて
断絶(だんぜつ)すべからず

――夜空に明るく輝く月のような人材を、いつになったら手に入れることができるのか。憂いが心の奥底から湧き上がり、断ち切ることができない。

 「月」は、手につかみ取ることのできない存在であることから、なかなか得ることのできない賢才を喩えている。

陌(はく)を越(こ)え阡(せん)を度(わた)り
枉(ま)げて用(もつ)て相(あ)い存(そん)せよ
契闊(けつかつ)談讌(だんえん)して  
心(こころ)に旧恩(きゅうおん)を念(おも)わん

――遥かな道のりを踏み越えて、どうかわたしを訪ねてきてほしい。久しぶりに大いに飲み語らい、かつての情誼を温めようではないか。

 「契闊」は、久しく別れていること。「談讌」は、歓談しながら酒を酌み交わすことをいう。

月(つき)明(あき)らかに星(ほし)稀(まれ)にして
烏鵲(うじゃく) 南(みなみ)に飛(と)ぶ
樹(き)を繞(めぐ)ること三匝(さんそう)
何(いず)れの枝(えだ)にか依(よ)るべき

――月が明るく照りわたり、星の光が薄れた夜、カササギが南へ向かって飛んでゆく。木の周りを何度も飛びめぐっているのは、身を寄せる枝を探しあぐねているのだろうか。

 宿るべき枝の見つからない「烏鵲」は、明君を探し求めて巡り歩く賢才を喩えている。

山(やま)は高(たか)きを厭(いと)わず
海(うみ)は深(ふか)きを厭(いと)わず
周公(しゅうこう) 哺(ほ)を吐(は)きて
天下(てんか) 心(こころ)を帰(き)せり

――山はいくら高くてもよい。海はいくら深くてもよい。かの周公は、食事の最中、口に入れたものを吐き出してまで来客に接見した。それゆえ、天下の人々がみな心を寄せたのだ。

 山と海の二句は、海が小川を拒まずに受け入れるがゆえに大きくなり、山が土や石を拒まずに受け入れるがゆえに高くなるように、優れた君主は多様な人材を受け入れる大きな度量を持つことをいう。
 「周公」は、周公旦(しゅうこうたん)。成王(武王の子)を輔佐して周王朝の基礎を築いた。人材の登用に熱心で、洗髪や食事を中断してまで来客に面会し、天下に賢人を求めたと伝えられている。

 この詩の作成年代については諸説がある。『三国志演義』第四十八回に、「赤壁の戦い」の直前、曹操軍が船上で宴を催し、酒に酔って槊を手にした曹操が、諸将を前にして意気揚々とこの詩を歌った、という場面があるが、これはフィクションである。

 曹操は、「赤壁の戦い」の二年後、建安十五年(二一〇)に「求賢令」を発令し、家柄や経歴にかかわらず、才能のある人材を広く世に求めており、その後もしばしば同様の布告を出している。「短歌行」の詩意から見れば、この詩が作られたのは、「赤壁の戦い」よりも後と考えられる。

英雄なのか、国賊なのか

 曹操は、政治と軍事に並はずれた天分を持った宰相であり将軍であった。戦略に優れていたばかりでなく、屯田制を施行するなど、経済政策にも傑出した能力を発揮し、また、建安文学を代表する詩人でもあった。まさに文武両面に非凡な才能を見せた一代の英雄であった。

 人物批評の名人許劭(きょしょう)は、曹操のことを「治世の能臣、乱世の奸雄)」(平和な世では有能な臣下、乱れた世では悪辣な英雄)と評した。「奸」は、奸智に長けて、ずる賢いという意味であり、決して褒め言葉ではないが、曹操はこの評が痛く気に入り、呵々(かか)大笑して喜んだという。

 曹操に醜悪なイメージがつきまとうのは、彼の出自が関わっている。宦官の子孫であるゆえに、周囲からは、出身のいかがわしい成り上がり者という目で見られてしまうのである。

 『三国志演義』の中では、曹操はもっぱら悪玉の役を担わされているが、それには、劉備を善玉として扱うために、曹操が必要以上に悪く描かれたという面もある。

 正史『三国志』は、著者陳寿(ちんじゅ)が晋の武帝(司馬炎)の臣であり、司馬氏は魏の曹氏から禅譲を受けているので、当然のことながら、魏を正統王朝としている。

陳寿『三国志』

 ところが、その後、三国のどの王朝を正統と見なすかという問題が、知識人の間でしばしば議論されるようになる。

 東晋・習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋』は、蜀を正統と見なし、これが南朝の各王朝に受け継がれる。唐から北宋にかけては、再び魏を正統とする主張が優勢となるが、南宋に至ると、朱熹(しゅき)が蜀の正統を唱え、以後はこれが主流となる。
 明代に成立した小説『三国志演義』では、蜀の劉備を漢王室の正統な後継者とする見方で物語が描かれている。

 宋代の盛り場では「説三分(せつさんぶん)」と呼ばれる「三国志語り」が人気を博していた。北宋・蘇軾(そしょく)の『東坡志林(とうばしりん)』に、町の子供が講釈を聴く様子を記述した一節がある。

三国の事を説(かた)るに至りて、劉玄徳(りゅうげんとく)の敗るるを聞かば、顰蹙(ひんしゅく)して涕(なみだ)を出す者有り、曹操の敗るるを聞かば、即ち喜びて快を唱す。

――講釈師が三国興亡のことを語るに至ると、聴衆は、劉備が負けると眉をしかめて涙を流し、曹操が負けると喜んで喝采する。

 知識人の間での議論がどうであれ、庶民の間では、この頃からすでに人心は蜀の劉備への同情を呈し、魏の曹操はつねに悪役として扱われていた。
 『三国志演義』は、講釈や芝居などの大衆演芸が母胎となっているため、人物に対する好悪には、判官贔屓(はんがんびいき)の民衆心理が多分に働くのである。

 陳寿が「非常の人、超世の傑」(並はずれた人物、時代を超えた英傑)と讃えた英雄曹操は、『三国志演義』では、一転して「国賊」という不名誉なレッテルを貼られることになったのである。

 近代中国においては、毛沢東が自らの政治的立場を示す上で、曹操を偉大な政治家、軍略家、文学家として、肯定的に評価する発言をしている。
 また、学術的研究が進み、曹操の事績に対する再評価がされ、希代の英雄の実像が明らかになりつつある。
 大衆のサブカルチャーにおいても、単なる悪玉でも善玉でもない、一筋縄ではいかない魅力あるキャラクターとして、人気を博している。
 憎まれ役に甘んじてきた曹操にとっては、千年の歳月をかけての名誉回復である。


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