Kanpishi
いよいよ、天下布法のの実現に向け、帆を上げます。
Chapter1を踏まえて、私たちのポテンシャルを図る旅に出ます。
孤憤:自分一人で世間のありさまを憤ること。 いつも人から、発想が変だとか独特だとか言われます。果たして私の持論は、変で独特だとしても、無駄で有ったり有害なものなのでしょうか? それが知りたくて、読者の評価を頂きたく掲載に至りました。
「はてなブログ」で書き溜めたものを逐次移転掲載していく予定です。サンプルで製本もしてみて、なかなかの出来であると確信し、多くの人に読んでいただきたいと思い、人気のプラットフォームと言われる、こちらに移転してきました。 仕様の違いに悪戦苦闘で、最終60稿までの掲載には時間がかかりそうですが、 もし、続きが読みたいと思っていただけるようでしたら、いつでも以下のサイトで最終回まで読むことができます。 https://kanpishi.hatenadiary.jp/archive
ようやく「はてなブログ」に掲載された58稿はすべて移転することができました。 こちらのプラットホームでも末永く可愛がってもらえることを望みます。
「我が君(君が代)は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」 (愛しき君の世が、千年も幾千年もの間、小さな砂がさざれ石のように、やがて大きな盤石となって、苔が生じるほど長い間栄えていきますように) 私の知人の中には、「おどろおどろした旋律で、気味が悪い。どうしてこんな暗い歌が我が国の国歌なのだろう?」と首を傾げる者もいるが、曲調は日本独自の雅楽をルーツとしているためで、暗いというのは、ロックとラップに染まった現代歌謡界では致し方ない評価といえよう。しかし、詩の方は
1 臥竜 先日、テレビを見ていると面白い話を聞いた。イギリスの新聞社が行っている、AIのグローバル化における国別ランキングで、かつてロボット大国と言われた日本は、12位まで落ちているらしいのだが、逆にイグ・ノーベル賞は、17年連続で受賞しているらしい。アカデミー賞では、「ゴジラ−1.0」が制作予算20億円(タイタニックの240億円の12分の1の予算)で、VFX(視覚効果)賞を獲得した。 ノーベル賞というのは、正直多少政治が絡むところが有る。だから、イグノーベル賞やアカデミ
(注)本稿においては、読む人によっては、不愉快・不適切と感じられる表現が用いられています。筆者はこれを、現実を理解しやすくするための用法と考えていますが、不快に思われる方は、咎める事なく、読む事を止めることを望みます。 1 普通の人に普通でないものは理解できない 最近はかなりマシになったが、十数年前まで私たちの勤務先の人材で、英語を話せる人間は皆無だった。外国人の来客があると、「ゴリラが出たぞ!」ぞとばかり、皆、机や柱の陰に隠れ、声を掛けられるのを避けようとした。 そん
1 法治主義は冷血か? 庶民の正義である道徳と社会の正義である法律とは実のところ水が合わない。このため、厳格な法治国家はどうしても国民を縛り付ける印象を与える。「法律には血が通っていない」「情けも容赦もない」と人は何かと言うと、法律のことを無慈悲な支配者のように決めつけている。しかしこれもまたメディア等が操作した思い込み(マインドコントロール)である。 先日YouTubeを見ていたら、世の中には「法の支配」という言葉があり、私が殊更に活用する「法治主義」とは若干ニュア
前回投稿は、Chapter2では、最重要事項と捉え、その草稿には随分時間がかかったのだが、その分、前のめりが強かったのか、久しぶりにスベッた感じになった。 かなり投稿期間が空いた上にこんな話か?と言った反応に思えた。 こういう独りよがりには、早い目に気づいて、読んでもらえる投稿をしないと、本当に伝えたいことが伝えられない。 そこで、本稿では、やや趣を変えて、読み手に好奇心をもってもらえるような書き方にチャレンジしようと思う。 1 視聴率の実験 「どうして、ほ
韓非子五十五篇の11「孤憤」とは、法術の士が重臣に妨害されて才能をあらわせないことの憤りを言い、韓非の自著とされる重要な篇である。 ここに、「主の利は労有りて爵禄するに在るも、臣の利は功無くして富貴なるに在り。」との記述が有るが、まさしく、今、我が国の国会議員を含む行政機関、およびマスメディアは、国主である私たち国民の利益を最優先しているとは言えない。 これを知る者としては、聞く人無くとも、誰ぞ、術士・能士の目に触れられるがために、「孤憤」をつづるわけである。 果た
1 要因 京アニ放火事件の青葉被告の死刑判決が出た。当然の結果であろう。 彼のように既に人生が破綻し、自分の命がさほど重要でなくなったものにとって「死刑」と言う刑罰は、どうやら凶悪犯罪を抑制する効力を失っていることを実感する。 池田小学校の児童大量殺人事件以来、このような人生破綻者による道づれ大量殺人が続いている。彼らにとって、死刑はむしろ救いであるかのようである。 そうなると、「死刑判決」や、それが当然としか思えない裁判に、何の意義があるのだろう、という疑問にぶち当
1 非情の思想家 中国の思想家、韓非子は何かにつけて「非情の思想家」と呼ばれるが、それは何故か? 一般的に言われることは、彼は人を信用せず、冷酷で厳格な法律を以って国を統治する強権的な法治主義を唱えたからであると言われている。 しかし、私は彼の韓非子55篇を全て把握しているわけではないが、少なくとも君主に対し冷酷さを求めたと言う記述は見当たらない。 兵法家孫武(孫子)が、ある君主に「女でも立派な兵隊にできるか」と問われ、宮中の女官を練兵させられた際、真面目にやらない女
1 Eve クリスマスイブにプレゼントを交換する習慣は、イエス・キリストが生まれる前兆を遥か東方の三人の宗教的司祭が知り、長い旅を経て、イエスの生誕地、ベツレヘムにたどり着き、そこに居た、乳飲み子を抱くマリアの前にひざまずき、その乳飲み子のために、黄金、乳香、没薬といった贈り物をした事が、始まりだと言われている。 ちなみに三人の司祭は「東方の三賢者」と訳されることが多いが、単数形ではマグストいい、三人いるので「Magi(マギ)」というらしい。これを聞いたら、エヴァンゲリオ
1 Destiny 「どうしてなの?🎶今日に限って🎶安いサンダルを履いていた🎶」 科学的に考えれば、全ての事象は確率によって支配されている。 全ての結果には原因が有り、この因果関係を逆手に取ると、とある結果を求めるのであれば、その原因を造れば良いことになる。 自分を振った相手に再び会ったとき、「惜しいことをした。」と思わせ、見返してやろうと思うのであれば、常に、身なり服装に注意を怠らないようにしていれば良い。 安定した将来を求めるなら、良い大学に入れるように勉学に努
1 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」 何度聞いても胸の奥にスーッと風が吹くような言葉だ。 夏目漱石の著書は、文学好きには人気のようだが、結構、長ったらしい割に、何が言いたいのかよくわからないところが多くて、私はほとんど読破していない。それでも、「草枕」のこの冒頭のフレーズだけは忘れたことがない。 発表から120年を経とうとする現代においても、人の世の住みにくさの理由はほとんど変わっていない。まあ情に棹させば詐
1 会計ソフトの可能性 私の実家は会計事務所だった。税理士が少なかった当時では、ちょっと大きめの企業の顧問にでもなれば、安定した収入が得られたであろうが、父は、開業初心者や記帳アレルギーの事業者を連れてきては、その経理を手伝っていた。当然、報酬は少なく、家族から不満も出ていたかもしれないが、当時小学生だった私には、父が何かを楽しんでいるようにしか見えなかった。 大した実力がなかったのではと疑われるかもしれないが、彼はおそらく簿記の女神の祝福を受け、我々経理を学ぶ者が最後に
コロナ禍により蓄積された潜在的消費性向、記録的猛暑、そして18年ぶりのタイガースの優勝も重なり、世はまさに空前の好景気を迎えようとしている。 にもかかわらず、経営者たちは、利益の労働者への還元こそがさらなる利益の増加につながるという資本主義の大原則を忘れ、証券取引所からの「君たち安全運転が過剰!」に対し、自己の株主だけを守る戦術で、まだ逃げを打っている。 こんなシブチンたちは、いい加減見限って、独立して事業者になった方が報酬は上がるのだろうが、ここに、税金・国民健康保険
1 唯々諾々(いいだくだく)−韓非子_八姦篇 まぁ、いわゆる「言いなり」と言うやつであるが、これも韓非子の出典である。 あまり良い用語として使われないのは、実際に主人の言うことを鵜呑みにして全く反論をしない状況は、主人にとっても従者にとっても不幸な関係であるからである。 日本人はとかく争いを避け、穏やかで秩序に従順な民族であるとよく称賛されているが、それが実際事実であるならば、私などは、それは単に長いものに巻かれ、権力者や空気というものに唯々諾々と従っているだけなのでは
1 満足した豚であるより、不満足な人間であれ Chapter2の冒頭にあたり、まずは次の表を見てもらおう。 世界経済は常に成長を続けている。 私が大学在学当時、中国のことを「遅れてきた巨人」インドのことを「遅れてくる巨人」と言っていたが、現在ではインドが「遅れてきた巨人」で、ブラジルが「遅れてくる巨人」と言われている。東南アジアも、互いに協力しながら、文化的で裕福な国家への道のりを歩んでいる。しかし、これら新興国と言われる国々は、まだまだ、国内に多くの不健康で生活
1 タートルネック(衣装のデザインで、首に密着する丸く高い襟) ⑴ 103万円の壁 その昔、主婦のパート収入には、103万円の壁というものが存在した。 103万円を超えると、夫の扶養親族として認められず、夫の税金が跳ね上がるため、妻はこの収入を超えないように、勤務時間を調整していた。 昭和62年、消費税導入前の所得税減税政策の一環として、この103万円の壁を無力化する「配偶者特別控除」が導入された。配偶者の収入が103万円を超えても、いきなり扶養控除を0にするのではなく