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【第19章・伏見稲荷の護符】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第十九章  伏見稲荷の護符

 明け六つ(ほぼ午前六時)、京都の東の空が朝焼けに赤く染まっている。乙星太夫が蚊帳の中で目を覚ますと、隣に男はいなかった。

 ぼんやり部屋の中を見回す。すると、化粧机の小物入れが、半ば引き出されていた。そこには、店の若い衆や下働きの女たちに小遣いをやったり、ちょっとした買い物を頼むのに常時十両ほどの金子を入れてある。

 直感的に、やられた、と思った。

 身を売って暮らしている遊女にとって、金は命だ。しかし、どうした訳か、それほど腹は立たない。
 まあ、いいか。ここ何日か、あたしも随分と楽しませてもらったからね。十両ぐらい、言えばくれてやったのにさ。

 その時である。ドスドスと誰かが階段を駆け上がってくる音がした。
「た、太夫、太夫! 竜蔵です。起きてますか。開けていいですか」
「いいわけないだろ。あたしゃ、今、素っ裸なんだ。そこで言いな」

「は、はい。そ、それが、大変なんです。大変な事が!」
「何だい? 落ち着いて話しな」
「旦那様と女将さんが、そ、その、亡くなりました。い、いえ、殺されたんです」
「えっ?!」
 乙星は、反射的に半開きのままの化粧机の小物入れに目をやった。

 まさか、あの人が?!

「わ、分かったよ。すぐに下りて行くから、みんなに騒ぐなと言っておくれ」
 乙星は、立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。ふらついて蚊帳の端を掴んだ。蚊帳を吊る金具が悲鳴を上げて折れ、落ちてきた蚊帳の網が体にからむ。しばらくもがいて、ようやく網の外に逃れると、裸のまま仁王立ちになった。

「はは、はっはっはっ。何やってんだい、あたしは。しっかりしろ! こっからが肝心なんじゃないか」

 彼女は、部屋の隅の衣桁から壽の字を変形させた蝙蝠文の入った薄墨色の浴衣を取り上げ、その美しい肢体にさっとまとった。そして、真っ赤な腰紐をきゅっと結ぶ。

「あっ、太夫。おい、そこをどけ。太夫がいらっしゃったぞ」
 妓楼の主夫婦の部屋は一階の一番奥にあった。二つの布団が並んで敷いてある。乙星は平静を装い、その枕元に立って覗き込んだ。

 死んでる。間違いなく死んでる。

 主人は寝ているところを上から、掛布団ごと心の臓をひと突き。恐らく、下の畳まで突き通されている。一方、隣の女将の体は、少しだけ上方にずれていた。物音に気付いて上体を起こそうとしたのかもしれない。そこを首の後ろに手を回され、やはり心臓をひと突きにされたと思われる。二人とも、自分が死んだことすら気付かぬ内に、三途の川を渡ってしまったに違いない。

 典膳の旦那、凄い腕してるじゃないか。乙星は、ぞわりと鳥肌が立つのを感じた。そして思った。あたしも負けてられないよ、と。

「竜蔵、赤兵衛」と、日頃から乙星に懐いている店の若い衆を呼んだ。竜蔵は典膳を店に連れて来た新米番頭、赤兵衛は一見優男風の手代である。
「へい」
「竜蔵。お前は番所に走って、お役人を呼んで来るんだ。ついでに島原の会所にも一報を頼むよ。赤兵衛は、店にいる者を一ヶ所に集めて見張っておきな」
「承知しました」

 すると、妹分の遊女・ともが泣きそうな声で訴えてきた。
「太夫。太夫は、あたしらの中に下手人がいるとお疑いで?」

「そうじゃないよ。見な、この鮮やかな手口。誰かに雇われた玄人の仕事に違いない。こんな商売してりゃ、どこでどう恨まれていたって不思議じゃないからね。でも、お役人がどう考えるかは分からない。お調べが済むまでは神妙にしておいた方がいいんだ。お前たち、お役人に嘘はいけないよ。どんな小さな嘘でも、ひとつ嘘を吐くと、どんどん嘘を重ねないといけなくなる。いずれ大怪我するからね」

 どの口が言うか、というような台詞がすらっと出た。

「わ、分かりました。すべて太夫のお指図に従います」
「そう願いたいね」

 いつの間にか、乙星の背後に下働きのお熊が来ていた。その背丈は六尺(約百八十センチメートル)を超える。名は体を表すとはよく言ったものだ。
 彼女は、丹波の山奥から口減らしで売られてきたが、巨体の上に見場がひどく悪い。さらに、愛想もない。気も利かない。とても遊女は務まらない。店主夫妻はこの大飯喰らいを早々に損切りした。しかし、追い出されたとて帰るところなどない。

 木枯らしの吹く夕であった。お熊にとっては寒さより空腹が堪える。店の裏で指をしゃぶりながらぽろぽろ涙をこぼしていると、乙星に声をかけられた。乙星は、店主夫妻にお熊の衣食分は自分が負担するからと言って、彼女を店に戻してくれたのだった。以来、店中の掃除洗濯、布団の上げ下げから薪割りまで、馬鹿力を活かしてせっせと働いている。

「お熊。着替えるから、桶に水を汲んで部屋に持ってきておくれ」
「あい」
「のん気な返事だね。あんた、怖くないのかい?」
「あい。あたいは、姐さんさえご無事なら、他がどうなろうと知りやしません」
「そう。頼もしいね」
 お熊の肩をぽんぽんと軽く叩き、乙星は階段を上がって行った。

 自室に戻ると、障子戸を閉め、一度、細く長くしっかりと息を吐いた。自然とあの化粧机に目が行く。小物入れを改めると、金子十両は確かに消えていた。その代わり、何か紙片のようなものがあった。

「何だい、これ?」

 よく見ると、伏見稲荷の護符であった。正規のものではない。参道の店屋で食事をしたり土産物を買ったりしたときに渡されるペラ紙の記念品だ。

「ははは。典膳の旦那、面白いね。お気持ちだけはありがたく。でもさ、今更・・・」

 万一露見すれば首が飛ぶ。怖い。しかし、迷いはない。社会の最底辺に生まれた乙星には、最初から選択肢などない。前へ前へ、上へ上へ、行けるところまで行くだけだ。

 頼りは己の色香と才知だけ。神頼みなどするものか。

 彼女は窓際に立つと、赤さを増し、血の池のようになった東の空を睨みながら、木版刷りの護符をぎゅっと握り潰した。

 新見典膳と乙星太夫、切っても切れない運命の糸で繋がれた二人。彼等が歩む二本の道は、いずれ再び交差する。しかしそれは、それぞれがそれぞれの道を切り拓いた先のことである。

次章に続く


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