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【漢詩で語る三国志】第6話(最終話)「軍師孔明、天下の計、老臣の心」


諸葛孔明、真打ち登場

 『三国志演義』において、数多の英傑がひしめく中で、最も輝かしい活躍をし、ほとんど神格化されているのが、蜀の丞相諸葛亮、字は孔明である。

 真打ち登場!と言わんばかりに、第三十八回に至って、悠々と姿を現す。孔明がひとたび登場するや、曹操・劉備・孫権・周瑜らを含めて、すべての英雄豪傑たちが、みな孔明の引き立て役に回ってしまう。

 劉備が「三顧の礼」を以て出仕を請うと、孔明は、満を持して「天下三分の計」を献じる。

 乱世の情勢を的確に読み取り、曹操・孫権と真っ向から戦うことを避け、まずは荊州・益州に基盤を築き、「天下三分」の形勢を作った上で、孫権と同盟を結び、機を見て北上して曹操を攻め、漢室を復興させる、という理路整然とした構想を披露する。

天下三分

 諸葛孔明は、劉備より二十歳年下であった。親子ほど年の離れた仲であったが、劉備は孔明に全幅の信頼を寄せ、孔明もまた劉備に対して生涯の忠誠を貫き通す。

 若造の孔明を軍師として崇め、格別の厚遇をする劉備の様子を目にして、義兄弟の関羽と張飛は、穏やかではない。つい不満を漏らすと、劉備はこう言って二人をなだめる。

孤(こ)の孔明有るは、猶(な)お魚の水有るがごときなり。

――わたしにとって、孔明の存在は、ちょうど魚が水無しでは生きていけないようなものだ。

 切っても切れない親密な間柄を喩える故事成語「水魚の交わり」の出典となったエピソードである。

 やがて、章武元年(二二一)、劉備が蜀漢の帝位に即くと、孔明は丞相に任じられ、智謀の限りを尽くして、劣勢の蜀を支える。

 劉備の死後は、息子の劉禅を輔佐する。中原回復を目指して、魏を討たんと出兵を重ねたが、志半ばにして病没した。

 つねに人より数段上手でありながら、決して尊大ではなく、誠心誠意主君に仕え、いかなる戦況においても、悠然と落ち着き払って指揮を執る、そうした風格こそが、孔明の魅力である。

諸葛孔明 

詩聖杜甫、孔明を偲ぶ

 杜甫(七一二~七七〇)は、李白と並んで、歴代詩人の双璧である。
 李白を「詩仙」と呼ぶのに対して、杜甫は「詩聖」と呼ばれる。
*杜甫については、「春望」の記事(投稿済)をご参照ください。

杜甫

 杜甫は、孔明に対する敬慕の念を強く抱いていた詩人であった。

 安史の乱で中原が賊軍に奪われ、仕える帝は亡命し、自らも蜀の地を流浪する運命となった。
 その数百年前、同じく蜀の地にあって、中原回復のために全身全霊を尽くした孔明の姿に、自分自身を重ねていたのかもしれない。

    蜀相   蜀相(しょくしょう)
                            唐・杜甫
  丞相祠堂何處尋   
  錦官城外柏森森   
  映階碧草自春色   
  隔葉黄鸝空好音   
  三顧頻繁天下計   
  兩朝開濟老臣心   
  出師未捷身先死   
  長使英雄涙滿襟   

丞相(じょうしょう)の祠堂(しどう) 何(いず)れの処にか尋(たず)ねん
錦官(きんかん)城外(じょうがい) 柏(はく)森森(しんしん)
階(かい)に映(えい)ずる碧草(へきそう)は自(おの)ずから春色(しゅんしょく)
葉(は)を隔(へだ)つる黄鸝(こうり)は空(むな)しく好音(こういん)
三顧(さんこ)頻繁(ひんぱん)なり 天下(てんか)の計(けい)
両朝(りょうちょう)開済(かいさい)す 老臣(ろうしん)の心(こころ)
師(し)を出(い)だして未(いま)だ捷(か)たざるに 身(み)先(ま)ず死(し)し
長(とこ)しえに英雄(えいゆう)をして涙(なみだ)襟(えり)に満(み)たしむ

 「蜀相」は、上元元年(七六〇)、杜甫四十九歳の作である。
 流浪の旅の末、成都に辿り着いた杜甫が、成都郊外にある諸葛孔明の廟を訪れた時の感慨を歌った七言律詩である。

丞相(じょうしょう)の祠堂(しどう) 何(いず)れの処にか尋(たず)ねん
錦官(きんかん)城外(じょうがい) 柏(はく)森森(しんしん)

――蜀の丞相諸葛孔明の廟は、どこに訪ねてゆけばよいのだろうか。成都の郊外、柏樹が鬱蒼と生い茂っているところ、そこがそうだ。

 諸葛孔明の廟は、孔明が生前、武郷侯に封ぜられ、死後、忠武侯と諡されたことから「武侯祠」と呼ばれる。
「錦官城」は、成都のこと。昔、成都の少城に、蜀の特産である錦を管理する役所を置いたのでこう称す。

武侯祠

階(かい)に映(えい)ずる碧草(へきそう)は自(おの)ずから春色(しゅんしょく)
葉(は)を隔(へだ)つる黄鸝(こうり)は空(むな)しく好音(こういん)

――祠堂に至る古びた石段には、鮮やかな新緑の草がひときわ映えて、今も昔も、おのずと春の趣を呈している。若葉の向こうには、ウグイスが、聴く人もなく、いたずらに快い鳴き声でさえずっている。

 二つの副詞「自」と「空」が、効果的に用いられている。
「自」は、人の世の栄枯盛衰とは無関係に、かの時代も今現在も、という意味を含めている。
「空」は、あたりには、他に誰もおらず、廟を訪ね鳥の音を聴いているのは杜甫ただ一人であることを表している。

三顧(さんこ)頻繁(ひんぱん)なり 天下(てんか)の計(けい)
両朝(りょうちょう)開済(かいさい)す 老臣(ろうしん)の心(こころ)

――その昔、劉備が「三顧の礼」を尽くして、しきりに孔明を訪れ、天下を安んずる計を問うた。孔明はそれに応えて、劉備・劉禅の二代に仕え、創業と守成の業に、古くからの家臣として心を尽くした。

 「三顧」は、孔明が隆中に隠棲していた頃、劉備が三たびその草庵を訪ね、軍師としての出仕を求めたことをいう。
 正史『三国志』の「諸葛亮伝」では、「凡そ三たび往き乃ち見る」(およそ三度訪問して、やっと会えた)と、たった一言で済まされている。
 ところが、小説『三国志演義』では、第三十五回から伏線を張って、第三十八回で、ようやく孔明が姿を現すまで、話を最大限に引き伸ばし、劉備が関羽・張飛を従えて、誠心誠意、礼を尽くして孔明に会いに行くさまを縷々述べて、真打ち登場の緊張感を盛り上げている。
 「開済濟」の「開」は、先主劉備に仕えて建国の礎を築いたこと、「済」は、後主劉禅を輔佐して守成の美をなしたことを指す。

三顧の礼

師(し)を出(い)だして未(いま)だ捷(か)たざるに 身(み)先(ま)ず死(し)し
長(とこ)しえに英雄(えいゆう)をして涙(なみだ)襟(えり)に満(み)たしむ

――魏を討たんと出兵したが、いまだ勝利を収めぬうちに、その身は陣中に没し、永く後世の英雄たちの胸を涙で溢れさせている。

 孔明は、幾度も北伐を敢行したが、念願を果たすことなく、建興十二年(二三四)、五丈原(陝西省岐山)で司馬懿と対陣すること百余日、持久戦の末、陣中に病没した。時に、五十四歳であった。

杜甫、高楼に登りて詠ず

 宝応元年(七六二)、玄宗・粛宗が相次いで崩じ、代宗が即位すると、成都の長官であった厳武が都長安に召還されることになった。杜甫は、厳武を送って、綿州(四川省)まで同行する。

 この時、剣南兵馬使の徐知道が、長官の不在に乗じて反乱を起こし、成都に戻れなくなった杜甫は、一時梓州(四川省)に難を避ける。反乱の収束を待って草堂に戻り、家族を救い出すが、その後、各地を転々と流浪する生活を強いられるようになる。

 広徳元年(七六三)、安史の乱がようやく幕を閉じる。しかし、唐王朝に安泰が訪れることはなく、吐蕃(チベット)の兵が、西方から侵入して横行し、ついに都長安を占拠するに至る。
 
 まもなく、名将郭子儀の活躍で、長安は奪回されるが、吐蕃の侵攻は依然として絶えることなく、蜀の地では不穏な状況が続いていた。

   登樓   登楼(とうろう)
                            唐・杜甫
  花近高樓傷客心
  萬方多難此登臨
  錦江春色來天地
  玉壘浮雲變古今
  北極朝廷終不改
  西山寇盗莫相侵
  可憐後主還祠廟
  日暮聊爲梁甫吟

花は高楼(こうろう)に近(ちか)くして 客心(かくしん)を傷(いた)ましむ
万方(ばんぽう) 多難(たなん) 此(ここ)に登臨(とうりん)す
錦江(きんこう)の春色(しゅんしょく) 天地(てんち)に来(きた)り
玉塁(ぎょくるい)の浮雲(ふうん) 古今(ここん)に変(へん)ず
北極(ほっきょく)の朝廷(ちょうてい) 終(つい)に改(あらた)まらず
西山(せいざん)の寇盗(こうとう) 相(あい)侵(おか)すこと莫(な)かれ
憐(あわ)れむ可(べ)し 後主(こうしゅ)も還(ま)た廟(びょう)に祠(まつ)らる
日暮(にちぼ) 聊(いささ)か為(な)す 梁甫(りょうほ)の吟(ぎん)

 杜甫は、難を避けて蜀の各地をさすらっていたが、広徳二年(七六四)の春、厳武が再び成都に赴任してくることになり、杜甫もようやく成都の草堂に帰還した。

杜甫草堂

 七言律詩「登楼」は、帰還後まもなく、高楼に登って詠じたものである。

花は高楼(こうろう)に近(ちか)くして 客心(かくしん)を傷(いた)ましむ
万方(ばんぽう) 多難(たなん) 此(ここ)に登臨(とうりん)す

――高殿のすぐそばで咲き誇る春の花、それは、かえって旅人の心を悲しませる。天下至る所で戦乱が絶えない今、この高殿に登って四方を眺めやる。

 「客心」は、旅人の心。故郷を遠く離れて異郷に寓居する杜甫自身の心をいう。

錦江(きんこう)の春色(しゅんしょく) 天地(てんち)に来(きた)り
玉塁(ぎょくるい)の浮雲(ふうん) 古今(ここん)に変(へん)ず

――錦江の川辺に春が到来し、天にも地にも春の気配が満ちている。玉塁の山頂に漂う浮雲は、昔も今も、絶え間なく姿を変えている。

 「錦江」は、泯江の支流。成都の西南を流れる川。蜀の名産である錦をさらしたことから、こう名付けられた。「玉壘」は、成都の西北にある山。
 上句は、永遠に変わることなく繰り返される自然の営みをいい、下句は、興亡定めなく移ろいやすい人の世を喩える。

北極(ほっきょく)の朝廷(ちょうてい) 終(つい)に改(あらた)まらず
西山(せいざん)の寇盗(こうとう) 相(あい)侵(おか)すこと莫(な)かれ

――北極星のように不動の我が朝廷は、何事があっても、結局は変わることはない。西山のふもとの盗賊どもよ、我が国を侵すのはやめるがよい。

 「北極朝廷」は、『論語』の「為政」篇に、「政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居りて衆星の之に共するが如し」(政治を行うのに、徳を以てすれば、それは喩えれば、北極星が自分の決まった場所にいて、他の多くの星が、それに向かって恭しく挨拶をしているようなものだ)とあるのに基づく。
 北極星は、天の中心にあって動くことがなく、他の星がその周りを回っているので、天子や朝廷に喩える。
 「西山」は、成都の西方の雪山。「寇盗」は、盗賊。唐土を侵して横行を繰り返していた吐蕃の兵を指す。

憐(あわ)れむ可(べ)し 後主(こうしゅ)も還(ま)た廟(びょう)に祠(まつ)らる
日暮(にちぼ) 聊(いささ)か為(な)す 梁甫(りょうほ)の吟(ぎん)

――ああ、あの凡庸な後主劉禅でさえも廟に祀られている。夕暮れ時、孔明が「梁甫の吟」を口ずさんだように、しばらくは詩を詠じて、胸中の思いを遣るほかはない。

 先主廟には、劉備と共に、その東西にそれぞれ劉禅と諸葛孔明が祀られている。暗愚な劉禅でさえ祀られているのは、ほかならぬ孔明の輔佐があったからこそだ、というのが杜甫の言わんとするところである。
 「梁甫吟」は、孔明がまだ劉備に仕えず、南陽の隆中で隠棲していた頃に愛唱したとされる歌。春秋時代の斉の名宰相晏子の智謀を伝える故事を歌っている。

 この「登楼」が、若い頃の作であれば、自分が孔明のように君主を輔佐したいと願う気概を歌ったものとなるであろうが、これは、杜甫五十三歳の作である。
 すでに孔明の享年五十四に迫っていた。重用されることなく年老いた我が身に対する自嘲の気持ちが伝わってくる。

孔明への讃美と思慕

 杜甫が詠んだ諸葛孔明に関わる詩は、「蜀相」詩と「登楼」詩以外にも,数多く残されている。

 最後に一首、孔明への讃美と思慕の言葉を連ねた杜甫晩年の詩を挙げる。

   詠懷古跡五首(其五)
   古跡(こせき)に詠懐(えいかい)す五首(其の五)
                            唐・杜甫
  諸葛大名垂宇宙
  宗臣遺像肅清高
  三分割據紆籌策
  萬古雲霄一羽毛
  伯仲之閒見伊呂
  指揮若定失蕭曹
  運移漢祚終難復
  志決身殲軍務勞

諸葛(しょかつ)の大名(たいめい) 宇宙(うちゅう)に垂(た)る
宗臣(そうしん)の遺像(いぞう) 粛(しゅく)として清高(せいこう)
三分(さんぶん) 割拠(かっきょ) 籌策(ちゅうさく)を紆(めぐ)らし
万古(ばんこ) 雲霄(うんしょう) 一羽毛(いちうもう)
伯仲(はくちゅう)の間(かん)に 伊呂(いりょ)を見(み)る
指揮(しき) 若(も)し定(さだ)まらば 蕭曹(しょうそう)を失(しっ)せん
運(うん)移(うつ)りて 漢祚(かんそ) 終(つい)に復(ふく)し難(がた)く
志(こころざし)は決するも 身は殲(ほろ)ぶ 軍務(ぐんむ)の労(ろう)に

 「詠懐古跡五首」は、大暦元年(七六六)、杜甫五十五歳の年の秋、夔州(四川省)に寓居していた頃の作である。長江沿いに点在する古跡を歌い、自らの思いを託した七言律詩の連作である。

 第一首から第三首までは、それぞれ庾信(南朝梁から使者として北に渡り、そのまま北周に仕えた詩人)、宋玉(戦国時代の楚の詩人。屈原の弟子)、王昭君(匈奴に嫁いだ前漢の元帝の宮女)のことを歌う。
 そして、第四首が劉備、第五首が諸葛孔明についての詠懐である。

諸葛(しょかつ)の大名(たいめい) 宇宙(うちゅう)に垂(た)る
宗臣(そうしん)の遺像(いぞう) 粛(しゅく)として清高(せいこう)

――諸葛孔明の大いなる名声は、天地古今の間に伝わり、この重臣の遺像が粛然として清く気高く立っている。

 「宇宙」は、時間と空間の無限の広がり。孔明の誉れが、時空を超えて、永く広く天下に知れわたっていることをいう。

三分(さんぶん) 割拠(かっきょ) 籌策(ちゅうさく)を紆(めぐ)らし
万古(ばんこ) 雲霄(うんしょう) 一羽毛(いちうもう)

――天下を三分して割拠する策謀をめぐらし、その英姿は永遠に大空を飛翔する鳳のようだ。

 「三分割拠」は、天下を三分し、その一つに根拠地を構えること。隆中にて孔明が劉備に献じた「天下三分の計」を指す。
 「羽毛」は、鳥。ここでは、天翔る鸞鳳(鸞鳥や鳳凰などの瑞鳥)の類をいう。

伯仲(はくちゅう)の間(かん)に 伊呂(いりょ)を見(み)る
指揮(しき) 若(も)し定(さだ)まらば 蕭曹(しょうそう)を失(しっ)せん

――孔明の才は、大昔の伊尹や呂尚に匹敵する。もし孔明の指揮どおりに事が運んでいたなら、漢の蕭何や曹参も遜色してしまっただろう。

 「伯仲」は、長男と次男。相匹敵すること、甲乙付けがたいことをいう。
 「伊呂」は、殷の伊尹と周の呂尚(太公望)。それぞれ、殷の湯王と周の武王を輔佐して、王朝を興した賢臣である。
 「蕭曹」は、漢の蕭何と曹参。どちらも、漢王朝の創業期に、高祖劉邦に仕えた宰相である。

運(うん)移(うつ)りて 漢祚(かんそ) 終(つい)に復(ふく)し難(がた)く
志(こころざし)は決するも 身は殲(ほろ)ぶ 軍務(ぐんむ)の労(ろう)に

――時勢の成り行きで、漢の帝位はついに回復することができず、孔明は、志を固く決しながらも、その身は軍務の労苦ゆえに尽き果ててしまった。

 「漢祚」は、漢王室の帝位。「祚」は、天子の位。
 「志」は、北伐で魏を討ち、漢王室の再興を企図したことを指す。

 杜甫は、国家を興し君主を支えた諸葛孔明の偉業を、伊尹・呂尚・蕭何・曹参ら歴代の名宰相、名輔佐になぞらえて、最大限の讃辞を贈っている。
そして、志半ばにして世を去った時代の主役を惜しみ傷んでいるのである。

三国興亡劇の幕切れ

 蜀の命運を一身に背負い、行政から軍事まで担っていた孔明は、その激務のゆえに、次第に身体が衰弱していく。

 そして、ついに五丈原の陣中で病没すると、部下の楊儀は、その死を隠匿して陣を引き払う。
 
 司馬懿が、蜀軍退却の知らせを聞いて、追撃しようとするが、蜀軍が応戦する偽装をしたため、司馬懿は孔明の策略かと疑い、恐れをなして逃げ帰ったという。
 これを後の人々は、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という諺にして言い伝えている。

司馬懿

 『三国志演義』では、諸葛孔明の最期について、数々の逸話を積み重ねている。例えば、次のような話である。
 
「余命幾ばくもないことを悟った孔明が、帳内で祈禱していると、駆け込んできた魏延が、孔明の命を象徴する主灯を蹴り倒してしまった」

「赤い大きな星が、蜀の陣営に落ちていくのを見て、司馬懿が孔明の死を察した」

「孔明の遺言に従って、蜀軍は、綸巾羽扇、鶴氅皁縧(絹の頭巾に羽の団扇、白い羽織に黒い帯)をまとった木像を車に載せて、司馬懿を欺いた」

 孔明が舞台に登場した時と同様に、孔明が舞台から姿を消す際にも、主役の退場にふさわしいだけの十分な潤色を施して、舞台の外に見送っているのである。

 いざ孔明が没すると、三国の興亡劇は、あたかも慌てて幕を引こうとするかのように、駆け足で終焉に向かう。
 
 まずは、劉禅が魏に降伏して蜀が滅び、続いて、司馬氏が禅譲によって晋を建てたことによって魏が滅び、最後に残った呉も、ついに晋に降る。

 こうして、蜀・魏・呉と相次いで滅亡し、皮肉にも、三国の中のどれでもない晋によって天下統一が果たされた。

 かくして、幾多の英雄豪傑たちによって演じられた「三国志」の歴史劇は、静かに幕を閉じるのである。



諸葛村(浙江省)


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