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下着デザイナー鴨居羊子さんを知っていますか?(本の感想)


 鴨居羊子は昭和31年から下着デザイナー、人形や絵画などの創作兼会社経営といった多彩な活動をした女性である。今でいう、起業家だった。当時、下着は大半が白色、実用品としか見なされなかった。そこに、下着を実用性以上のものとして、カラフルでファッション性があるものを作った。そんな彼女の自伝エッセイ『わたしは驢馬(ろば)に乗って下着をうりにゆきたい(ちくま文庫)』(表紙に使われている人形は、鴨居羊子の創作したもの)について書きたいと思う。当時の社会状況等の補足をするため、彼女についての評伝『下着を変えた女 鴨居羊子とその時代(武田 尚子著・平凡社)』を参考にさせていただいた。

『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい(ちくま文庫)』(以下A)
『下着を変えた女 鴨居羊子とその時代(武田 尚子著・平凡社)』(以下B)


生い立ちと新聞社を辞めるまで

 鴨居羊子は大正14年、大阪に生まれた。父は新聞記者で、海外特派員もした人である。母は「そんなことでお嫁にいったらどうします!」という、当時としては珍しくなかっただろう、いい嫁になることが大事というような母だった(しかし、鴨居は恋多き女性だったが、終生未婚である)。
 鴨居は兄と、のちに画家になる弟の玲との3人きょうだい。兄は第二次世界大戦で戦死、数年後父も亡くなり、一家の家計は鴨居の肩にかかった。鴨居は父の友人を頼り、大阪にあった夕刊紙「新関西」に入社。そののち、読売新聞が大阪進出するために人材募集をしていたのに合わせ、読売新聞に転職。学芸部の婦人欄などを担当する記者になった。
 しかし徐々に、会社組織の「団体内に巣くう人間の嘘と不正な妥協と裏切りをいやというほど」見せつけられ、そしてその状況から、「己の自由の精神を守るため」に読売新聞を退職(A33、39頁)。自分らしく自由にありたいということだろうか。昭和29年、29歳の時である。
 それから1年3ヶ月ほど経った昭和30年12月、鴨居は下着デザイナーとしてデビューする。社名はチュニック制作室という(数年後、株式会社化してチュニック株式会社)。

昭和30年ころの世相

 鴨居の斬新さや時代性を理解するには、当時の世相を知っていた方が理解しやすい。そもそも昭和30年ころは、どんな世相だったのだろうか。

 昭和30年は、戦後10年。神武景気がはじまり、電気洗濯機・冷蔵庫・テレビが”三種の神器”と呼ばれた。石原慎太郎が『太陽の季節』を発表し、”太陽族”が流行る。ジャンパースタイル、ダスターコート、シャネルレングススーツなども流行になった。
 女性用の下着は、人絹(じんけん。「人造絹糸」の略。当時レーヨンをこう呼んだ)の白い下着が、市場の大半を占めている時代だった。全体としては、メリヤス製品が主流。女性は、和装下着の知識はあっても、洋装下着はまだまだ初めて着るという人も多かった(B23~28頁)。

 また、ナイロンが登場して間もない頃だった。ナイロンは、軽く発色が美しい。鴨居はこのナイロンを使って下着をつくった(B174~175頁)。

 翌年の昭和31年は、第一次下着ブームが起こった。ブームのきっかけは、クリスチャン・ディオールが昭和30年に発表したAラインの影響で、日本でも裾の広がったA型シルエットの落下傘スタイルが流行したことにある。そのスカートのふくらみを出すためには、カンカンペチコートと呼ばれたパニエという下着が欠かせなかった。この流行自体は一時的なものだったが、流行の服を着こなすには下着で体を整えることが大切だ、との認識が生まれるきっかけになった(B171~172頁)。

 さらに、下着ショーが下着ブームに拍車をかけた。昭和27年秋、和江商事(現ワコール)が日本初の下着ショーを開催した。これを機に、下着ショーは昭和30年代にかけて各地で頻繁に開催されるようになる(B179~181頁)。

なぜ下着デザイナーになったのか

 鴨居は、なぜ下着デザイナーになろうとしたのか。
 象徴的な出来事として二つの思い出が語られる。

 一つは、メリヤスの黒いタイツである。
 鴨居はメリヤスの黒いタイツを膝で切り、ゴムを入れ、ぴったりとしたパッチに作り替えた。そして、膝のところに白く光るガラス玉を縫い付けた。おしゃれで、しかも温かい。
 この体験で鴨居は思った。「実用的なことが同時に美しいというわけにゆかんもんだろうか? 毎日毎日働くこの体、この脚は毎日機能的で心地よく、そして美しくたのしくないといけない」(A47頁)。

 もう一つはピンクのガーター・ベルトである。
 昭和27年、鴨居は輸入品を扱う店で、細いレースが一面にちりばめられたピンクのガーター・ベルトを購入した。価格は1千5百円。当時、鴨居の月給は1万7千円。だいぶ高価なものだった(ちなみに参考として、昭和29年の時点で、読売新聞社の部長職が、月給5万円ほどの時代である(A59頁))。
 当時は、いわゆる現在”ストッキング”と呼ぶ、パンティストッキングはできていない(パンティストッキングができたのは、昭和40年代に入ってから)。そのため、ストッキングは片足ずつガーター・ベルトで留める必要があった。

 このピンクのガーター・ベルトを身につけると、気分が浮き立った。心がよろこびにあふれた。この小さなカラフルな下着一つで、自分の気持ちがどれだけ変化するかを鴨居は体験したのである。

 しかし、このガーター・ベルトを母に見せたところ、
「まあ、そんな美しいものは、よそゆきのためにしまっておきなさいよ。お嫁にゆくまでしまっておくんですよ。それがたしなみというものです」(A49頁)と言われてしまう。
 しかし、鴨居は買ってからすぐに身につけはじめた。鴨居が下着マニアでこだわりが強かったからではなく、その下着を身につけた時の浮き立つ気持ちを”今”謳歌したかった。
 母の価値観に従ってタンスにしまい込んだら、自分の自由な青春はいったいいつやって来るの?

 鴨居はこの頃から、カラフルな下着やネマキ(寝巻)を身につけるようになった。その度、母の反感を買い、ケンカした。
 鴨居は、この母の反感に妥協することは「古い世代に新しい世代が屈服することだと思った」「ケンカのたびに私は新しい世代と自由を意識していった。いま考えるとそのつみ重なりが「新しい下着屋」をつくったことにも」なる(A51~52頁)。

 そして、鴨居の下着に懸ける思いが凝縮されているのが、鴨居がデザイナーデビュー時に開いた個展の案内状の宣言文に見られる。

「下着は白色にかぎる―ときめこんだり、ひと目につかぬようにと思ったり、チャームな下着は背徳的だと考えたり、とかく清教徒的な見方が今までの下着を支配してきたようです。こうした考え方に抵抗しながら、情緒的で機能的なデザイン、合理的カッティング―などをテーマに制作してみました」(A99頁)。

 つまり、おしゃれな下着を身につけたときの自分の気持ちと母とのやりとりを原体験として、社会の古い価値観からの脱却を目指したということではないだろうか。
 今となっては当たり前だが、その日の気分で下着のデザインや色を選ぶこと。異性を意識して選ぶのではなく、自分の気持ちに添うもの、自分が楽しむものとして、自分の好みで選ぶこと。そうした、服の中に着るから実用性さえあればいい、ということではなく、下着は下着として服同様に選び、楽しむこと。
 それらを恥ずべきもの、うしろめたいもの、と考えるような社会の見方をなくして、女性が自由に楽しめるようになることが、女性の性の解放、古い価値観からの脱却につながると考えたのではないだろうか。

 鴨居は下着デザイナーとしてデビューするにあたり、まず大阪そごう百貨店で個展を開催する。その後も、それまでは男子禁制だった下着ショーを、初めて男子禁制にせず行った。下着ショーは好評で、その後何年も多種多様な演出で行っている。プロ野球のホームランや勝利投手への賞品として下着を贈ることもしていた。どの宣伝方法も当時としては斬新で、その演出を思いつくところに鴨居の芸術家性が見える。

  鴨居の下着のデザインは、セクシーとかコケティッシュと表現されるようなアヴァンギャルドなデザインだった。正統派というか、中庸をいくデザインではない。それゆえ、購入者は、全体から見れば少数派だった。鴨居自身、質を重視していた。鴨居の宣伝方法と下着のデザインのアバンギャルドさから、何かと話題になり批判もされた。しかし、個性派の中小企業として、着実に会社は大きくなって全国展開していった。

商売人である自分と芸術家である自分との葛藤

 会社が大きく、従業員が増えるにつれ、徐々に鴨居は悩みはじめてもいた。

 鴨居が新聞社を辞めたのは、先にも述べたが、「己の自由の精神を守るため」だった。自分らしくいられる会社をつくろう。それが目的だった。そうした意味では、下着デザイナーになったのも手段だった。
 だから当初は、会社をつくったことで、鴨居は自由を手に入れられたはずだった。自分らしさ、自分のセンスが下着のデザインに全て反映されていた。しかし、会社が大きくなった今は、その自分の会社が自分らしさを奪っていた。

「あんたは芸術家になろうとしないで商売人になろうとした。いや商売人になった。あんたは俗に徹しようとした。そこに責任が生れてきた。あんたはその責任がこわいのだ。それで下着屋という俗からのがれて、いまさら自己中心の芸術家にもどってみよう」としている(A254頁)。

 芸術家として活動するなら、自己中心的に自分のセンスを前面に打ち出して作品を作ることができる。それが最も望まれることでもある。だから自分流に自分らしくあれる。だが商売人になると、取引先や従業員に責任がある。利益を出すことを考えなければならない。自然と、売れる商品をつくることになる。売れる商品をつくろうとすると、自分のセンスは抑えざるをえない。それは、自分らしくいられないということだ。しかし、自分のセンスを抑え続けていると、自分を表現したいという欲求不満がたまる。

 会社が大きくなったがゆえの葛藤だった。大きくなるほど、自分ひとりで自由につくるというわけにもいかなくなる。利益確保を常に意識しなければならない。下着は、会社組織でつくるものになり、会社の意向が反映される。自分のセンスは抑えるか、時には全く反映されていないこともあったかもしれない。自分がこれぞ売れてほしいと考えてつくったものが売れず、そうでないものが売れることもある。そうなるともう、誰の会社なのかわからなくなる。自分がつくった会社なのに、自分は置いてけぼりにされて、会社が一人歩きする。自分らしくいることが制限されて、自由がなくなる。

 鴨居のセンスは独特で芸術性がある。鴨居自身、自分が本質的には芸術家でありながら商売人になったことを、会社経営しだしてから痛感しただろう。芸術家であるから、自分のセンスを表現することは生きるのに欠かせない。センスを表現することが生きることそのもの。
 鴨居の独特のセンスを理解するには、鴨居のつくる人形を例にするとわかりやすい。
 その人形は、たとえば魔女人形。「灰色の髪の毛のてっぺんに細い針金のアンテナを三本たて、赤い毒々しい大きい唇と、細い目、三角の耳、ピンクの乳房、そして黒い羽などつけた」。また下着人形というものは、「裸の上にうすもの下着を着て、シッポを生やし、お尻に香水を注射し、スカンク・ドールと名づけた。」(A255頁)。このシリーズの人形にはそれぞれ、オナラに関係のある名がつけられ、ミス・プッ子、スカベ子、メリー・クラクションなどの名がついている。
 鴨居のセンスを全開にするとこうなる。鴨居には独特なエロティシズム、ロマンティシズム、少女性があった。

 会社が大きくなるほど、自分は自分を表現できなくなる。会社の利益確保と自分の表現欲求。自分の中でバランスをとる方法として考え出されたのが、人形や絵の創作だった。
 上記に挙げた人形は、昭和39年ころからつくりはじめた。鴨居は下着デザイナーとして既に地位が確立している。この頃、海外旅行に出かけており、その際に思いついたようである。この人形を筆頭に、会社として独特なセンスのおもちゃ販売を下着と並行してはじめた。絵も本格的に描きはじめ、その売上げも会社の収入に含めていたという(B235頁)。
 下着は利益確保のために、自分のセンスを表現することは控えめにし、そのはけ口として、人形や絵に自分の全てを思う存分表すことにしたのだと思う。

 そして、その6年後、昭和45年ころからフラメンコを習いはじめる。
 『下着を変えた女~』の著者武田は、フラメンコを習いはじめたころから、下着のデザインも大人っぽいムードのあるアバンギャルドなものから、ロマンティックなかわいいものに変化したと指摘する。また、同時期に鴨居の服装自体が、ヒラヒラ、フリフリ、キラキラ、装飾過多になったという(B265〜267頁)。
 下着のデザインがかわいいものに変化したのは、かわいいデザインの方が需要があり、利益が出たから、というビジネス上の判断もあるのであろうが、フラメンコにも影響を受けているのではないかと武田はいう。鴨居の服装も同様にフラメンコの影響だと推測する。それは、フラメンコの衣装はドラマティックなデザインだが、そのドラマティックな衣装を着てフラメンコを踊ることで、現実逃避が加速し、内向化が進んだのではないかという(B266~267頁)。

 鴨居のエッセイ『わたしは驢馬に~』は、昭和47年ころに起こったことまでが記述され、翌昭和48年に出版されている。鴨居は、昭和45年頃に下着のデザイン路線を変えたことには全く言及していない。だから、鴨居の本心はわからない。

 わたしは、鴨居の服装や下着のデザインがフラメンコの影響を受けているのかについては何とも言えない。しかし、フラメンコが鴨居に一区切りつける踏ん切りをつけさせたとは思う。
 鴨居はフラメンコの練習をする中で、心理的変化が起こっていたことを記述している。
 体を酷使し、汗みずくになり、自分を緊張させる。すると自分が次第に浄化し変化する。「不思議なことに、私はいままで自分の心をまどわした”着るもの”のおしゃれを全く忘れ去っている日々に気づいた」(A337頁)。
 鴨居にとって、「自分の心をまどわした”着るもの”」といえば、下着だろう。
 そして、「全く忘れ去っている」とは、下着デザイナーをはじめた理由、すなわち女性が下着を自由に楽しむこと、社会の古い価値観を変えるために下着をつくること、にこだわるのを完全にやめる踏ん切りがついた、ということではないだろうか。

 鴨居は、自分のセンスを完全に表現できないことは、何年も前から受け入れてきた。しかし、下着デザイナーになろうと決めた最初の志の全てが、デザインの路線に示されている。デザインの路線を変えること、それは、最初の志がもぎ取られてしまうような気がしたのではないだろうか。
 鴨居は、起業した時、「ロンドン・タイムスのように、小さくてしかも権威」(A62頁)がある会社を目指していた。権威をもち、独自のオピニオンをもち、指導力のある商品を世に送り出すこと。鴨居は芸術家で、表現者だ。デザインの路線は鴨居の唯一残った、外しがたい、下着デザインの中で自分のセンスを表現している部分といえないだろうか。

 しかし、ちょうど時代は、鴨居のような中小の下着ブランドには厳しい時代になってきていた。中小ブランドが勢いがあったのは昭和40年代初めころまで。下着市場は、昭和40年代半ばを過ぎると、すでに百貨店市場を確立していたワコール、トリンプの大手メーカー主導時代に入る(B207頁)。そうした市場勢力図の交代を、鴨居も実感していただろう。
 社会も変わった。下着はカラフルになり、鴨居が望んだように、以前よりもずっと自由になった。そうした意味では、鴨居の下着をデザインしてきた目的は完結したともいえる。

 無心になって汗みずくになってフラメンコを踊るうちに、もういいかな、終わらせても、と思えたのではないだろうか。下着のデザインは会社を存続させるためだけに続けて、自分を表現することは人形や絵の中だけにしよう。完全に切り分けよう。だから、下着は”売れる”デザインに路線変更しよう。あくまでわたしの憶測である。

 鴨居の会社は、昭和50年代には素材がレーヨンに代わって、綿中心になる。昭和54年当時の鴨居が、キャミソールとショーツを着せたマネキンの横に立っている写真が、『下着を変えた女~』に掲載されている(B219頁)。その写真の鴨居はシェパード・チェック柄らしいスキッパーブラウスにパンツというシンプルな服装。下着のデザインはリバティ社のリバティプリントのような小花柄の布でできており、中央縦に太いレースが縫い付けてあって、ボタンのように蝶結びの細いリボンが縦に等間隔に縫い付けてある。斬新さはない。ロマンティックでかわいいデザイン。
 この写真だけで鴨居の服装は測れない。下着は、昭和30年代のコケティッシュな印象とは全く別物である。

 鴨居は幾度も芸術家である自分と商売人である自分に葛藤し、折り合いをつけてきた。
 鴨居は本質が芸術家だからこそ、苦悩してきた。しかし、芸術家だからこそ、誰もなしえなかった下着の変化を、斬新な発想で成し遂げられた。鴨居に芸術家性があったのは、下着デザイナーになるのには必要不可欠だった。
 芸術家が商売人になろうとし、なったあと苦悩する姿まで、その変遷が鮮やかに詰まっているのが、鴨居のエッセイである。

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