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ゴリラが出たぞ!

(注)本稿においては、読む人によっては、不愉快・不適切と感じられる表現が用いられています。筆者はこれを、現実を理解しやすくするための用法と考えていますが、不快に思われる方は、咎める事なく、読む事を止めることを望みます。

1 普通の人に普通でないものは理解できない
 最近はかなりマシになったが、十数年前まで私たちの勤務先の人材で、英語を話せる人間は皆無だった。外国人の来客があると、「ゴリラが出たぞ!」ぞとばかり、皆、机や柱の陰に隠れ、声を掛けられるのを避けようとした。
 そんな中、シンディ・ローパー(以下、Cyndi)の大ファンで、彼女の絶唱する情熱を字幕無しで感じる事に憧れていた私は、何の実力もないのに「キャキャキャキャンナイ ヘルプユウ?」と声をかけて行った。グダグダの会話で相手を怒らせたこともあったが、なんとかコミュニケーションを取ろうとする私の態度に、お礼を言って帰る人が多かった。
 ある日、大きな会場で相談会を行なっていたとき、一人の黒人男性が頭を抱えてパイプ椅子に座っていた。同じように話しかけたところ、「通訳できる友人と待ち合わせていたのだが、遅れているらしい。会場は後20分くらいで締め切りになるが、間に合いそうにない。」という。
 「Could you show me your bringing documents?」持参した書類を見せてもらえますか?
 それだけで十分。持参書類を見れば、何をしに来たか?そのために後何が必要か?すぐにわかる。そのために、脳みそがカラカラになるまで、絞って絞って、勉強してきた。30年以上、そのスタイルで頑張ってきて、少しは英会話のできる人間になれたかと、TOEICを受けたら、350点(中学生並み)だった。専門用語を分かりやすい英語に変換できるようになったが、所詮、職場でしか役に立たない。Cyndiの心の叫びを直に受け止められる日はまだ遠そうだ。
 ところで、その外国人がしきりに言っていたことで、「通訳は白人なんです。」という表現が気になった。日本人は、肌の色で人を差別しない。というか自分たち以外はみんなゴリラだ。外国人は、差別されることを嫌がる。しかし、日本人は、自分たちの規定外のものは全部苦手だ。彼が、黒人であろうと、金髪美人であろうと、あるいは、言葉を話せない、耳が聞こえない人であっても、反応は同じだっただろう。

 Cyndiが私にマイノリティに関わる勇気をくれたおかげで、私は、ろうあの方が来てもゴリラ扱いせず前に出る。そうやって、ぶつかってきて少しわかってきたことがある。
 テレビで観る身体障害者は、頑張り屋で、人一倍根性が有り、礼儀も正しいが、一般に見かける障害者は、私たちと何も変わらない。生活や性格ではなく、努力や根性というものについてだ。別に星飛雄馬のように、いつも目が燃えているわけではない。
 私の友人に、リハビリ科勤務の経験が有り、身障者の事情に詳しいものが居る。
 彼は言う。「テレビの美談に踊らされて、間違った対応をしたらあかんで。先天的な人はともかく、まあ後天的に障害を負った人のほとんどは、自分の運命を恨み、健常者を妬んでいるよ。それに、俺は何時間も彼らと一緒にいたけど、最後まで、24時間動かない片腕をぶら下げる思いすら同感することができなかった」。片腕の重さは体重の6%。体重60~70kgの人で、約4kg。米はよく5kgで売っているが、それに近い。朝起きて、起き上がる時からそこにある。確かに私にも想像できない。
 もう一人、高校の同級生で、車に跳ねられ瀕死の怪我を負った子が居る。3、4年に一度、飲みにいくことがあるのだが、彼は、私たちに会うと、事故に遭う前の自分に戻れたようでとても楽しいという。多くは語らないが、事故後の自分の人生は闇だという。どうやら、障害年金を受給していると、職業が限定されたり、差別されたりするらしい。それに、自分の性格は歪んでしまっているので、自分の考えが正しいのか、誤っているのかの区分けがつかないらしい。
 言葉が通じない程度の壁に30年もかけて取り組んでいる私に、障害者の日々の苦しみや、深層にある闇を理解することなど到底不可能である。
 最近は、優秀な大学を出た新人が増え、英会話の出来る子も珍しくなくなった。しかし、失礼ながら、外見からも明らかに2級以上の障害を持つ人が、介添人なしに窓口に訪ねてきたら、今の私の組織の人材のクオリティでは、間違いなく「ゴリラが出たぞ!」が始まるだろう。

2 健康的な脳を持つ者は多重人格を信じない
 私の周囲の人々は、私の心の病気を私の心の弱さが原因だと決めつけているが、精神科医は私の心の強さを抑えることを重視している。愛情を受けて育った一般的な家庭の人々は、心がまっすぐであり、二重人格や多重人格を信じない。しかし、私は家族から異端扱いされて育ち、心がねじ曲がっている。私の脳は常に、主人格を乗っ取ろうとする野生的人格のプレッシャーにさらされているが、それに従うと私が「ゴリラ」になってしまう。

 以前、障害者雇用促進法について話したが、私の勤め先では繁忙期にアルバイトを大量に雇うため、その際に精神的障害を持つ人を雇うこともある。しかし、これらの人々を積極的に活用したいという部署はなく、割り当てられた部署では「箱の中身は何でしょう?ゲーム」が始まる。

 韓非子の「逆鱗」の教えでは、龍は普段大人しいが、逆鱗に触れると相手を食い殺す。という。それは、上司や君主に忠告する際には、相手が気にしていることに注意を払うべきである。という教訓であるが、障害者と対峙するときには、この教えが役に立つ。

 私が担当したケースでは、皆さん精力的に働き、症状が好転したという話も有った。
 私はまず、彼らを普通の人と同様に扱う。しかし、その人の苦手なものやトラウマという「逆鱗」には注意を払う。無駄に長い引き継ぎ資料から、そういう情報だけは精査し、場合によっては直接尋ね、事実を確認しておく(憶測も多いから)。
 情報を精査せずにおっかなびっくりするから、相手も不安や不快を感じるのである。後発的に精神障害を患った人は、身体障害者同様、世間を恨んでいる可能性が高い。そのため、気を遣いすぎると、その気遣いを悪用する者も出てくる。
 結果、残念なことに、毎年何件かのトラブルが発生し、こちらが一方的に非を認めて謝罪している。管理者側の意見はほとんど聞かれず、争うことで組織には利益がないため早々に片付けられるのである。このような状況では、障害者を受け入れ多様性を取り込むことで進歩する部署は現れない。

3 ヘルプマークを悪用する者
 前述の如く、私たちは、テレビ・メディアの影響で、障害者は、自分の悲運を受け入れ、ひたすらリハビリに励み、なんとか健常者の社会に溶け込もうと努力していると信じ込まされているかもしれないが、みんな、今の自分と同じ普通の人間だ。突然、インターハイや司法試験を目指すような努力家にはなれない。
 精神疾患を患っている人は、理性的にも不安定なため、余計に危ないかもしれない。

 以前、私が使っている通勤バスに、毎日、白杖を持って乗車してくる客がいた。杖には「ヘルプマーク」が付いており、助けを求める障害者と思われた。彼は白杖で席を探し、一人で座っている人がいるとその隣に座るが、必ず若い女性の隣を選ぶのだった。ある日、彼は三十代の女性の隣から二十代の女性の隣に座り直したことで、私は不審に思い始めた。
 その後、彼が片側三車線の大通りを横切ってバスに乗り込むのを見た。盲人や弱視者にはできない行動だ。また、ガードマンが彼を優先席に座らせた際、「ウォー・ウォー」と奇声を上げて怒ったことから、彼の問題は目ではないと確信した。
 そして、ある日、後部のガラガラのシートに高校生と思われる女の子が一人座っていたとき、彼は他に席が空いているにもかかわらず彼女の隣に座った。女の子は驚いて怯え始めた。
 私は「義を見てせざるは」と思い、彼に声を掛けて、「お前の行動は隣の女の子だけでなく、そのヘルプマークを持つ者みんなに迷惑をかけている。これから、このバスに乗るときは俺の隣に座れ!」と諭した。彼は次のバス停で降り、それ以来見かけなくなった。
 しかし、あの後、女の子が怯え続けていたにも関わらず、運転手や他の乗客が何もなかったように振る舞ったことには失望した。
 おせっかいな大阪のおばちゃんはどこへ行った?みんなそんなにゴリラが怖いのか?
 日本人は親切でも礼儀正しくもない。それがマジョリティだから従っているだけなのだ。相手がマイノリティとなると、西洋人より不義理で無関心だ。
 女の子は、降車時にぺこりと頭を下げ、か細く「ありがとうございました。」と言ってくれた。私こそ、彼女の勇気に感謝した。

4 架け橋
 さて、今回は、場合によっては相当恨まれそうな話をした。しかし、甘っちょろい美談ばかりを垂れ流すメディアより、ずっと大事なことを話していると信じている。
 むしろ、美談しか報じないメディアの方が、彼らの本当の苦悩を覆い隠しているのかもしれない。かくいう私も専門家ではない。彼らには、もっと厳しい現状や、もっと醜い現実が存在するかもしれない。要は、私たちは、彼らについて、あまりに無理解であるのに、強引にこれを溶け込まそうとしているわけで、それでは、トラブルの種は尽きない。
 では、どうすれば良いのか?
 
 私の提案は、「通訳」を設けることである。
 通訳は、言葉を変換するだけではなく、互いの国の文化に通じ、その国にとっての「逆鱗」が何かを理解している。
 同じように、障害者側の事情にも精通すると同時に、健常者の譲歩できる範囲も測れること。善意を悪用する障害者の理不尽な難癖もきっちり区切りをつけ、健常者の無理解に対しても警笛を鳴らす。
 そうすれば、両者の諍いの多くは抹消できるだろう。健常者が一方的に歩み寄るのではなくて、双方が通訳を通して語り合い、最適解を導き出せば良い。
 なお、この通訳は、どこかのメジャーリーガー付のように、何年も寄り添う必要はない。
 せいぜい、1ヶ月もあれば、そこに、両者が快適に働ける空間を創出するだろう。至って、軽微な負担である。
 双方公平に扱う事が重要であるため、社外から雇う事が良いかもしれないが、社内の誰かに、専門教育を受けさせ、幹部が、しっかり理念を通告すれば、くだらない愚痴や偏見を吐くバカは流石にそんなにいないと信じている。

エドワール・マネ「バルコニー」

 19世紀末、絵画は学術的なものであり、サロンと呼ばれる組織によって、その品位・価値観等が規制のように定められていた。マネは、その規制のギリギリを攻め、徐々にこれを逸脱していった。しかし、その芸術的手腕から、人気は高くサロンもこれを否定できず、「反逆児」の異名をほしいままにしていた。そして、彼を兄貴分と慕い集まってきたモネやルノワールなど若者が、のちに印象派という、完全に絵画の規制を取り払う運動を巻き起こす。彼らは、何度か、マネもその運動に参加するよう依頼したが、マネは頑なに断った。なぜなら、彼は、サロンという古典的絵画会を、社会の評判などの外圧ではなく、自分という異端児を取り込むことで進歩させたかったからだ。

 ところで、このバルコニーという絵画の3人を見て、皆さんはどのような印象を持つだろう。多くの人が、「あまりこの3人は仲が良さそうには見えない。」という印象を持つようだ。これは、マネが意図的に仕組んだ細工による。
 この3人の視線がまるで違う方向を向いているのがその印象の原因だ。狭いバルコニー越しに見える3人であるにも関わらず、その視線が全く違う方角を指しているから、3人がまるで違うことを考えていることを想起させるのだ。
 例えば、この建物は、とある乗り物の待合室で、この3人は、お互い外国人だ。と仮定すると、非常にしっくりする人が多いのではないだろうか?
 私は思う。今日本で行われている、障害者を含むマイノリティを受け入れようという運動を客観的に見たとき、まるでこのバルコニーの光景のように見えるのではないかと。大事なのは、同じ空間に集めることではなく、互いが理解し合うことであるのだが、そのためには、いつも媒体となるものが必要なのではなかろうか?

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