吏は民の本綱なる者なり
1 前稿の再考
前回の投稿は、どうも、かなり不評だったようだ。
内容が悪いと、♡が貰えない。結構皆さん、中身を読んでいるんだなあ。
紛争が絶えない最貧国において、人を野生から切り離すため、基本教育を施すことが肝要と考えたが、「勉強すれば、配給を多めに与える。」とは、バカな提言をしたものだ。
彼らは、8歳で、自分一人分の作物を育てる事ができる。10歳で、マシンガンの使い方を学び始める。足し算や割り算より、ずっと、手っ取り早く収穫を得られる。このような社会において、学問はあまりに不毛だ。
「衣食足りて礼節を知る」。まず、治安の安定が国家を栄えさせ、万民に衣食が行き届いた時、初めて、教育のプログラムを始めるべきなのだろう。
また、前稿では殊更に権威主義国家を擁護した。弾圧される人たちにとっては、気分の悪い表現だったかもしれない。ただこれについては、自説が有る。
民主主義は絶対ではない。とある大国は、権威主義国家にスパイを送り込んで、国民を啓蒙し、民主化の嵐を起こそうとしているが、うまくいっていないようだ。それもそうだろう、民の持つ正義はまちまちだ。そもそも、そこに住む国民は生まれながらにしてその環境が当然であり、世界中がそうだと信じていて、それなりに自分達は幸福だとも考えている。従って、そんな社会で、一部のインテリを育て、内紛を起こしたところで、無駄な血が流れる一方なのだ。
ただ近代において基本的人権を守れない国は明らかに劣っている。これだけは世界共通の善と考えている。常に、基本的人権を守る事が、国際社会において発言権を得る最低条件であると定めても、地球温暖化より疑念を抱く国家は極めて少ないだろう。
「人はそれぞれに「正義」があって、争い合う事は仕方ないのかもしれない。
だけど僕の「正義」がきっと彼を傷付けていたんだね」(SEKAI NO OWARI「Dragon Night」)
どのような思想や正義も否定することはできない。しかし、その手段に暴力が関与することは許されない。
憲法前文で言うところの、「専制」については、その国家の正義を尊重せざるを得ないと考えるが、これに続く「隷従、圧迫と偏狭」については、これを否定する。
2 吏を治めて民を治めず
韓非子・外儲説篇「吏は民の本綱なる者なり。故に聖人は吏を治めて民を治めず。」
法治国家における「正義」は、民にとっては他人が決めた正義である。民が個々に持つ正義はあまりにまちまちであり、とてもまとめることは困難である。そこで、民が、その法律が決めた正義を自ら湧き出したかのように感じさせるため、民がそれを手本として真似をしたくなる「本綱」を設けることで、非常に効率的に、社会正義が共有される。
私は、この理念の実現経験が、日本の江戸幕府にあると感じている。つまり、サムライという行政官が、慄然と統治されていたことにより、民もまたこれに従った。太平は長きに渡り保たれ、同時に日本の文化だけでなく、学問も独自の進歩を遂げており、開国により天下が回天しても、民は秩序を保ち、150年以上は遅れていたはずの技術を、10数年で習得するに至った。
私はこれを、天下布法の重要な要件として、戦略に組み込むことをずっと検討していた。
このChapter3は、日本の良きスペックを世界に波及させることを目的としている。
その一つに、日本のサムライ制度の何が良かったのか?そして、どうすればそれを再現できるかを示すと言う目標が有った。前稿では、教育の重要性を語りたかったがために、少しズレた戦略を語ってしまった。
3 民の本綱なる者への道は遠きにして
さて、現在の日本の役人が、江戸時代のサムライのように、「花は桜木、人は武士」と言われるほど、「民の本綱なる者」と言えるだろうか?残念ながら程遠いように思う。
民が簡単には「法」を理解できないように、上層部はともかく、末端の役人の中には、どうにも、自分に課せられた課題が理解しきれていない者が居る。
これより、ある官庁の例を挙げて、「民の本綱なる者」への道の険しさを表現する。
⑴ 税務調査手続法
平成25年。国税通則法が改正され、税務調査手続きの法制化がなされた。
その背景には、行き過ぎた任意調査がある。
税務調査は、原則任意であるが、「正当な理由がない限りこれを受忍する(通称:受忍義務)という規定があり、この正当な理由というのが曖昧で、受忍義務が優先されてきた。
税務当局としても、相手が開示を拒むものほど問題があるケースの確率が高く、不正を行っている者ほど、体調を壊す傾向が有るわけで、ここで引き下がっていては、真の社会正義は保てないと考えてのことなのだが、警察と同じように、その疑念に対し、一定の信憑性がなければ、国民の財産を勝手に検査したり、体調が優れないという対象者または経理担当者に対し、質問して情報を引き出すことはできない。
しかし、この改正がなされるまで、その疑念に確証がなくとも、ほとんど質問・検査ができるという、言ってみれば、警察官より強い権力を持っていたわけだ。
これに対し疑問を抱く国民が、いくつかの行き過ぎと思える調査について訴訟を起こした。当初、裁判所も、そもそも、税務調査の手続きが、刑事事件で言うところの刑事訴訟法のように具体的に定められていなかったため、判断に苦慮していたが、あまりに無法というものも見受けられたようで、「不正発見のためには何をしても良いというわけではない。」という判断が出始めた。
税務当局は、いくつかの敗訴を受けるうちに、強引すぎる手法では、たとえそれによって不正を把握できたとしても、国民の支持を得られないと考え始めていた。
だから、当該手続法が定められた時の対応は早かった。即座に、全管にその趣旨を通達し、以降同様の事の無いように手順を守らせるためのチェックシートを作成し、手続法に定められた記録が残せるためのテンプレートが整備された。
私が、日本の行政官庁なら、民の本綱となり、ひいては世界に範たるを示す組織となりうると考えるのは、このように、行き過ぎた行為について、シビリアンコントロールが働くと、司法が介入し、三権分立の原則通り、中央の上級官庁が、積極的に非を正してくれることだ。
しかし、残念なことに、インフラはアッという間に整備されたとはいえ、現場の職員はなかなか即応できなかった。
末端の職員は、とてもじゃないが、中央の上級官庁員ほど、天下の情勢、国民の信用状況を理解できていたわけではない。おそらく、自分たちの組織が、提訴され、幾度か敗訴していることを知らない者、急な変化についていけない者、手続法をいくら読んでも、何が、どこまでが適正なのか理解できない者などが多く存在し、手続法の普及と完全なる運用に至るには困難を極めたようだ。
⑵ 組織理念の制定
2018年(平成30年)「財務省再生プロジェクト」(以下、再生プロジェクトという)が発足する。
https://www.mof.go.jp/about_mof/introduction/saisei/index.html参照。
きっかけは、有名な森友問題における決裁文書の改ざん問題であり、その目的は、失った国民の信用を回復させることにあったのだが、翌年には、障害者雇用者の水増し報告問題が発覚し、手続法は、導入から5年も経っているのに、未だ時代に乗り遅れていて、いわゆる「コンプライアンス」「内部統制」の早期改善も求められており、例年財務省から報告される進捗状況を見ても、未解決問題は山積のようだ。
令和3年4月、再生プロジェクトの提案を受け、国税庁は、「組織理念」なるものを発表した。噂では、どこかで外国の偉いさんに、「組織理念の無い組織に明日は無い。」と言われたからだとか言われているが、国税庁は、財務省設置法の定めにより設立された、「官庁」である。従って、組織理念に当たる「設置の目的」は、同法において明確に列記されている。具体的には3つあるのだが割愛する。
要するに、法に基づき設立される「官庁」に、組織理念などというものは必要ない。法に則り、通則に定める手続きを公正に行えば良い。
にもかかわらず、敢えて本庁がこれを掲げたのには理由がある。
当該組織理念には、概ね財務省設置法に定められた国税庁の使命が掲げられているが、その中で、“組織として目指す姿”と題して、「信頼で 国の財政 支える組織」という言葉が出てくる。これは、当該法規には記されていない。そのほか、細則として示されている内容の中で、同様に法規に記載のないものがいくつか有るが、それらは皆、かの省庁が犯した過ちを自省する文言である。
面白いのは、それまで、再生プロジェクトは、「信用の回復」と表現していたのに、ここで、「信頼」という言葉に変わっている点である。
ちなみに、国語辞典によると、「信用」とは、過去の実績に対する評価に使われ、「信頼」とは、将来に向けての行動に対する期待を表すそうな。
この言い換えを見ているだけでも、この組織理念を策定した人達の想いのようなものを感じる。
昔は、東大卒はみんな財務省を目指したものだが、天下り改革のおかげで、ずいぶん人気が減ったという。しかし、どうしてどうして、まだまだ、頭の切れる者がいるもんだ。こういう役人が、「民の本綱なる者」になり得るのだろうな。
しかしながら、このような機微まではともかくとして、この新しい組織理念、果たして末端の役人まで届いているだろうか?
行政機構の上下の温度差を描いた伝説のドラマ「踊る大捜査線」でも表現されていたように、中央には中央の、現場には現場の理想・理念というものがあり、その軋轢を埋めることは難しい。
再生プロジェクトは、発足当時から「根付いた組織風土を改革する事は、一朝一夕というわけには行かず、地道で息の長い取組が必要となる。」と論じている。そして、直近の2024年進捗報告においても、「引き続き組織風土改革を継続」という課題が挙げられている。
私には、国税庁の掲げた「組織理念」が、その組織のあるべき姿を宣言したと同時に、「まだ未解決の問題が、叶えられていない理想が、これだけ有る。」という悲痛な叫びにも見えてくるのである。
4 剱岳にも道は有り
民を直接統べる事は不可能に近い。そこで役人を統制し、その資質を上げて、これを「民の本綱(手本)」とすることで、効率よく、社会正義を共有させるという韓非子の思想は有効と考えるが、末端の役人の統制となると、前述の如く容易ではないようである。しかし、国税庁の失敗は、どうも、上意下達がもっと有効に機能するという甘い観測から来たものと考えられる。国税庁もおそらく今や気づいているだろう。
理想には常に戦略が必要だ。そして、複雑化した現代では、もっと緻密な戦略が必要だったようだ。しかし、果たしてその緻密な戦略とはどういうものなのか?私の見る限り、国税庁は、ここで思考が行き詰まっているように見える。
現在私は二つの視点から、その戦略案の構築に挑んでいる。(単に趣味としてだが。)
その一つは、またまた韓非子の,利益誘導法を活用すること。今やサラリーマン化した役人に対しては、組織理念をよく理解し、これに従うほど、効用を得られる仕組みを作ることが重要だ。残念なことに、上層部と軋轢を持つ組織では、上層部の理念を理解する者ほど冷遇されるということが、あってはならないのに、ありがちだ。
数字や業績ではなく、「善く吏たる者」を厚遇する仕組みをつくれば、「能能わざる者」は、沈黙しよう。
今一つは、新撰組の局中法度に見られるような、度が過ぎるほどの、士道への憧れを醸成する教育だ。安定や、清潔さでなく、国に殉ずる者を採用し、彼らを「本綱」とし、憧れの存在にしていく。
いずれも、まだ、ぶつ切りの材料を鍋にブチ込んだレベルの状況で、まるで形になっていないが、Chapter3の終わりまでには、成形して、披露したいと考えている。
ミロのヴィーナスの写真を探していると、ほとんどが、彼女がこちらを向いているものが多い。Wikiでも、それが「正面」で、この写真のように横を向いているものは、「横向き」と表現している。しかし、最近の研究では、この方角から見るのが正しいようだ。そして、おそらく壁を背にして建っていたと考えられている。
ところで、先日、このヴィーナスの評論について面白い話を聞いた。
「ミロのヴィーナス」は、なぜ美しいのか?どこが美しいのか?
そうではない。この彫刻は、「美しい」を表現したものなのだ。つまり、人体や彫刻の美しさは、いかにこの彫刻に近いかで決まる。この彫刻自体が、「美しさのモノサシ」なのだという。
19世紀初頭、彼女がミロス島の農地から発見され、保存状態の良さから、翌年には、ルーブルに展示されて以来、多くの芸術家が彼女を手本にしてきた。まさに彼女は、「美の本綱」だったわけだ。
人はそれぞれに、思想・信条・正義を持っているのだろう。しかし、そこに共通項が無いとは誰も証明していない。その共通項を見定め、「民の本綱」となる。人としてのモノサシとなっていける集団を作ることができれば、世界はもう少しマシになるだろう。
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