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遠藤周作『沈黙』⑴

鎖国の只中にある日本で、ポルトガルから志を抱いてやってきた司祭、セバスチャン・ロドリゴを主人公とした、背教への葛藤の物語。「神の沈黙」という、キリスト教信者にとっては核心にふれるテーマである。

物語は、”報告”というかたちの「まえがき」で幕を開ける。舞台となる時代の背景を描写し、読者をまず引込むはたらきがある。報告の体をとってはいるが、キリスト教信者や宣教師らに対する拷問の様子は、かわいた文面ながら描出が細かく、読んでいて顔をしかめるほどである。
そして、そのような日本におけるキリスト教迫害を受けて、ポルトガルから司祭が三人、その上司をつよく説得して潜伏の許可を得、日本へ渡ろうとする過程が語られる。この、「まえがき」があるのとないのとでは、作品の受け取り方が大きく異なってくるのではないだろうか。遠藤周作は1923年生まれ、本作は1966年の出版。17世紀の出来事を読み手の身近に引き寄せるには、まず予備知識が必要となる。それを「まえがき」で用意し、続くⅠ~Ⅳの「セバスチャン・ロドリゴの書簡」へ、接続をスムーズにしていると感じる。

Ⅰ。日本に上陸する以前、布教への意志に燃えるロドリゴは、澳門(マカオ)で日本人のキチジローに出会う。このキチジローは、全編を通して大事なときに登場してくるが、常にその挙動を否定的に描写される。”弱虫””卑怯””臆病者”という男への評価は変わることはない。そして、

出発はいよいよ五日に迫ってきました。我々としては、自分の心以外に全く日本に持っていく荷物はありませんから、心の整理だけに没頭しております。(中略)しかし神のなし給うことはすべて善きこと。彼(※)にはやがてなさねばならぬ使命をひそかに主は準備されているのでしょう。

p.31 (※) 「彼」はロドリゴと航海をともにしたものの、
マラリアに臥した司祭、サンタ・マルタのこと。

という段でこの章は終えられる。ロドリゴはまだ布教への希望を抱いている。神への信心は傾くことなく、主は彼の理想としてある。

Ⅱ。真夜中の渡航でロドリゴとフランシス・ガルペ(司祭)はトモギ村という漁村に辿り着く。その村で匿ってくれるキリシタンをまず探さないといけなかったが、その役割はキチジローが果たし、ロドリゴとガルペは、彼らを「パードレ、神父さま」と呼び、「我々にとって共通の徴である十字」を目の前できってくれる日本人の信徒に出会った。トモギ村は司祭や修道士がいない中、独自で組織をつくり、司祭らの役目を代行する人物のいる村であった。

トモギ村の西にある村々や島々には信徒がまだ残っているかもしれぬと思われるのですが、このような事情なので私たちには外出さえできぬ次第です。しかし、やがては私は何かの方法をみつけて、これら見棄てられ、孤立した信徒の群れを一つ一つ見つけていかねばならぬでしょう。

p.43

異教徒に見つかれば即通告、投獄(、処刑)は免れない。身を隠さざるを得ない立場にはあるが、この場面ではまだ、途上の希望がかすかにあった。

Ⅲ。山中の小屋に匿われたロドリゴとガルペは、布教の活動もできずに村人らのやっかいになっていることに、閉塞感を抱き始める。さらには、「自分たちが日本人たちに捕縛された瞬間やその姿は一向に心に浮かばない」「私たちはこんな小屋にいますが、いつまでも安全な気がする」と、書簡に認め、緊張の弛緩がみられ始める。ある日を境に、隠れている小屋のごく近辺を日中にふらつくようになるが、ふとした時、林一つを隔てた近さにある丘に、自分たちを見ている二つの人影に気がつく。後から分かるのだが、それは他所の村の者で、キチジローから二人の司祭の存在を教えられ、トモギまでやってきたのだ。他の村にもキリシタンがいると分かったロドリゴは、ガルペと分かれ、オオドマリの村のある五島へ向かう決心をする。トモギと同じく司祭の居なかったその村では、ロドリゴは大変に必要とされ、自身も「自分が有用だという悦びの感情」をもつ。ポルトガルを離れ、異国の地で司祭として必要とされていることがうれしいのである。

Ⅳ。雲行きは次第にあやしくなり始める。トモギに役人の探索が入ったのである。柔和な話し口だが抜け目のない、老齢な武士は村民の中から三人ほど長崎に出頭することを命じる。この出頭の名目は、”村に切支丹はいない”と主張する村民の言い分を上司に掛け合うためだと武士は言うが、この出頭は暗に取調べや拷問が待ち受けていることを示していた。結局はトモギ村民のイチゾウとモキチ、よそ者であるキチジローが選ばれる。

「パードレ、わしらは踏絵基督ば踏まさるとです」モキチはうつむいて自分自身に言いきかせるように呟きました。「足ばかけんやったら、わしらだけじゃなく、村の衆みんなが同じ取調べば受けんならんごとなる。ああ、わしら、どげんしたらよかとだ」(中略)
「踏んでもいい、踏んでもいい」
そう叫んだあと、私は自分が司祭として口に出してはならぬことを言ったことに気がつきました。ガルペが咎めるように私を見つめていました。

p.81-82

憐憫の情からとは言え、「踏んでもいい」と司祭が言ってしまうということは、重要な意味を持つだろう。そして、

「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」

p.82

というキチジローの涙の呟きは、これまでの物語の流れを大きく揺さぶり、”神が与える試煉”の無慈悲さを印象づける。
出頭した三人は二日の勾留の末、取調べを受け、そこで踏絵を踏み唾をかけ聖像を罵倒するよう命じられる。臆病なキチジローは即座にそれをやってのけたが、イチゾウとモキチは、ついぞキリシタンであることを隠し通せなかった。キチジローは放逐され、イチゾウとモキチは市中引き回しの末、トモギの海岸にて磔に処される。水磔ではすぐに命を落とすことはない。少しずつ生きる体力を奪われ、精神的にも疲弊していき、消えるように死んでいくのである。死の際にいてモキチは、

参ろうや、参ろうや
パライソ(天国)の寺に参ろうや
パライソの寺とは申すれど……
遠い寺とは申すれど

p.89-90

と途切れ途切れに唄う。それは時を経るごとに、段々とうめき声に変わっていき、果てに二人は殉教したのである。ロドリゴは信徒の殉教、自らが思い描いていた”赫かしい殉教”の現実を突きつけられる。
役人によって殉教者の遺体は海岸で焼かれ、その灰は海に流され、後には何も残されない。

…ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を嚙んでいることが耐えられぬのです。この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を――神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、黙っていられるような気がして……。

p.93

「神の沈黙」。これが本作の主題である。ここで、以下のことを指摘しておきたい。
ⅠとⅡの章では、ロドリゴの書簡は「主の平安。基督の栄光。」という文言で始められるのだが、Ⅲ、Ⅳではそれが無くなっている。日本におけるキリシタンたちの現実を目の当たりにしたロドリゴの中で、確実に、”神”という像が変革し始めている証左であろう。

以上、⑵に続く。


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