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【漢詩で語る三国志】第5話「東風、周郎のために吹かざれば」


杜牧の詠史詩「赤壁」

 「赤壁の戦い」は、まさに天下分け目の戦いであった。これを境にして、魏・蜀・呉が鼎立し、天下三分の形勢ができあがった。

 歴史の転換点となったこの一大決戦は、後世、数多くの伝説を生み、小説『三国志演義』の中でも、作者羅貫中が、最も苦心して、入念な虚構を盛り込んだ場面である。

 そもそも曹操が江東を攻めたのは、天下に名高い美人姉妹大喬(だいきょう)と小喬(しょうきょう)を捕らえて、銅雀台(どうじゃくだい)に侍らせるのが目的だった、という話も、そうした虚構の中の一つである。

    赤壁   赤壁(せきへき)
                           唐・杜牧
  折戟沈沙鐵未銷
  自將磨洗認前朝
  東風不與周郞便
  銅雀春深鎖二喬

折戟(せつげき) 沙(すな)に沈(しず)み 鉄(てつ)未(いま)だ銷(と)けず
自(おの)ずから磨洗(ません)を将(もっ)て 前朝(ぜんちょう)を認(みと)む
東風(とうふう) 周郞(しゅうろう)の与(ため)に便(べん)ぜずんば
銅雀(どうじゃく) 春(はる)深(ふか)くして 二喬(にきょう)を鎖(とざ)さん

 杜牧(とぼく)(八〇三~八五二)は、晩唐を代表する大詩人である。
 若い頃は、揚州の妓楼に入り浸って詩を詠じたとされ、風流才子の名を馳せた。
 
 その一方、豪放闊達で、つねに天下国家のことを論じた。兵法に精通しており、『孫子』の注釈も著している。

 詩文においては、七言絶句を得意とした。「江南の春」や「山行」など、季節の風情を軽妙に歌った詩が、広く知られているが、歴史に題材を取った詠史詩にも、見るべき佳作がある。

杜牧

 ここに挙げた「赤壁」詩は、「赤壁の戦い」を懐古して歌った七言絶句の詠史詩である。

折戟(せつげき) 沙(すな)に沈(しず)み 鉄(てつ)未(いま)だ銷(と)けず
自(おの)ずから磨洗(ません)を将(もっ)て 前朝(ぜんちょう)を認(みと)む

――折れたほこが砂に埋もれ、その鉄はまだ朽ち果ててはいない。それを磨いて洗ってみると、まさしく以前の王朝のものであると見分けがつく。

 「折戟」は、折れたほこの断片。かつての戦闘の激しさを物語る。
 「銷」は、溶けて消える。鉄が錆びてボロボロに朽ち果てることをいう。
 「前朝」は、ここでは三国時代を指す。

東風(とうふう) 周郞(しゅうろう)の与(ため)に便(べん)ぜずんば
銅雀(どうじゃく) 春(はる)深(ふか)くして 二喬(にきょう)を鎖(とざ)さん

――もし、あの戦いで、東風が周瑜のために都合よく吹いてくれなかったならば、孫権軍は敗れて、喬氏の二人の美女は曹操のものとなり、春深き頃、銅雀台の奥に閉じ込められてしまっていたことだろう。

 「周郞」は、周瑜。「二喬」は、喬公の二人の娘。孫策に嫁した姉の大喬と周瑜に嫁した妹の小喬のこと。
 「銅雀」は、銅雀台。建安十五年(二一〇)、曹操が鄴(河北省)に築いた楼台である。晩年、曹操がここに文人を集めて酒宴を催し、美姫を置いて歓楽にふけったとされる場所である。

周瑜

『三国志』と『三国志演義』

 「赤壁の戦い」は、史書『三国志』と小説『三国志演義』とでは、扱われ方、描かれ方が、大いに異なる。

 小説『三国志演義』が、潤色を加えて何倍にも話を膨らませているばかりでなく、両者の間では、時として人物の役柄も異なっている。

 正史『三国志』の記述では、火攻めの計を献じたのは黄蓋であり、作戦の総指揮を執ったのが周瑜である。諸葛孔明の出る幕は、ほとんどない。
 孔明が七星壇で祈禱して、冬には吹くはずのない東南の風を吹かせた云々という話は、後世の作り話であって、正史には載っていない。

 正史『三国志』の中で、「赤壁の戦い」の顛末を最も詳細に伝えているのは「呉書」の「周瑜伝」であり、次のように記している。

 瑜(ゆ)の部将(ぶしょう)黄蓋(こうがい)曰(いわ)く、「今(いま)寇(てき)衆(おお)く我(われ)寡(すく)なく、与(とも)に持久(じきゅう)し難(がた)し。然(しか)れども操軍(そうぐん)の船艦(せんかん)、首尾(しゅび)相接(あいせっ)するを観(み)るに、焼(や)きて走(はし)らす可(べ)きなり」と。
 乃(すなわ)ち蒙衝(もうしょう)の闘艦(とうかん)数十艘(すうじっそう)を取(と)り、実(み)たすに薪草(しんそう)を以(もっ)てし、膏油(こうゆ)を其(そ)の中(うち)に濯(そそ)ぎ、裹(つつ)むに帷幕(いばく)を以(もっ)てし、上(うえ)に牙旗(がき)を建(た)て、先(さき)に書(しょ)して曹公(そうこう)に報(ほう)じ、欺(あざむ)くに降(くだ)らんと欲(ほっ)するを以(もっ)てす。又(また)予(あらかじ)め走舸(そうか)を備(そな)え、各々(おのおの)大船(たいせん)の後(うし)ろに繋(つな)ぎ、因(よ)りて引(ひ)き次(つ)ぎて倶(とも)に前(すす)む。
 曹公(そうこう)の軍(ぐん)、吏士(りし)皆(みな)頸(くび)を延(の)ばして観望(かんぼう)し、指(ゆび)さして蓋(がい)降(くだ)れりと言(い)う。蓋(がい)諸船(しょせん)を放(はな)ち、時(とき)を同(おな)じくして火(ひ)を発(はっ)す。時(とき)に風(かぜ)盛(さか)んに猛(たけだけ)しく、悉(ことごと)く岸上(がんじょう)の営落(えいらく)に延焼(えんしょう)す。
 頃(しば)らくして煙炎(えんえん)は天(てん)に張(みなぎ)り、人馬(じんば)の焼(や)け溺(おぼ)れて死(し)する者(もの)甚(はなは)だ衆(おお)く、軍(ぐん)は遂(つい)に敗退(はいたい)し、還(かえ)りて南郡(なんぐん)を保(たも)つ。

――周瑜の部将黄蓋が言うには、「今わが軍は、衆寡敵せず、長くは持ちますまい。しかし、曹操軍の艦隊が相連なって密集しているところを見ますに、火攻めで敗走させることができましょう」。
 そこで、戦闘用の船艦数十艘に柴草を積み込み、そこに油を注ぎ、幕を張って覆い、その上に軍旗を立た。そして、前もって曹操に書簡を送り、投降したいと偽った。また、あらかじめ足の速い舟を用意して、おのおの船艦の後方に繋ぎ、次々に前進した。
 曹操の陣営では、役人や兵士たちが、みな首を伸ばして眺め、指さして「黄蓋が降ったぞ」と叫んだ。黄蓋は、船艦を突入させ、同時に火を放った。折しも激しい風が吹いていて、火は岸辺の陣営にまで延焼した。
 しばらくすると、煙と炎が天にみなぎり、おびただしい数の兵士や軍馬が焼かれて溺れ死に、曹操の軍勢はついに敗退し、引き返して南郡に立てこもった。

 このように、将軍周瑜は、黄蓋の献策を用いて、曹操の軍船を焼き討ちにしたのである。火攻めが成功したのは、折から吹いてきた強風によるものであった。

 杜牧の「赤壁」詩は、「もし、肝心の東風が吹かなかったとしたら、周瑜らの策略は失敗に終わり、二喬は曹操の手中に落ちて、かの銅雀台に囲われることになっただろう」というように、史実と異なる状況を想定して歌った奇抜な着想の詩である。

二喬と銅雀台の大ウソ

 『三国志演義』では、第四十四回に、曹操が二喬を欲しているという話を諸葛孔明が巧みに利用して周瑜を激怒させ、曹操との交戦に意を決するよう仕向ける、という場面がある。曹操の三男曹植が詠じた詩文の中に、曹操のそうした下心を暗示する詩句があるというのである。

 その詩句は、次のように記されている。

攬二喬於東南兮   二喬(にきょう)を東南(とうなん)より攬(と)りて
樂朝夕之與共    朝夕(あさゆう)に与(とも)に共(とも)にするを楽しまん

――二喬を東南から連れてきて、一日中はべらせて楽しもう。

 ところが、実は、これは話を面白くするために仕組まれた大ウソで、もとの曹植の詩文の中に、このような詩句はない。

 さらに、その後、第四十八回では、曹操に下心があったという話を裏付けるかのように、曹操が会戦前に船上で宴を催し、諸将に向かって次のように語る。

 吾(われ)今年(こんねん)五十四歳(ごじゅうしさい)なり。如(も)し江南(こうなん)を得(う)れば、窃(ひそ)かに喜(よろこ)ぶ所(ところ)有(あ)り。昔日(せきじつ)喬公(きょうこう)吾(われ)と至契(しけつ)にして、吾(われ)其(そ)の二女(にじょ)皆(みな)国色(こくしょく)有(あ)るを知(し)る。
 後(のち)料(はか)らずも孫策(そんさく)・周瑜(しゅうゆ)の娶(めと)る所(ところ)と為(な)れり。吾(われ)今(いま)新(あら)たに銅雀台(どうじゃくだい)を漳水(しょうすい)の上(ほとり)に構(かま)えしに、如(も)し江南(こうなん)を得(う)れば、当(まさ)に二喬(にきょう)を娶(めと)りて之(これ)を台上(だいじょう)に置(お)くべくして、以(もっ)て暮年(ぼねん)を娯(たの)しめば、吾(わ)が願(ねが)い足(た)れり。

――わしは今年五十四になるが、江南を手に入れたら、ひそかに楽しみにしていることがあるのだ。昔、喬公はわしと親しい仲であったから、わしは知っていたのだ、その二人の娘がどちらも天下の絶品だということを。
 その後、はからずも孫策と周瑜に嫁いでしもうた。わしは今、漳水のほとりに新たに銅雀台を建てたが、江南を手に入れたあかつきには、ぜひともあの二人の娘を娶って銅雀台に置いて、晩年を楽しみたいものだ。そうなればわしの望みかなったりじゃ。 

 そして、小説の作者は、曹操にこの台詞を吐かせた直後に、さりげなく、杜牧の「赤壁」詩を引いている。実に、手の込んだ、心憎いばかりの演出である。

項羽と劉邦、勝敗の行方

 さて、歴史に「もし」はないわけであるが、杜牧には「赤壁」詩のほかにも、歴史を仮定で詠じた詩がある。七言絶句「題烏江亭」は、項羽と劉邦の戦いについて、次のように歌っている。

   題烏江亭  烏江亭(うこうてい)に題(だい)す
                            唐・杜牧
  勝敗兵家事不期
  包羞忍恥是男兒
  江東子弟多才俊
  巻土重來未可知

勝敗(しょうはい)は 兵家(へいか)も事(こと)期(き)せず
恥(はじ)を包(つつ)み羞(はじ)を忍(しの)ぶは 是(こ)れ男児(だんじ)
江東(こうとう)の子弟(してい) 才俊(さいしゅん)多(おお)し
土(つち)を巻(ま)き重(かさ)ねて来(きた)らば 未(いま)だ知(し)るべからず

――戦の勝敗は、兵法家でも予測し難い。恥を耐え忍んでこそ、真の男児というものだ。江東の若者には、優れた人材が多い。もし、土を巻く勢いで再び立ち上がって戦っていたら、勝敗はどうなったかわからない。

項羽

 劉邦との天下争いに敗れた項羽は、四面楚歌の窮地に陥る。夜陰に乗じて漢軍の囲みを破り、追撃に応戦しながら烏江の渡し場まで馳せ至ると、そこに亭長が船を用意して待ち構え、長江を渡って逃げるよう勧める。しかし、項羽はそれを潔しとせず、肉薄戦の末に自ら首を刎ねる。

 これが、『史記』の「項羽本紀」に記されている内容である。ところが、杜牧の詩は、これに「もし」を加えた。もし、項羽が、恥を忍んで長江を渡り、態勢を立て直して劉邦と戦ったならば、天下はどちらに転んだか、まだわからない、「捲土重来」もありえたのに、と杜牧は歌っている。「赤壁」詩と同様に、史実とは裏返しの状況を想定して歌った詩である。

 楚漢興亡と三国争覇、いずれも、後世の人々が好んで語るドラマチックな時代である。ここに挙げた杜牧の二つの詩は、そうした時代の中で、一つ事が違えば、その後の時代の流れが大きく変わったであろう歴史的瞬間を歌っているがゆえに、読み手に壮大な空想の余地を与える。

 「赤壁」と「題烏江亭」、二首ともわずか四句、二十八字の中に、雄大な歴史浪漫を包み込み、嫋々たる余韻を残している。


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