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小説『エミリーキャット』第63章・Clowns crown

年が明け2月を迎えたその日に、エミリーは突然学校をさぼって丘の上総合病院前へ飛んできた。
『おじさん!ケンおじさん!』
エミリーが如何にも昭和らしい赤いランドセルをカタカタ音を立てて背負い、そうケンイチに呼び掛けながら息急き切ってアスファルトの急峻な路面を駆け登ってくるのを老人は内心ひやりとする想いで見た。
『おやおやエミリーちゃん、
久しぶりだね、
こんな時間にどうしたんだい?』
とケンイチは言うと一応辺りを見渡した。

最近、病院前の警備員として立つケンイチに何故か小学生の少女が頻繁に逢いにくる、という噂がケンイチの警備会社仲間の間でも持ちきりとなっていた。
家族のないケンイチに何故小学生が逢いにやってくるのか?
しかもその小学生は英国との混血児で単に背が高いだけではなく、そのぎこちない独特の歩様は何やら遠目にはさながら、脚の悪い仔馬が心持ち跛行し、それを気に病み、辺りを睥睨(へいげい)しつつ慣れない馬場を怯々とギャロップするかのような雰囲気があった。
おまけに子供の癖に年がら年中まるでサングラスのような淡い色入りの奇妙に光る眼鏡をかけており、
濃い黒髪に近いブルーネットの髪は肩よりやや下まで緩やかで大きな波に揺らぎ、時に使用人に巻いてもらうという強いカールが軽く走る彼女の肩の上で優美に弾む時もあった。
白磁の肌同様ともすれば少女らしからぬ奇妙で武骨な様子があるエミリーにそれらは気品という佇まいを少なからずな救いのように与えているように人々からは見えた。
つまり彼女は誰から見ても半分、白人の美少女などというのでは決してなかった。
裕福なだけではなくその時代に置いては稀有なほど育ちのよい少女であることは確かではあったが、風変わりで場面によっては救い難いような、馬鹿馬鹿しくて見るに耐えないような、稚拙で矮小で、信じがたく程度が低く見え、
それでいて時に感嘆と賞賛のため息が出るように感じられることも稀にあり、その為に“こんな感じの少女”と分類するのが難儀な少女でもあった。
そしてそれらは恐らくは本人の希望するしないに関わらず、
どこに居てもどこか不気味なまでに底光りする異彩を発してしまうこともあり、遠くからでも貴女だとすぐに解るわといつも云われる雰囲気を放ってしまう為、彼女は最初そのことを芯から厭うた。
少女時代、空気中に溶け込むようにさりげなく街中を歩きたいとエミリーはよく思っていたが、どこにいても異様に悪目立ちすると老若男女から言われ、彼女はやがて大人になるに従ってそれを諦め、その願いを放棄した。
それはどうしようもないことなのだ、とエミリーは思った。
よいも悪いも無いのかもしれない、自分にとって好ましくはなくともそれは烙印されたもののように変えがたいものとしてあるのであればそれは今後生きていく上で受容せざるを得ないことなのだ。
受容したのち彼女は自分でも気づいたがまるで生きたまま壁にピンで展翅(てんし)された蝶を見るように他者からは時に痛々しげに自分という人間は見られたり、気持ち悪いと感じられたりすることもあり、エミリーはそのような”声”を子供達から聴くにつけ『どうして?』
という想いに追い詰められ、
時にそれが解っている積もりでもそう知って深く傷ついた。
そしてますます”存在“することへの怖れをつのらせていった。
だがその『どうして?』という問いに更なる『でも何故そのことがそんなに良くないことなのだろう?』という疑問も隠されていることもまた事実なのだが、その事実を口に出すことは果てしなく子供の世界ですらまるで大人のように憚(はばか)られた。

”私はフツウではない、
それも一種類ではなく何故だかいろんな目には見えない“ナニカ”が張り巡らされていて、それが私の中で錯綜して混線して、
だから苦しいのに…
かといって、この世の中にその苦しみを和らげる為の説明書なんてありはしない、
仮にそれが出来上がる時代が来たとしてもそんな教科書がそんな複雑な人間の一人一人の苦しみに果たしてぴったりと当てはまったりするのかしら?
でも周りの子供達や大人達は私を遠巻きになんとなくどこか奇異な病巣のように感じてあまり近寄りたがっていないことだけは確かだわ、
理解出来ないものに人は近づけないものだもの、
私がピアノを弾くのがいくら好きでも音符が読めないからヒアリングでしかピアノを弾かなくなってしまったように、
私の周りには以前はあったバイエルもツェルニーももう一切無いように、私が音符に近づかないのと似ているわ、
そうよ、そして私も防水加工された布の上を彷徨う水滴のように楽譜というものからとても幼いうちに弾かれた。
そしてその音符という魅惑の世界の奥へ浸透することを赦されなかったんだわ、
人の世界も同じだった、
みんなの中へ私は入ろうと努めるたび大きく弾かれる、
でもどうして人は”異(ちが)う“と弾かれるのだろう?
何故異うことがこうも駄目なのか?”

そう疑問に思っても思っても、
その問いへの答えは見つからず、ただ追い詰められたように浮かぶ答えにもならない気持ちはいつも存在することへの言うにやまれぬ恐怖と居たたまれぬ不安感だけ終わるに過ぎないことをエミリーは知っていた。
それは風に抗い、吹きすさぶように彼女の中で泣き叫ぶ。

“どうして私はここに居るの?
何故?いったい私はどこからどうやって来たの?
どこへ行くというの?
私はただ、ここに存在するだけで既に余裕なんてもう無いのに、
ぎりぎり精一杯なのに、
毎日目覚めて涙するのに、
今日もまた一日生きなくちゃならない、こんなにも怖いのに?
こんなに、こんなに、こんなに、解らぬのに?
こんなにこんなにこんなに不安なのに?
そして彼女は常に確信するのだった。
“でもそれらは隠さなければならない、微笑みは悲しみに強く強く裏打ちされ、
不安はその仮面を堅牢にするだけだから、生活の中では常にひた隠しにせねばならないのだ、
すべては徒労となるのだがそれは微笑みの下に常に隠さねばならない、でもそれはいつまでもつというのだろう?
旧いダムのように疲弊に壊れてしまわぬよう毎日を繕いつつ、宙(そら)へ腕を延ばしながら生きているというのに…”
そんなエミリーは空恐ろしさを抑えて微笑んだり、冷や汗を手のひらに握りしめて幼い日々を過ごしていたが、それを全く知らずに隣で見つめる少女達や大人達はそんな彼女の過敏さにいかにも奇異の眼を放った。
そしてエミリーは恐怖感と冷静さとの狭間からそれをただ凝視していた。

紋白蝶の中で一種類だけ外国種の蛾が混じっているようにエミリーは見掛けの異様さだけではなく歩様に連れて放たれるオーラの為にどこにいても遠くからでも貴女だとすぐに解るわといつも云われるのが厭でならなかったが、やがて年齢を重ねるに従ってやがてそれを諦めた傷痕にも似た雰囲気とも云えぬ雰囲気の向こうから人々を羨望の眼でひたすらに見ていた。それが人生だと早くから気づいていたからだった。


同時にエミリーはどんな色や匂い音、を他人から感じたり見えたりしても、それを度外視するよう自分の心の訓練を自らに課した。
やがては馴れてもいったが麻痺するまでにはどうしても至らなかった。

そのあまりに傷つけられる以前の彼女の根底に宿っていた無垢や献身や絶え間無く人々に向けられる信頼と比例するかのように。


”昨年時折、病院の真向かいにある草地に覆われた丘に並列するほとんど廃屋化し、壊れたマンションやその敷地内へと老人は少女と入り込み、向かい合って音楽を鳴らしながら踊ったり、抱き合ったり奇妙で、同時に不適切な関係にあるようだ、“とふたりの関係に対して悪意ある揣摩憶測を交わす言葉が今年になってから急に病院内で聴かれるようになったのは、マンションの数少ない住人達の一部がどうやらふたりの姿を見た上での発言が発端であるらしかった。
クリスマスイヴには少女をケンイチがそのマンションの公園にある遊具の中へと誘い込み、しばらくふたりは出てこなかった。

そんな話が病院で囁かれ、更にはケンイチの勤める警備会社にまでまるで飛び火するような感染力を見せた。
『遊具の中であの老人はまだ小学生の少女に一体何をしたというのだろう?』
というその類いの想像力に置いてのみたくましいような噂へと
その噂は独り歩きをし、やがて三度の飯より噂することのほうが大好きな、さながら性欲に近く噂や陰口を叩き、そしてそれを押し進め、拡げることに快楽を覚える為、どんどん勝手で無責任な“噂”という名の病的な尾ひれがあること無いこと続々とその噂は成長しついていった。

『どうやらあの少女はあの老人の恋人らしい』

『恋人なんかではない、
愛人なのだ、
可愛そうに老人は知的遅延した少女を自分の慰みもの、つまりは性具にしているのだ、
小児性愛者やロリコンの身の毛もよだつ世界を少女はよく理解出来ぬままされるがままになっているのであろう、
たがこのままではいけない、
あのおぞましい魔の手から青少年を守らなくては』
『しかしながらもはや手遅れかもしれぬ、何故なら少女は実は妊娠し、一度ケンイチが堕ろさせているらしい、
少女はその為に一年留年したということだ』
『少女の英国人の父親はことの顛末を知って怒り狂い、病院のオーナーと警備会社とに怒鳴り込み、ケンイチはそのせいでもうすぐクビになるらしい』
どの噂もケンイチは果てしなく暗黒で同時にどの噂もひとつ残らず出鱈目だった。
しかしケンイチは何も言い返さなかった。

エミリーを守りたかったからだ。

抗弁すればエミリーが今度はいろいろと問い詰められることになるだろう。
ただでさえ傷つきやすいエミリーが怯えながらも必死でケンイチを庇うために並々ならぬ労力を使うことは目に見えていた。
ケンイチはそんなことをエミリーにさせたくはなかった。
ただでさえ苦労の多い彼女に自分のために気骨を折らせ、
涙を流させるようなことはあってはならない、
そんなことになるくらいならば…
とケンイチは思った。
私が黙って辞めたらよいだけだ。

『けんちゃん、けんちゃん!』
この頃エミリーは馴れ馴れしくケンイチを名前でまるで同世代の友達のように呼ぶこともあった。
おじさんと呼んだり時にはけんちゃんと呼び掛けたりケンイチさんと言うこともあった。
エミリーにとってケンイチは彼女の孤独なこの世界に無くてはならない必要不可欠な存在で、初めて出来た大人の親友だった。

『けんちゃん、
もうマーガレットがそろそろ咲いてるかなと思って私しんどくて何言ってるのか全然解らない授業を抜け出してまたここへ来ちゃったの、ねえマーガレットもう咲いているかしら?
けんちゃんは見た?』
『もう2月になったからね、
そうだね、何言ってるのか全然解らない授業をちんぷんかんぷんなまま受け続けるなんて見知らぬ人のお通夜にずっと座ってないといけないようなものだ、
だったら授業を抜け出して、
マーガレットが咲いているかどうか確かめにここへ来るほうが人としてずっと賢明かもしれないよ?
エミリーちゃん、
あの花はまだ寒い頃に咲き始めるから…

でもまだ2月になって間がないしこの頃僕はここで立ってることより駐車場での交通係が多いんだ、何しろ冷えるから傍の小さなプレハブ小屋にこもってね、
交通係たって小屋に閉じこもりっきりさ、
ポータブルテレビで他になんにもやってないから昼間っから助平でつまらないメロドラマを見たり、
ストーブで足元だけをあっためながら美味しくもない自分で作った冷たいお弁当モソモソ食べてるからね、
最近じゃあの幽霊マンションの建つ丘へは行ってないんだ、
何しろ寒いだろう?
エミリーちゃんはこの頃来なくなっていたから心配していたんだが…そうか授業をさぼるくらいのやる気があるならまぁ…
大丈夫なのかな?』
『そんなにやる気は無いのよ、
また疲れ過ぎちゃっただけ…
頭と身体中が痛くて熱が出て、
全身湿布まみれになってバファリン飲んで1日中うんうん唸っている日がお正月明けから一月中ずっと続いていたの、
私、子供だけどそんな風にして時々お年寄りになっちゃうから不思議だってよく佳容ちゃんやサブちゃんが言っているわ、
でもそんな時もロイやロージィがずっとベッドで傍に居てくれるのよ、特にロイはそう、
だけどあんまり辛くてうんうん唸り過ぎるとうるさくて一緒に寝られないらしくてロイもロージィと一緒にどっか行っちゃうけど…
そういうとこは猫よね、
でも私、ロイのそういうとこも大好きなんだ、それってね、
決して冷たいわけじゃないのよ、そっとしといてくれる時をよく知っているのよ猫ってね、
そういうの“つかず離れず”って云うんですって、猫はそこが心地好いのよって佳容ちゃんが言っていたけど、私もそう思うわ』

『ロイはいつもエミリーちゃんの大切な弟ぶんだもんね、
いや兄貴かな?つかず離れずなら大人だもんね、
でも熱まで出てたとはもう今は大丈夫なの?
走ったりしていいのかい?
ああ、そうだおじさんに年賀状をありがとうね、病院宛てに送ってくれたんだね』
『うん、そのほうが目立つしおじさんにより喜ばれるかな?って思ったの、
身体はもうすっかり平気、
熱が出たりしたのはね、
いろんな経験や出来事やそれについて回るいろんな人達からの色や匂いや様々なアルファウェーヴみたいなものを吸収し切れなかっただけ、
吸収し切れなくって、残った余りはね、身体に時々そうやって障(さわ)るっていうか、
とても辛い形になって現れるの、
もう馴れてるって云いたいけど、いつまでたってもきっと馴れるなんてこと無いのかも…。
だってこんなヘヴィーなことは他には無いわ…』
不思議な少女だとケンイチはしみじみ思った。
彼女の言っていることが満更、
孤独で感じやすい子供の虚言症などではないことはケンイチは偶発する経験上知っていた。
エミリーはよく見透かすような淋しげな瞳をして『おじさんはそう言っているけど本当に思っていることは全然違うことね、
おじさんは今こう思ったわ』
とかなり具体的に踏み込んでギョッとするほど言い当てられ、ケンイチは少女の前で居たたまれぬほど深い羞恥に囚われたことがあった。
彼はエミリーに対して鈍い恐怖と言い知れぬ不安を感じ言葉の継ぎ歩に芯から困惑し、震えて見える宙を心許なく見つめた。
それはまるで自分が70代とは思えないような心境であった。

だが顔色を変え狼狽える老人を前に老人以上に顔色を変えたのはむしろエミリーのほうだった。
しきりに詫びて今度から色を読まないように気をつけると懸命に赦しを乞う少女を、彼は次の瞬間痛いほど哀れに思った。
こんな子供はさだめし誰からも愛されないであろう、
愛しているつもりでもそれはとても難しいのかもしれない。
だが、難しいからといってこの子にその罪はあるのだろうか?
”生まれてこなければよかったのに、堕ろせばよかった”
と日常的に一番愛されたい母から言われながらその顔色を伺いつつ過ごす日々に息切れを感じるエミリーが、ただでさえ母親の傍に置いてその息をすることすら震えるほど気骨を遣い、途方も無く苦しむほどの鋭敏であるというのはなんと言う生まれながらの残酷であろう。
なんと言う子供の悲劇であろう?そしてその状態をもし、さして変わらないまま大人にならねばならないのだとしたらばなんと言う人間の運命なのだろう?

男が声変わりをし、女に月のものが訪れるようにそれが運命と呼ぶに相応しいか解らぬほど世間では至極当然とされているもののようにエミリーはごく幼少期から人々の言葉には一々色があり、
その色にはどうやら意味があることをようやく彼女は十代に差し掛かるようになってから感づくようになった。
それ以外の音や様々な色へ恐怖感などは無いままでも人々の悪意や策意、善良さの内に隠された無自覚にある嗜虐性さえ時に望みもしない毒を味わうように感じてしまう。
そして彼女はそのことに怯え、
またそのようなことが他の子供や大人達には無いことを知って深く傷ついてもいる。

僕はそんなエミリーに一体何をしてあげられるというのだろう?

『去年は野生のマーガレットが咲いているのを見損ねてしまったからとても残念で…
今年は咲いているかしら?』
『そうか、そうだね去年は何故だかマーガレットは不作の年であの丘に全然咲かなかったからね、
あんな年は初めてだが…それで今年はマーガレットが咲いているか見に来たんだね?』
『ええ、だってけんちゃん、
初めて私と逢った時こう言ったのよ、あの丘に』
と病院前の丘を指差すとエミリーは言った。
『野生のマーガレットが茫々と咲くんだよって』
『そうだったね』
『でも私、それをまだ見てないわ、どうしてもその野生のマーガレットが丘の上一面に咲いているのを見てみたくって』
『そうだね、僕もだよ、僕も…』
とケンイチは深々と頷いた。
人生を賭(と)すほどの頷き方だとケンイチは思って頷いた。
『僕もエミリーちゃんとマーガレットが丘の上一面に咲いて揺れているのを見たいよ、本当に綺麗なんだよ』
『うん!きっと今日見れるわよね?』
『……そうだね、きっと…
マーガレットは咲いているだろう』ふたりは病院前の丘に刻まれた階(きざはし)を登って行った。
その簡素な階は階の角に太い横木が渡してあるものの、実はもう立ち入り禁止とされているものであった。

一年で一番寒い季節にマーガレットの群れ咲くその丘に聳え立ち、広い敷地を殺伐とまるで無人の街のように拡げ、その敷地内をさながら鏡像のように奥まって林立するマンション郡はかつてたくさんの家庭の灯りが点っていたが、今やたった一棟だけに何故だか未だ3家族だけ互いに口もきかない赤の他人同士が蝟集するようにひっそりと住んでいる以外のほとんどのマンション群は廃屋と化していた。
その為その街ではそこは街外れの丘の上であるにも関わらず、何故だか陸の上とは思えない異空間じみた風情が漂う為に”無人島マンション"だの”幽霊アパート"だのと渾名され、僅かにわけありの如く数家族が一棟だけに棲んでいる事実がかえって信じられないことのように人々からは思われ、噂され、より一層気味悪がられ、遠ざけられていた。

ケンイチはそこへエミリーが現れるまでは独りでこっそり弁当を持って入り、失われた少年時代を取り戻したような気分になったりしていたものだった。

人々が気味悪がるあまり、無人のそのマンションの敷地内は広々と自由で、昼間は僅かに居る家族も勤めに出ていると見えて、どの棟の窓もカーテンすら無く厳しいほどの青空を映した鏡のような窓硝子はどこか虚ろに森閑(しんかん)とし切っていた。
しかし彼にはそのかえって音を感じそうなまでの静けさは普通人々には不安を起こさせるはずなのに彼には何故か安堵を感じさせた。
ここでやっと独りになれる、と彼は思った。
もともと独りだが本当に独りの時間を過ごし、人目を気にせず空や風をのびのびと感じることがここでは赦されるのだ、とケンイチは無人島の幽霊マンションを見つけた時、むしろ胸のつかえが降りたような嬉しさを感じた。
しかしそんな気分に浸りたくともとどのつまりはそう易々とは出来ないことを彼はその空間に身を置いてさえ痛感することとなった。老いた身の自分という現実をそんな時ですら否応無くひしひしと感じてしまうケンイチはいくら“ここは私だけの秘密基地なんだ、
私の心の中だけで思っていることなんだから誰に遠慮も要らぬ、
私の抜け落ちたように無かった少年時代から青年時代“にかけてをこんなささやかな形で取り戻したかのような錯覚を夢見たからといってなんにも罰当たりなことなんかじゃないさ、
取り戻したくとも取り戻せやしない、
本当はそんなこと百も承知だ、
だが、いいじゃないか、
勘違いを勘違いと知っててしたい時も大人にはある、
悲しくともある、
何故ならその勘違いが私の人生には少しは必要なんだ、
でないとずっとまともで余生も生きろなどあまりに惨(むご)くはないだろうか?“

そう思いながらシベリア帰りのもと将校のケンイチは茄子の形の遊具の中へ四つん這いになって這入りながら自分の中に癒えない生々しい傷のように居座る幼児性とふいに薄闇の中で出逢ったような気がして躊躇したが、その幼児はあくまでも対象を持たない空虚な存在のままで終わると思っていた。
それでいいと思っていた。
そんなものなのだと思っていた。
エミリーが現れるまでは…。

このどうしようもなく孤独な片方しか眼の見えない半分異国の血を引く少女が現れるまではケンイチの人生は諦観に満ちてはいるものの、鎮かで平板でつまらなく、
だが同時に果てしなく平和であった。

それまでの彼の生活はたとえその日暮らしでも怖れるものは何も無いような気が彼にはしていた。
それは…と彼はマンションの廃屋郡の聳え立つ丘に向かう階をエミリーと手を繋いで登りながらケンイチは思った。

“失うものが何も無い人生“だったからからなんだ…”
エミリーが自分の手を握って微笑み返す信頼の笑みを見て彼は思った。
“でも今は違う、
今はエミリーちゃん、
君のその笑顔を失いたくない、”

ケンイチはそう思ってふと手を繋いだまま階を登り切って病院の前をふり返った。
病院の前では三名、医療事務や警備員の者を取り混ぜて人が立っており、それはまるでロボットのように見えた。
それはケンイチとエミリーを遠目に見つめて何かを互いに話し合い明らかに眉をひそめるようにしているのが見てとれた。

ケンイチの視線を辿るようにしてその先の人間像を見て取ったエミリーはケンイチに、
『あの人達…どうしたの?』
『なんでもないんだ』
『…でも不安になるような色が立ち込めているわ、
こんなに離れていても解る…
見ていて辛くなる』

『見なくていいんだ、
エミリーちゃん、もう見なくていいんだ、』
『ケンちゃん』
『さあ行こう、マーガレット、
咲いているといいね』
『…うん…』
『エミリーちゃん…もしマーガレットが咲いていたらおじさんエミリーちゃんに少し話したいことがあるんだ』
『話したいこと?』
エミリーは不安な顔になった。
『うん…ミヒャエルのことだよ、
僕らは戦後東京で再会したといっただろう?』
それを聴いてエミリーの顔は安堵と希望的観測とに輝いた。
『ミヒャエルの話なら聞きたいわ、どうして逢ったのかずっと不思議だったの、』
『……』
ケンイチは人生を徒して深く頷くと病院の前に屯(たむろ)する不穏な三角波を立ててその表面にただならぬものを漂わせながら行きつ戻りつぎくしゃくとしてさながらパントマイムのように見える輩達を背に、エミリーと並びやがてふたりは“マーガレットの丘”へと消えていった。

『あっこれ?マーガレットじゃない?やっぱりもう咲き始めているのね、嬉しいわ見て、
こんなに寒いから野生でも虫も付いていない』
マーガレットはふたりが丘を昇る既に道半ばから咲き始めていた。
『捻ね媚びたみたいな咲きかたをしていてまるでシベリアの春に見たあの醜い花のようだ』
『そんなことないわ、
綺麗じゃない、
野生の花らしくて素敵よ』
『シベリアの花もシベリアで見た時は美しく見えたものさ、
あの寒い凍てついた中に咲く名の知れぬ花だからこそ意地らしくて可憐に見えたんだ、
それこそ日本に咲く小菊や野菊に重ねて見る思いがしたよ、
でも今思えば…
あのシベリアの花はあの花でしかなく自分がどんなに辛かったからといっても日本の可憐な花と重ねて見たりしてはいけなかったんだ、
あの花はあの花でしかなくあの花は他の花とは違う、
日本の可憐な花とは違う、
いかにも逆境に人からは見える場でしか咲けない花だってあるのかもしれないからね、』

『そんな花は幸せなのかしら…』『幸せかどうかは解らない…
でも…』
沈黙がしばらく続き、エミリーは問うた。
『でも?』
『でも生きているんだ、
それは僕やエミリーちゃんや花も同じさ、苦しくともそれをやめることは出来ない』
『苦しいね』
とエミリーが眼鏡越しにもそうと解る眦(まなじり)に泪を微かに光らせて言った。
青年の気持ちになった老人はその青い心の宿ったシミの浮いた醜い手を少女の小さな頭に乗せると深いため息のような声でこう言った。『苦しいね…
でもその苦しみを分かち合うことが出来るとしたらそう酷いもんじゃないさ、その苦しみの果てに、もしかしたら何か…
何かが待っているかもしれないよ?』
『何かって何?』
『さあなんだろうね…
おじさん、
この歳になっても未だにそれが一体なんなのか全く解らないんだ』
そう言ってふたりが立った丘の上はさながらゴルゴダの丘の上のような気がケンイチにはした。

もうこれが最期だ
とケンイチは思った。
エミリーにはもう逢えない。

だがきっと今から話すことは、
エミリーの中にきっと何かを生かすだろう、
そう思いたい自分が居た。
そう思わなくてはあまりにも惨めな結末に終わる自分が待っていることをケンイチは痛いほど知悉していた。
自分を今から磔刑に処される基督に喩えて慰めるなどとは、なんと年甲斐も無く無恥で荒唐無稽で、しかも少年趣味であることだろう。
だが構わないではないか、
人間なんかみんな荒唐無稽でないものなど一人も居ない。
しかも心の中はたとえ老人でも恥ずかしいほど若くて未熟なのだ。
その未熟さをもて余すあまり威厳や虚勢や支配やマウントじみた行為、また正論をハンマーのようにふりかざしては、他人の頭上へ振り下ろす”愛ある者“も大勢居るのではないか?
その多くがいろんな形で”先生”などと恥ずかしくも呼ばれているのだ。

そんな者達が一見、仲睦まじく社交の場としているのがこの世界なのだから狂っていないほうが可笑しいというよりは、この世界に身を置いていて、些かでも狂わないほうが正気ではないかのような気がケンイチにはすることがあった。
戦争中も人は狂っていたが、平和と呼ばれる時代になっても尚、
やっぱり人はなんと一見穏やかに生きているように見えてその仮面の下、なんと残酷で狂った本性は少しも変わらぬ生き物なのであろう。
そして紛れもなく自分もその生き物なのだ。
犬や猫のほうがよほど高貴だと思いながらも自分とてまごうことなくその人間の一人なのだ。
人間は戦争をし、罪の無い弱いものに戦禍の吐露を雷(かみなり)のような激しい嘔吐にも似てぶつける。日本人はロシアの長閑(のどか)な村を襲い、次々と女を犯し、
おまけにその子供達を殺した。
そして日露戦争ののちソ連兵からその復讐を我々が受けた。
果てしの無いリンチの連鎖は人間の証しかもしれない。
ケンイチはエミリーからは見えないように樹皮のような節瘤(ふしこぶ)だらけの渇いた拳をそっと握りしめた。

しかし話す時間は限られている。
彼は思った。
自分は日記を書くような人間ではなかった。
だが…エミリーに伝えたかった。
それらは彼女に何をどう伝わり、そして彼女の人生に僅かながら活きてくれるだろう?
そう思うのは私の奢りでしかないのだろうか?

ふたりの前に開けた丘の斜面は果てしなく下方に向かい裾拡がりにマーガレットの群生の深々とした絨毯に覆い尽くされエミリーは悦びの悲鳴を上げた。
『凄いわ!醜い花でいっぱい!
なんて美しいの!?』
エミリーはやや芝居がかってそう言うとケンイチを見つめ上げ、
少しだけ肩をすくめると意味深に微笑んで見せた。

ケンイチは思わず自分の今の苦渋に満ちた立場を忘れて笑うとエミリーの頬に手のひらを押し当てた。この風変わりな少女から私は一体なんとたくさんのことを教わったことだろう?
この少女と出逢わなかったら…
私はミヒャエルから与えられた私の中の大切にしていたものを一生とうとう微塵すらも活かすことなく全くの無駄に終わっていたかもしれないんだ、
『エミリーちゃん…今日はもう病院の前へは帰らなくていいからふたりでずっとここでお話しよう、』『本当?嬉しい!』
『おじさんも嬉しいよ、』
『ミヒャエルの話聴かせて』
『ああ、だがね、
その前に、ミヒャエルの話につながる大切な話をしなくてはならないんだ、
それをしないとミヒャエルへと話がおじさんは上手に橋渡しが出来なくてね』
『いいわ、話して、戦争の話ね?』
『うん、ごめんよエミリーちゃん、また戦争の話だ』
『いいのよ、謝ったりしないで、けんちゃんには申し訳無いんだけど私、シベリアの話を聴くのは楽しいの』
『そうかい、それならよかった』とケンイチは朗らかに努めて言った。『おじさんとミヒャエルが始めて出逢ったのは実はシベリアでは無かったんだ。
バイカル湖という湖畔でが初めてだった』
『バイカル湖?』
『そうおじさんが日本刀をロシア兵に奪われるより前に棄てた冷たい氷のような湖の名前だよ』
実際のところバイカル湖はロシアの真珠と呼ばれるほど稀有で美しく巨大な湖ではあったものの、
それは心身共に余裕のある避暑で見ると神に創られ地上に据え置かれた巨大な真珠かオパールのように見えたのかも知れぬが捕虜として収容所へ強制連行される道行きに置いて彼の目にはそれは神の真珠でもなければ宝石でもなかった。

『湖…解った、
今度こそドイツのでしょう?』
『エミリーちゃんはよほどドイツの美しい湖にしてしまいたいんだな』
『ごめんなさい私ったら、
戦争中のことなのに』
『なに、そこが君のいいところさ、君の中にはいつもなんだか突き抜けたファンタジーがある、』エミリーが安堵して微笑むと
『バイカル湖はね、そういえばドイツっぽい響きと日本人は感じなくもないが実はがっかり、
ロシアの湖なんだ、』
とケンイチがおどけて笑うとエミリーも笑って『そんなこと言ったらロシアの人に悪いわ、
ロシアだって本当はとても綺麗なところもたくさんある国のはずよ』
『エミリーちゃんは優しいんだね』
『違うわ、
ケンイチさんのような目に遭っていないだけよ、
もし私がケンイチさんならきっとそんな風にはとても思えないし言えないと思う』
ケンイチは驚いて少女を見たが、
時に酷く子供でと同時に老成を感じさせる少女は一体そうなるまでにどれだけの母親からの折檻に耐え、名も無きあのシベリアの花のように固く震え庇うものもおらず、人知れず咲くように笑って今日まで忍んで来たのだろう。
その笑顔が傷ついた年月に固く凍りついた世間への擬態でしかないことを人々は気づくことはあるのだろうか?
ケンイチは大きく息を吸い込み、そして語り始めた。
『…あの湖の奥深く日本刀がゆっくりと沈んでゆくのがおじさんには何故だか手に取るようによく見えた…先など見えぬほど濁った鉛色に凍てついた薄氷(うすらい)と薄氷の重なったそのシャーベット状の割れ目へと橋のたもとから投げ込んだ刀の行く手など見通せるはずが無いのに…
おじさんにはそれがゆっくりとではあったが、確実にまるでどこかへ行き着くように落ちてゆくのが見えるように感じたんだ』
『……』
『その時、何故か強い人間の視線を感じた…』
『…ミヒャエルね?』
ケンイチは頷いた。
『少し離れたところにドイツ兵の連体が居た、
イタリア兵も居たがね、
誰も私のそんな所業に目をくれるものなど居なかった、
そんな余裕など誰も無かったからだ、みんな国へ、帰れると思い込んでいたのにどうもおかしいと気づき始めてざわめき始めたのがちょうどバイカル湖に到着前後辺りだった…
だがね将校の私は知っていたんだ、ロシア兵、つまりその頃既にソ連兵と名前は変わっていたが、僕らの間じゃロシアと呼んだり、ソ連と呼んだり正直なところあの時代まちまちだった、
その連中から日本へは帰れない、
今から行くのはラーゲリと呼ばれる、つまり収容所だと』
『おじさんは教えられていたの?ラーゲリへ連れてゆかれるって?じゃあミヒャエルも?』
『多分そうだろうね、
将校はみんなかどうかは解らないが恐らく一部分の人間は教えられていたと思うよ、
あの灰色の瞳で彼らはこう言ったんだ、バイカル湖へ着くまで全員を誰も逃げ出さないよう統率しろとね、お前は仮初めにも将校だから俺たちは他の連中よりは守ってやれる、何かあればお前らは戦犯として審議に問われる身だからなと、そしてバイカル湖に着いたらその刀を我々に寄越せと』
『どうして?どうしてそんなものが欲しかったのかしら?』
『良質の鋼だからね、
溶かして何かに再利用するつもりだったのかもしれない、
あるいはただ単に好奇心で日本刀が欲しかっただけなのかもしれない、わたしが日本刀をバイカル湖へ棄てたことを聞いた人々はいかにも日本の魂で誇りである刀を奪われまいと湖へ棄ててきたのは誉むべきことだなんて云うよ、
だが本当のところそんな気持ちで僕は日本刀をバイカル湖へ棄てて来たんじゃないんだ。
単に意地悪な気持ちで棄てたんだよ、
それくらいしか僕には関の山で、他になんにも出来なかった。
精一杯の抵抗、
精一杯の意趣返し、
それが連中が楽しみにしていた日本刀を奪う機会を奪うことでしかなかった。
そんなちっぽけなことでしかなかった。
バイカル湖へ刀を棄てたことが解った時、ソ連兵が飛んで来て僕を殴った。
ロシア語で何かを叫んでね、
殴り倒された僕は寒さのあまり目から火花は出たものの痛みは麻痺して感じずに済んだ。
まだ神様の思し召しだと思ったよ、そう思いながら立ち上がろうとすると、ふと強い視線を感じたんだ。その視線の先を辿るようにして見た先に居たのがミヒャエルだった。

そしてそこにあったものは更に、もっと意外なものだったよ、
ミヒャエルは僕を見て、
ただ屈託無く笑っていたんだ。
おいおい、どうしようもないな、お前は、面白い奴だな、
やっちまったな?
あの眼はそう言っていたんだ。
まあそう言えばある意味、
シニックと言えなくも無いが僕はあの場に置いてそう感じなかった。
むしろ彼に笑われて救われたんだ

その時、彼は僕に向かって手を向けてまるでその手を掬い上げるようにして不思議なまるで僕を誘(いざな)うような動きをしたんだが、それを今はもう一体どう説明したらいいのか全くもって解らない、

ただあの瞬間、彼は僕に魔法をかけたとしか思えないんだ。

さあ立ち上がれ、だが普通に立ち上がるんじゃないぞ、
そんなことしたらお前はただの刀を棄ててロシア人から殴り倒されただけの惨めな日本兵になっちまう。

だってお前は将校なんだ。
将校は何も言っちゃいけないんだ、言いたいことは俺達だって人間だ、そりゃ山のようにあるさ、
だが俺達は人間じゃない、
人間は生きて帰れば恐らくはいろいろ訴えもするだろう、
それが出来るだろう、
だが、俺達は出来ない、
同じ兵士であって同じ兵士じゃないからだ、
他の兵士とは違うんだ、
解るだろう?その意味は、
だって俺達は条約で守られた立場だからな、“恵まれた”立場にあるんだから声なんか他の兵士のように上げてはならない、帰国したって他の兵士達と違って俺達は沈黙しか他に何も選べない。
他に何がある?
将校だった癖に、将校様々が何をぬかすか?と寄ってたかって叩かれるが落ちさ、叩かれはしないまでも白い眼で見られるだろうよ、
芸術にして表現する立場にすら無い俺達は帰国したらなんにも立場は無いんだよ、
あるのはもと将校という空疎なガラクタみたいな肩書きだけ、
お前が異国の湖へ棄てた刀と一緒で、日本へ持って帰ったところでそれは一体お前の生活に今後どう役に立つというのか?

だったら今…
普通に立ち上がるな、
せめて普通には立ち上がるなよ?見せてやれ、
お前の気概を、日本の将校の気概をさ、
お前にこの意味は解るよな?
俺達にしか解らないはずだ、
俺もお前も“たいへん恵まれた“将校殿なんだから”

…その目はそう言っていたんだ、
貨物列車のような狭い空間に兵士ばかりで錠をかけられ圧しひしがれつつ、それぞれのラーゲリへと送られる僕達は死ぬほど疲れ切っていて、乳牛のほうがまだ大切に移送されるんじゃないかっていうくらい鮨詰めの末の…
それは疲弊しきった僕の考え過ぎだったと思うかい?

彼からかかった魔法により僕は立ち上がったが、彼から送られたメッセージ通り僕はただ立ち上がったんじゃなかった。
立ち上がろうとして大きくまた無様に転んで、そしてまたみっともなく、それはそれはみっともなく立ち上がった。
そして”立ち上がったよ?”という風に僕は両手両足をバサッと大仰に開いて奇妙なポーズをまるでタップダンスのラストステップを踏むように造ると、そのことをドイツ兵達に向かって滑稽であることの教示をして見せるかのようにして立ち上がった。
それを見ていたドイツ兵達は皆、一斉に思わずどよめいた。
この時のことを僕は生涯忘れはしない、彼らはどよめいたように最初感じたのだが、それは一斉に僕を見て思わず笑いを立てたからなんだ。その為に張り詰めた空気中にその笑いの呼気がさざ波のように渡り、やがてそれは僕に向かって伝播した。
鳥肌が立ったよ、
あまりに幸せでね、
あの多幸感は恐らく死ぬまで僕を掴んで離さないだろう、

君にはもちろん解ると思うが彼らは僕を見て嘲笑ったわけではない、
悲惨で絶望的な状況の中、彼らを思わずそれを一瞬忘れさせてまで笑わせたのは望まずして将校なんかになったこの僕だったんだ、
僕は何故どうしてそうなったのか?全く解らないし何故そんなことをしたのかも今もって理解出来い、
バイカル湖の精霊が私という凡庸な青年に仕掛けた気紛れな悪戯だったのか?
魔王ミヒャエルの魅惑の魔法だったのか?
僕はまるでそれらの一瞬の力、
マリオネットのように硬い何かを弾くような痛ましい指つきで逆に大きくたわめ込まれたんだ。
まるでそれはハープを弾く奏者の指先のような感じで僕は気がつくと操られ、まるで舞台か、銀幕の上の喜劇王のように振る舞っていた。

次の瞬間、感動的なことが更に起きた、大きな渇いた音を立てて革の手袋越しにミヒャエルが僕に向かってどこか淡々と手を叩き始めたんだ。
するとドイツ兵達がそれに準ずるように皆一斉に手を叩き始め、
中にはブラボーと叫び、指笛を鳴らす者まで居た。
皆、湖畔の地面に座っていたが、一斉にドミノ倒しが逆に立ち上がってゆくかのようにドイツ兵達は続々と立ち上がっていった。
つまり彼らは僕に向かってなんとスタンディングオベーションをしてくれたんだ。

ミヒャエルの僕を見る碧い瞳は、きっと春に見るバイカル湖のように揺れ輝いていたんだと思うよ、
ミヒャエルもその部下達もロシア人達に制されて次々と殴り倒されていったが、それでもみんな氷の上で笑う者がほとんどだった。
麻痺して痛みを感じなかったからだ。
後で知ったことだがミヒャエルはドイツでは有名な人気者のサーカスのピエロだったという。

だがその時の僕はまだ何もまだ知らなかったのに笑いながら僕ら一人一人の頭上に見えざる蕀の王冠が在る、そう見えるような気がしたんだ。


そして蕀の冠なのにそれらは一人一人の上に輝いて日本人もドイツ人も恐らくはロシア人すらも関係無く皆一様に一人一人を導いているのだと…何故ならば人間は独り残らず生きている限り道化師だからなんだ。
宮廷のお抱え道化師か、
人気の無い貧乏道化師か、
違いはあれど道化には違いはない。

おじさんが自分の頭に食い込んで血を流しながらも尚も、輝きを放ち、その輝きで辺りを照らす、
行く手を照らす、その眼には見えない苦痛という名の冠の存在に気づいたのは…
ミヒャエルのお陰なんだ。
そういう意味ではおじさんにとって戦争は、紛れもなくおじさんの青春だった…
陰惨で苦しみに射貫かれた…
灰色で薔薇色の青春だった…
そこでおじさんはそれを得たんだ。眼には見えない”それ”をね…

ふたりは丘の上に膝を立てて座り、マーガレットの群れ咲くその丘の上からの中腹と斜面とが野生のマーガレットの群生に寒ざむしく揺れる様を眺め続けた。
だがケンイチはふたりの友情の終わりが近いことを知っていた。
そして持ってきた鞄の中にあるそれをしっかりと握りしめて思った。
しかし同時に若いエミリーの青春も、そして人生の真の幕開けをそのことによって自らが手伝う役割を担うのだと彼は心の奥で流す涙を足元に咲くマーガレットの花に匿(かくま)うように見た。
マーガレットはまるであの日のあの花のようにただ如月の冷たい風に縮こまるように咲き、
まるで針金のように固く振動するきりだった。

そしてその不穏に彩られた足音は背後にひたひたとまるで畳み掛けるように迫ってきた。


to be continued…

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