中国古典インターネット講義【第12回】『論語』~孔子が語る「仁」と「礼」
諸子百家
春秋戦国時代、周王朝はしだいに弱体化し、大小の諸侯の国が乱立して覇を競うようになります。
中でも、秦・楚・燕・斉・韓・趙・魏が「戦国の七雄」と呼ばれ、互いにしのぎを削っていました。
各国は国力強化を図りますが、そうした中、自説を掲げて諸国間を遊説して回る思想家が輩出しました。
彼らの主張は、富国強兵の実用的な方策のみならず、理想の政治のあり方、人としての生き方、宇宙の原理など、ありとあらゆる問題に及びました。
これらの思想家を「諸子百家」と総称しています。『漢書』「藝文志」では、「儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家・小説家」の十家を挙げています。
孔子
儒家の祖と仰がれる孔子は、名は丘、字は仲尼。春秋時代、魯の昌平鄕の陬邑(山東省曲阜)の出身です。
20代で郷里の村役人となり、のち魯国の中央政庁の下級官職に就きますが、政界で志を得ず、塾を開いて弟子を養成し、儒教の学派を形成しました。
のち、50代の頃、魯の定公に抜擢され、孔子は魯の国政に当たり、大司寇(司法長官)にまで昇ります。
当時、魯の実権は、三桓(季孫氏・孟孫氏・叔孫氏の三家)が掌握していました。
孔子は、宰相の職務を代行して内政の改革を行い、外交折衝にも功績を挙げますが、結局、政治手腕を十分に発揮できず、三桓の専横を除くことができないまま、56歳の時、官を辞して魯を去ります。
その後10数年間、弟子を引き連れて、衛・陳・宋・蔡・楚などの国々を渡り歩いて自説を説いて回りますが、そのあまりに理想主義的な人間論・政治論が諸侯たちに受け入れられることはなく、69歳にして魯に帰ります。
晩年、73歳で生涯を閉じるまで、もっぱら門人の教育に当たりました。
孔子の弟子は3,000人いたと言われます。その中で特に優秀な者が「七十二賢人」と呼ばれ、さらにその中で卓越した者が「孔門十哲」と呼ばれます。
十哲は、徳行に優れた顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に優れた宰我・子貢、政事に優れた冉有・子路、文学に優れた子游・子夏を指します。
『論語』
『論語』は、孔子の言論を中心として、門人その他の人々との問答を集めた言行録です。
孔子の教えとその学派の思想を知ることができる儒家の最も重要な基本文献です。
『論語』の成立は、孔子の直接の門人による記録から始まり、何代かにわたって伝承され、やがて整理されて書物の形にまとめられたものと考えられています。
現在伝わる『論語』は、「学而」篇から始まり「堯曰」篇に終わる計20篇から成り、篇名は各篇の第1章冒頭の2字(または3字)から取っています。
『論語』の内容は、人としての修養の法、学問の仕方、社会に生きる人間の在り方、そして国家の政治に関わる問題まで多岐にわたります。
いずれも断片的な言論の記録ですが、その中から自ずと孔子の人間像が浮き彫りにされ、また、顔回・子路など弟子たちの性格までも読み取ることができます。
「道」
孔子の思想は、一口で言えば、「道」の実現を目指す実践的倫理思想と言えるでしょう。
孔子の説く「道」は、人が家庭や社会において本来践み行うべき道筋のことを指します。
道家(老荘思想)が説く宇宙の原理としての形而上学的な「道」(タオ)とは異なります。
儒家の「道」は、あくまで人間社会に限定して言うものです。
修養論としては、人が踏み行うべき「道」、つまり倫理的規範であり、
政治論としては、為政者が拠るべき「道」、つまり政治的理念です。
孔子は「里仁」篇で、こう語っています。
――先生がおっしゃった。「朝に道を悟ることができたら、夕方に死んでもかまわない。」
孔子の命懸けで真理を探究しようとする姿、並々ならぬ思いで「道」を追い求める姿が見て取れます。
また、同じく「里仁」篇で、こうも語っています。
――先生がおっしゃった。「学問をする者が、道に志しながら、粗末な衣服や食事を恥じるようでは、共に語るに値しない。」
「士」とは、学問修養に努め、政治に関わりを持つ人間のことを言います。
そういう立場にありながら「道」に志さない者は、話し相手にならない、と語っています。
「道」を追求することが人生の最優先事項であり、このことに関しては、孔子は、自分に対してだけでなく、人に対しても厳しい姿勢で臨んでいる様子がわかります。
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