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中国古典インターネット講義【第17回】珠玉の漢文名作選~辞賦・駢文・古文



中国の文章は、一般的には「詩文」という言い方をしますが、専門的には、押韻するか否かによって「韻文」と「散文」に分けています。

韻文は、詩詞・辞賦などを言います。
散文は、駢文・古文などを言います。

今回は、これらのうち、「辞賦」「駢文」「古文」についてお話しします。

辞賦

辞賦じふ」とは、戦国時代末期の「楚辞そじ」と、のちにこれが叙事的に発展して形成された「」とを併せ称したものです。

「辞賦」は、押韻をするため韻文に分類されますが、詩のように一句の字数に制限がなく、散文的性格が強い文学作品です。

そこで、いわゆる「詩文」という分け方をする場合は、「文」の方に分類しています。

「賦」は、特定の事物や場所(国、都、景勝地など)について、そのものの特性や状態を羅列的に述べる叙事的、修辞的な文学です。

「賦」の作者としては、前漢の司馬相如しばしょうじょ賈誼かぎ枚乗ばいじょう揚雄ようゆう、後漢の班固はんご張衡ちょうこう、晋の左思さし潘岳はんがくらがよく知られています。

漢代の「賦」

「賦」は、漢代の宮廷で盛行しました。特に武帝の時代は「賦」の最盛期で、すぐれた賦家を輩出しました。

漢の武帝

漢代を代表する「賦」の作家は、司馬相如です。「子虚賦しきょふ」「上林賦じょうりんふ」などの名作を残しています。

「子虚賦」は、楚の子虚が烏有先生うゆうせんせい亡是公むぜこうの前で、楚の雲夢沢うんぼうたくの壮大なさまと、楚王の盛大な狩猟のさまを誇示して、一つ一つ詳しく網羅的に陳述する内容です。

続作の「上林賦」では、亡是公が、都の上林苑における天子の豪奢な狩猟のさまを述べています。

司馬相如


「賦」は、博学でないと作れない文学作品なので、作者にとっては学識誇示の一面がありました。

また、武帝の時代は、国力が充実していて安定した時代でしたので、「賦」は、そうした国家の宮廷讃美の文学作品でもありました。

「賦」の作家らは、持てる学識をフルに生かして、修辞を凝らした美文調の長編作品を創作し、王侯貴族の歓心を求めようとしました。

「賦」は、技巧的には優れた面がありますが、内容的には空虚なものになりがちでした。しだいにマンネリ化して、文学としての活力を失い、いたずらに誇張した語句を連ねるばかりのペダンチックな遊戯になっていきます。

なお、「辞賦」と併称しても、漢代以降は、「賦」が主流となり、「楚辞」を直接受け継ぐ「辞」は傍流となります。後者の作品例としては、漢の武帝の「秋風しゅうふうの辞」、陶淵明とうえんめいの「帰去来ききょらいの辞」などがあります。

司馬相如「子虚賦」


六朝以降の「賦」

六朝時代には、「俳賦はいふ」または「駢賦べんふ」と呼ばれる、対句を多く用いた修辞的な「賦」が流行しました。

唐代には、「賦」が科挙に課されるようになり、韻律や修辞の規則が厳格に定められました。これを「律賦りつふ」と呼んでいます。

こうして、「賦」は、時を経て、しだいに過度に修辞的、形式的で、内容の空疎な文学となっていきます。

こうした傾向に反撥して、宋代に至ると、字句に拘泥せず、自由に情を述べ理を説く散文的な賦が作られるようになります。これを「文賦ぶんぷ」と言い、欧陽修おうようしゅうの「秋声しゅうせいの賦」、蘇軾そしょくの「赤壁せきへきの賦」などがよく知られています。

「赤壁の賦」

「賦」の作品例として、蘇軾の珠玉の名作「赤壁の賦」を抜粋で読みます。

蘇軾

元豊5年(1082)の秋、黄州(湖北省黄岡県)での作です。
当時、蘇軾は政争で罪を得てここに流されていました。

赤壁は、呉蜀連合軍が曹操の大軍を破った地です。
実際の古戦場は今の湖北省嘉魚県にありますが、蘇軾は黄州城外の赤鼻磯せきびきを赤壁に見立てて、この「賦」 を詠じています。

月明かりに乗じて川面に舟を浮かべ、友人と酒を酌み交わす情景が描かれ、二人の問答を通じて、哲理的な議論が展開されます。

友人は、赤壁の戦いの最中、陣中で槊を横たえ詩を詠じたとされる曹操そうそうの雄姿に思いを馳せ、しみじみとこう語ります。

西のかた夏口かこうを望み、東のかた武昌ぶしょうを望めば、山川相まとい、鬱乎うつことして蒼蒼そうそうたり。此れ孟徳もうとく周郎しゅうろうくるしめられしところに非ずや。其の荊州けいしゅうを破り、江陵こうりょうに下り、流れにしたがいて東するにあたりてや、舳艫じくろ千里、旌旗せいき空をおおう。酒をそそぎて江に臨み、ほこを横たえて詩を賦す。まことに一世の雄なるも、而るに今いずくに在りや。いわんや吾とと、江渚こうしょほとり漁樵ぎょしょうし、魚鰕ぎょかともとし麋鹿びろくを友とし、一葉の扁舟へんしゅうし、匏樽ほうそんを挙げて以て相しょくし、蜉蝣ふゆうを天地に寄す、びょうたる滄海そうかい一粟いちぞくなるをや。吾が生の須臾しゅゆなるを哀しみ、長江の無窮なるを羨む。

西のかた夏口を望み、東のかた武昌を望むこのあたりは、山川が入りくみ、草木が青々と茂っている。ここは、その昔曹操が周瑜しゅうゆに苦しめられた場所ではなかろうか。曹操が荊州を打ち破り、江陵に下り、流れに沿って東へ向かった時、その大船団は千里にも連なり、大小の軍旗が天を覆わんばかりであった。曹操は酒をそそいで長江の水神を祭り、陣中で槊を横たえて詩を作って歌った。かの曹操はまことに一代の英雄であったが、今はいったいどこにいるのか。ましてや、我と君は、岸辺で魚を捕り柴を刈り、魚やエビや鹿と共に生きている身、一艘の小舟に乗り、ひさごの酒壺を挙げて酌み交わし、かげろうのように儚い命を天地の間に寄せている、大海原に落ちた一粒のアワのようにちっぽけな存在ではないか。我が生の短きことが悲しく、尽きることのない長江の流れが羨ましい。

「一世の雄」と謳われた曹操でさえ時の流れに洗い流され、今やもうこの世にいない。ましてや名もない我々は「滄海の一粟」の如きもの、と友人は人間存在の儚さを縷々述べます。

「人生の須臾なるを悲しみ、大河の無窮なるを羨む」という有限の人生に対する悲哀は、中国文学の中にしばしば見られる人生観です。

友人の語る人生観に対して、蘇軾はこう応えます。 

れ天地の間、物各々主有り。いやしくも吾の有する所に非ざれば、一毫いちごうと雖も取ること莫し。だ江上の清風と、山間の明月とは、耳之を得て声を為し、目之に遇いて色を成す。之を取るも禁ずる無く、之を用うるもきず。是れ造物者の無尽蔵なり。而して吾と子の共にあじわう所なり。

そもそも天地の間にあるものには、すべてそれぞれに持ち主がある。かりにも自分のものでなければ、一本の毛ほどのわずかなものでも奪い取ってはならない。ただ長江を渡るそよ風と、山間の明月だけは、耳には音色となり、目には景色となる。こればかりは、いくら取っても禁じられることがなく、いくら使っても無くなることがない。これぞ創造主の尽きることのない宝蔵であり、それを今こうして我と君とで享受しているのだ。

蘇軾は、友人の言を一蹴し、有限の人生に対する悲哀も、無限の自然に対する羨望も、そんなものは無用だと語ります。

風月無尽、我々は無尽蔵の自然美を享受している。何を悲しむことがあろうか、何を羨むことがあろうか、と。

ここには、哲人蘇軾独特の超越的世界観、楽観的人生哲学が存分に披露されています。

「江上の清風」と「山間の明月」、自然の美は無尽蔵であり、しかも所有者もない。万人が好きなだけ存分に楽しめばよい、という発想です。

とらわれやこだわりのない懐の広さこそ、蘇軾が古来から人々に愛され続けている所以です。

「赤壁の賦」全文の解説は、以下の記事をご参照ください。↓↓

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