中国古典インターネット講義【第22回】戯曲~古典演劇の脚本
「戯曲」とは?
「戯曲」とは、舞台で役者が演じる劇の内容を記したもの、つまり、脚本のことです。
登場人物の歌詞や台詞に加えて、演技や舞台設定に関するト書も記されています。
宋代の「雑劇」
宋代、都市には盛り場「瓦子」が設けられ、そこで様々な演芸を行う劇場「勾欄」が建ち並んでいました。
その中で、「説話」(講談)と並んで主要な演芸だったのが、「雑劇」と呼ばれる演劇です。
「雑劇」は、宋代に始まり元代に盛行した北方系の古典演劇です。
歌唱と台詞を伴う歌劇の形式で、北宋のものは、主に諷刺を込めた滑稽劇でした。
金代の「院本」
宋朝南渡後、北に残留した役者が金の都燕山(今の北京)に集まって北方派の「雑劇」を継承しました。これを「院本」と呼んでいます。
当時、芝居の一座の生活した場所を「行院」と呼び、「院本」とは、行院の役者たちが用いた脚本という意味です。
金の「院本」は、内容的には北宋の「雑劇」とほとんど同じで、滑稽劇を中心としています。
「院本」は、やがて元代の「雑劇」すなわち「元曲」に発展していきます。
「元曲」
元代の「雑劇」は、一般に「元曲」と呼ばれています。金の「院本」や「諸宮調」を土台として、さらに民間の諸演芸を広く吸収して形成された本格的な演劇芸術です。
「諸宮調」とは、歌曲を伴う語り物で、歌い手(語り手)が、歌曲と台詞を交互に歌って語る民間演芸です。
「元曲」は、役者の歌唱を軸として、台詞と仕草・立ち回りを組み合わせ、楽器の演奏を伴った歌劇です。
元の大都(今の北京)が「元曲」の活動の中心となり、優れた劇作家を輩出しました。
元代は、蒙古族による異民族支配の時代です。漢民族は厳しい差別を受け、
また、知識人にとって受難の時代でした。
元代の十段階の身分制度は、次のような序列になっています。
一番上の位が「官」(高級役人)、二番目が「吏」(下級役人)、三番目が「僧」(僧侶)と続いて、最後の十番目が「丐」(乞食)となりますが、「儒」(学者や文人)は、乞食の一つ上の九番目になっていました。
儒家的道徳観は弛緩し、科挙は停止し、知識人は伝統的な詩文によって才能を発揮する道が閉ざされました。
そうした状況下で、一部の文人が劇作家となり、「書会」と呼ばれる同業者グループ(ギルド)に属して演劇の脚本を書きました。
劇作家の大半は社会の下層に位置する不遇な知識人で、時には作家が役者を兼ねることもありました。
作品は観客である一般庶民の好みに合わせて創作されており、歴史・恋愛・裁判など、題材は多岐にわたっています。
中国古典文学では、時代別の代表的ジャンルを一つずつ挙げて、「漢文・唐詩・宋詞・元曲」という言い方があるように、「元曲」は、元代を代表する文学です。
「元曲」の代表作
▼関漢卿『竇娥冤』
▼馬致遠『漢宮秋』
▼王実甫『西廂記』
書生の張生と崔家の娘鶯鶯の恋愛故事です。
唐代伝奇「鶯鶯伝」(元稹作、別名「会真記」)が元になっています。
唐代伝奇「鶯鶯伝」では、最後に張生が鶯鶯を捨ててしまいますが、元曲「西廂記」では、二人は結ばれハッピーエンドになります。これは、大団円の結末を期待する観客(民衆)の好みを反映させたものです。
▼白樸『梧桐雨』
白居易の「長恨歌」に基づいて、玄宗皇帝と楊貴妃の故事を舞台化したものです。
▼鄭光祖『倩女離魂』
唐代伝奇の「離魂記」に基づくもので、女の魂が身体から遊離して男と駆け落ちする物語です。
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