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『幽明録』「趙泰の冥土巡り」~泰山府君と仏陀

魏晋南北朝時代、「六朝志怪」と呼ばれる怪異小説が盛行しました。
その中から、南朝宋・劉義慶撰『幽明録』に収められている「趙泰の冥土巡り」の話を読みます。

趙泰の冥土巡り


趙泰ちょうたいは、字を文和ぶんわといい、清河郡貝邱県(山東省)の人であった。朝廷からお呼びが掛かっても出仕せず、学問に精進し、郷里では名士と称えられていた。

三十五歳の時、宋の太始五年七月十三日の深夜、突然、心臓に痛みが走って亡くなった。

胸にわずかなぬくもりがあり、体を屈伸させていたので、家の者は、すぐに埋葬せずに、遺体をそのまま留めていた。

すると、十日後、喉から雷のような音を立てて息を吹き返し、目を開けて、「水をくれ」と言った。

水を飲み終わると立ち上がって、家の者たちに向かって、こう語り始めた。

死んで間もなく、黄色い馬に乗った男がやってきて、「引っ捕らえよ!」と従卒に命令した。

わたしは、従卒に捕まって、両脇を抱えられて、東へ東へと歩かされた。
幾里か進むと、大きな黒い鉄の塊のような城が聳え立っていた。


西の門から入ると、官府(役所)らしきものがあった。二重の黒い門があって、瓦葺きの小屋が何十棟も建ち並んでいた。

そこには、男女の亡者、五十人余りが列を作っていた。
黒い単衣を着た係官が、わたしを引っ立てていき、三十番目に並ばせた。

しばらくして、官府の中に入ると、泰山府君
(人の生死を司る泰山の神)が西向きに座っていて、名簿を照合していた。

わたしは、再び引っ立てられて、今度は南へ向かい、黒い門の中に入った。
そこには、赤い服を着た者が大きな部屋に座っていて、亡者の名前を順番に呼んで、生前の行いを尋問していた。


「いかなる罪過を犯したか、いかなる功徳を施したか、いかなる善行を積んだか、各々自ら申し述べよ」

亡者たちは、みなそれぞれ尋問に答えた。すると、長官が亡者たちに、こう告げた。

「六師督録使者(現世に派遣されて人々の所業を記録する冥界の役人)が人間界で、お前たちの行った善悪を記録している。嘘を申せばすぐにわかる。
罪を犯せば、死後に「三悪道」
(地獄道、餓鬼道、畜生道)が待っておる。「殺生祷祠」(生け贄を供えて邪神を祀ること)が何よりも重い罪になる。仏を奉じ、「五戒十善」(仏教の諸々の戒律)を守り、慈悲の心を以て布施を行えば、「福舎」(冥界の安楽な館)で平穏無事に暮らすことができる」

わたしは、こう答えた。
「何一つ成し遂げておりませんが、悪事を働いたこともございません」

尋問が終わると、わたしは水官監作吏
(河川工事の現場監督)の役に就かされた。

わたしの監督の下で、千人余りの亡者が、砂を運んで岸に積み上げる苦役を課せられた。

昼夜を問わず、辛い労働をさせられ、亡者たちは、
「嗚呼、生前、善行を積まなかったせいで、こんな羽目に遭った」
と後悔しながら涙を流していた。

泰山府君

その後、水官都督(河川工事の総監督)に転任し、諸々の獄事を管理した。
馬を与えられ、東へ向かい、諸々の地獄を巡察した。

初めに訪れた地獄には、六千人ほどの男の亡者がいた。高さ千丈の炎の樹があり、周りの地面に剣の刃が突き出ている。炎で焼かれた亡者たちが、五人十人と樹から落下し、ブスリ、ブスリと刃で体を貫かれた。

この亡者たちは、生前、人を呪ったり罵ったり、人の財物を盗んだり、善良な人を騙したりした者たちだということだ。

わたしは、父上、母上と弟が、この地獄で涙を流している姿を目にした。

そこへ使いの冥吏
(冥界の小役人)が文書を持ってやって来て、獄吏(刑罰を執行する冥吏)に勅命を伝えた。

「この三人の者は、家の者が仏門に帰依し、寺に幡蓋
(はんがい)を懸け、香を焚き、『法華経』を唱え、三人の生前の罪過が赦されることを祈願している。これに免じて、地獄から釈放して福舎へ移せ」

しばらくすると、三人は自由な身なりで現れ、ある門の方に向かって進んでいった。

その門は、白壁と赤柱の三重の門で、「開光大舎」と書かれてあった。
三人は、門の中へ入っていった。

中には、豪奢な大殿があり、宝物が光り輝いていた。
堂の前には、二頭の獅子が伏せており、背に金玉の王座を載せている。

王座に座っているのは、全身が金色に輝く大きな人物で、背丈は一丈余り、頭の後方は、光に照らされている。周囲には多くの僧侶が立ち侍っており、四方には真人菩薩が坐していた。

そこへ泰山府君がやって来て、恭しく拝礼をした。

「どういう御方なのか」と、わたしは傍にいた冥吏に尋ねた。

冥吏は、こう答えた。
「仏陀という御名で、天上天下、すべての衆生をお救いになる御方だ」

すると、仏陀が言葉を発した。
「諸々の地獄にいる亡者たちを済度する。獄から出して、時機を待たせよ」

この時、何千何万もの亡者が、一度に地獄から出ることを赦された。
まず十人の亡者が呼び出されると、車馬が迎えに来て、天上に生まれ変わるべく、大空に昇って去っていった。

次にわたしが訪れたのは、四方二百里余りの「受変形城」という城だった。

生前一度も仏法を聞かなかった者が、地獄での刑罰が終わると、この城で「更変」
(生まれ変わり)の報いを受けるのだそうだ。

北の門に入ると、数千の土壁の小屋があった。その中央には、広さ五十歩余りの瓦葺きの建物があった。

建物の周りに、五百人ほどの冥吏がいて、亡者たちの名前を照合し、生前の善悪を記録する調書を作成していた。

亡者たちは、それぞれに決められた路へ進まされた。

殺生をした者は、蜉蝣虫
(かげろう)となり、朝に生まれ夕方に死ぬ。
人に生まれ変わった場合も、短命に終わる。

窃盗を犯した者は、豚や羊となり、自分の体の肉を屠って、その肉の代金で盗んだ金品を弁償する。

淫乱の行いをした者は、鳥や蛇になり、悪舌の者は、フクロウやミミズクになり、鳴き声が耳障りで、人に呪い殺される。

借金を踏み倒した者は、ロバ、馬、牛、魚、スッポンの類になる。

大きな建物の下に地下室があり、北と南に戸がある。亡者たちは、一人ずつ呼ばれて、北の戸から地下室へ入り、南の戸から出た時には、みな鳥獣の姿に変わっている。

また、もう一つの城に着いた。
四方百里余りの城で、そこの瓦屋は、居心地がよく快適そうだった。

生前、悪事は働かずとも、善行も為さなかった者は、千年間ここに留まった後、人間に生まれ変わって現世に戻ることができるらしい。

さらに、もう一つの城に着いた。
広さ五千歩余りで、「地中」と呼ばれていた。

ここにいる亡者たちは、苦痛に耐えかねた様子で、男女五、六万人、みな裸で服を身につけず、飢えて苦しみ、互いに体をもたれかけている。わたしを見て、地に頭を叩きつけて大声で泣き叫んでいた。

わたしは、巡察を終えて、もとの場所に戻った。

長官がわたしに尋ねた。
「地獄の様子は、定め通りになっておったかな? 君は、生前、罪を犯していなかったので、河川工事監督に就かせたのだ。さもなくば、地獄の亡者たちと同じ目に遭っていたのだぞ」

わたしは、そこで長官に尋ねた。
「人はどのように生きたら幸福になれるのでしょうか?」

長官は答えた。
「ただ仏を奉じる信者となって、日々精進し、戒律を犯さないことを幸福とすればよい」

わたしは、さらに尋ねた。
「仏門に入信する前に、山ほど罪を犯したとしても、仏法を奉ずれば、犯した罪は除かれるのでしょうか?」

長官は答えた。
「すべて除かれる」

長官は、都録使者
(書記役の冥吏)を呼んで尋ねた。
「趙泰は、なにゆえに死んだのだ?」

都録使者が文書箱の紐を解き、寿命の帳簿を調べた。
そして、長官にこう報告した。

「趙泰は、まだ三十年の寿命が残っておりました。邪悪な冥卒
(死者を冥土に連行する冥吏)に、理由もなく連れてこられてしまったようであります。現世に帰してやって宜しいかと存じます。」

こうして、わたしは家に帰されたのだ。

趙泰が語り終わると、この話を聞いた家の者たちは、それ以来、老いも若きも仏を奉じ、亡くなった趙泰の父母と弟のために幡蓋を懸け、『法華経』を唱え、功徳を積んだ。


「趙泰の冥土巡り」の話は、南朝宋の劉義慶が撰した怪異小説集『幽明録』に収められています。

『幽明録』には、仏教説話が多く含まれており、趙泰の故事もその中の一つです。

冥土巡りの説話、すなわち「冥界遊行譚」は、死んだ人間が蘇生し、死んでいた間に見聞した冥界の様子を人々に語る、という構成の説話です。

仏教が伝来する以前、古代中国の人々は、人間は死ぬとその魂が泰山へ行くと信じていました。

泰山は、山東省にある山で、五岳の中の東岳です。古代、封禅の儀がここで行われ、中国で最も重要な山でした。

泰山は、冥土のある場所とされ、そこには「冥府」(冥界の役所)があるとされていました。その冥府の主宰者が、「泰山府君」です。

泰山の冥界は、現世と同質の社会と設定されています。中国は、古来、専制君主制に基づく官僚体制の国家です。冥界もまた泰山府君を頂点とする官僚体制の社会構造になっています。

冥界にも現世と同じような諸々の官職が設けられていますが、官職への就任は、生前の行為や貴賤とは関係がありません。

また、現世と基本的に同じ社会形態ですので、人々に恐怖感を与える要素もありません。

この点は、因果応報、輪廻転生を説き、仏道に帰依させるために地獄を語る仏教とは大きく異なるところです。

中国の冥界に関する民間信仰は、元来、泰山信仰に基づくものでした。

ところが、後漢の明帝の時代に仏教が中国に伝来し、広く民間に流布するようになると、やがて仏教説話が泰山信仰を取り込んでしまう形になります。

仏教説話の中では、泰山府君は権力を剥奪され、仏の配下に置かれるようになります。趙泰の故事の中でも、泰山府君は、亡者の名簿を照合する役に成り下がり、仏陀の前で恭しく拝礼をする姿が描かれています。

古今東西、宗教説話はみなそうであるように、趙泰の故事も、たいへん巧妙な構成になっています。

まず、「仮死状態」という設定が巧妙です。死んだ者が生き返り、その死んでいた間に見聞したことを語るという設定になっています。死んだ経験のある男が語った話ということなので、説得力があります。そして、最後に、生き返った理由まできちんと説明しています。

もう一つは、「諸地獄の巡察」という設定です。生前は「何一つ成し遂げていないが、悪事を働いたこともない」ということにして、諸地獄の巡察の役を与えています。仮に、趙泰が現世で悪事を働いて地獄へ堕ちるという設定にすると、それなりに恐怖感を与える効果はありますが、冥土の一部しか語れなくなります。諸地獄の巡察官という設定にすれば、諸々の地獄の様子や、開光大舎、仏陀のことについても、客観的に語ることができます。

さらに、「問答形式」になっていることです。趙泰が質問を発する問答の形式で、仏法をわかりやすく説いています。特に、最後の場面で、巡察を終えた趙泰と冥土の長官との対話は、まるで僧侶が仏教のことをよく知らない民衆に向かって説教をしているかのような台詞になっています。

仏教説話の目的は、聞いた者を仏門に帰依させることにあります。
その方法は、一つは、仏を信仰しないことによる死後の苦難を説くことで、もう一つは、仏を信仰することによる御利益を説くことです。

「趙泰の冥土巡り」の話は、前者の例で、地獄の恐ろしさを伝えて、仏門に帰依することで苦難を免れることができると説いています。

「身代わり観音」の故事は、後者の典型的な例です。敬虔な仏教信者であったため観音様によって命を救われたという男の話です。

地獄の思想は、古代印度の民間信仰の中にすでに見られます。それが、中国に伝播すると、地獄の形態が中国化し、泰山信仰の場合と同様に、閻魔大王を頂点とする官僚体制の社会構造となります。

日本にも、中国からの仏教の伝来に伴って、地獄の思想が伝わっています。古くは、僧侶の説法でしばしば地獄が語られ、数々の地獄絵図が描かれています。

昔は、中国でも日本でも、一般庶民は書物など読みません。と言うか、そもそも庶民のほとんどは文盲でした。

ですから、布教の方法は、主に、口頭での説法になります。庶民の心を動かすには、分かりやすく巧みに話すことが重要ですが、絵図を使って話せば、より分かりやすくなります。

中国では、唐代の寺院で、庶民を集めて「俗講」と呼ばれる説法が行われ、その際、「変相図」と呼ばれる絵図が用いられました。つまり、「絵解き」や「紙芝居」みたいなものです。

同じようなことが、日本でも行われてきました。今でも日本の多くのお寺に、説法の時に実際に用いたと思われる「地獄絵」が残っています。

地獄絵図(岐阜県行基寺)
地獄絵図(青森県雲祥寺)

地獄の物語が書物になる場合も、絵図を伴うのが一般的です。

『地獄草紙』(東京国立博物館蔵)


下の動画は、現代のお寺でも行われている絵解きの風景です。


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