見出し画像

『怪物』 私を救った音を出したのは、私が憎む人かもしれない

前回悪ふざけが過ぎた気がしたので、しっかりめの感想を書いておきたくなった。総評ではなく特に印象に残った点のみ深堀りし、羅列します。(※ネタバレあり)

1. 遠くにぼやけて映るテレビ、近くでくっきり見えるテレビ

早織視点の第1章では、画面奥のリビングのテレビに映る、ドッキリを仕掛けられ驚くぺえの姿は誰か分からない程ぼやけている。それが3章の湊視点ではカメラはテレビに寄り、フォーカスがしっかりと合う。

湊のクラスでは友人の依里がドッキリと称したいじめの標的になっている。

早織にとっては性的マイノリティという存在も、ドッキリ=いじめられることも、遠い世界の、自分とは関係ないこと。ヘラヘラとぺえのリアクションのマネまでして、お気楽だ。
でも性的指向に悩み、友人の様にいじめられる不安を抱えている湊にとっては今直面していること。テレビに映るぺえの姿を他人事として笑えない。
その対比をこんな風にカメラ位置とピントの操作だけでさらりと表現するのはさすがだなと感嘆した。

2. 私を救った音を出したのは、私が憎む人かもしれない

人が自殺を踏みとどまる時

保利先生は休職に追い込まれ、学校の屋根の上へ向かう。屋根のふちで茫然と立ちすくみ、今にも自殺しそうな雰囲気だ。その時ホルンとトロンボーンの風変りな大きな音色が聞こえ、そちらにスッと意識を向ける。
ここでシーンは終わるけど、時系列を考えると、あのあと屋根のふちからは離れ、下りたことが分かる。

突然だけど、自分は若いころ自殺を考えたことが何度もある。自分だけの閉じた世界で負の感情が膨らみ、いよいよ行動に移そうとした時、玄関のチャイムが鳴ったことがあった。ハッと我に返り、小走りで玄関へ向かい、宅配便の受取サインを書きながら徐々に平静を取り戻していった覚えがある。

そういう、外界からまったく無文脈に自分の世界に割って入る暴力的な音に結果的に救われる、という経験が何度かあった。人が自殺を踏みとどまるきっかけには案外そういう「え、そんなことで?」というヘンなのもあるよな、という実感が自分にはある。

保利の行動が自殺衝動だとしたら、未遂に終わるきっかけとなったのはあの音色なんだろうと、自分の経験から思う。
自分のそれと大きく違うのは、保利の聞いた音は"人の感情そのもの"だったこと。心の叫び、それ以外の要素は何も無い音。このあとの保利の行動を思うと、未遂に終わるきっかけ以上の何かを受け取ったのかもしれない。

加害者が被害者を無自覚に救う、皮肉なリレー

ここで面白いのが、その音を出していたのは校長と湊だということ。保利にとってこの2人は自分を休職に追い込んだ、言わば"加害者"だ。
坂元脚本は、"私を救った音を出したのは、私が憎む人(敵対する人)かもしれない"という可能性、視点を提示する。

このシーンの少し前、湊は早織にとって最大の敵である校長によって救われる。校長が、登場する大人達の中で唯一、湊の痛みを和らげ背中を押してくれる大人になる。この映画で最も印象的で、美しいシーンだと思った。

でも自分には、それは結果論であって、湊の「嘘をついた」という発言に過剰に反応していたことからも、校長は単に湊に同じ"嘘つき"として同調しているだけに見えた。楽器で叫ぶこと、そしてあの言葉は、自分の痛みを和らげる為でもあった。
校長が湊に声を掛ける時、ベランダで同じ方を向き横並びだったのが印象的で、"彼らはこの空間に於いては同じ罪の意識を共有するフラットな関係性である"ことを示す演出なんだと思った。

校長が無自覚に湊を救い、その2人が意図せず保利を救う。加害者が被害者を救う、皮肉なリレーが展開される。

センス・オブ・ワンダー

皮肉ではあるけど、「そういうことってあるんじゃない?この世界ってそういう側面もあるんじゃない?あなたの敵はどんな時でも敵だと、言い切れるの?」と問いかけているように思えた。

自分はここに所謂"センス・オブ・ワンダー"を感じた。この世の神秘を垣間見たというか。この世界は自分が思うよりもっと複雑で不思議で面白いのかもしれない…そんな柔らかい想像力をいただけた気がする。

あの宅配のお兄さんは、ネットで「死ね」と言ってきたあの匿名アカウントかもしれない…。
"奇跡"と呼ぶにはあまりに些細な偶然の絡み合いの中で、私達は知らぬ間に誰かを救い、救われているんだろう。

3. 世界が閉じる関係性、広がる関係性

すごい作品だと思うし、好きな作品にもなった。老若男女が足を運ぶ"是枝映画"という公共性の高さを活用し、性的マイノリティを遠い世界のことだと思っているマジョリティにその苦悩を伝え考えてもらうという使命感、作品の意義にも同意する。

自分はゲイで、自覚したのは湊と同じく小学校高学年頃だ。その立場で思ったのは、湊と依里どちらも同性愛者にはしない方がよかったかな?ということ。
この2人の年頃、置かれた状況で同性愛として発展させると、他者を寄せ付けない、2人だけの閉じた世界になってしまう。森の奥の錆びた電車の中でこっそり愛を育む光景は、とても脆く、危うく見える。

それよりも「ノンケ(異性愛)男子とも理解し合える、性愛抜きで仲良くなれる」という希望を提示した方が、この年頃の同性愛者にとって世界はより解放され、広がると思った。湊を取り巻く人々はノンケが圧倒的に多いんだから。彼らとも理解し合えるかもしれないという希望が持てる。

依里みたいに趣味、嗜好などが若干フェミニンでゲイに見られがち、周囲から浮きがちなノンケ男子というのはわりと居る。例えばこういうお話ならどうか。
性的指向を自覚した湊は依里も同じだと勘違いし好きだと迫る、一度は拒否されるものの、互いによき理解者だと実感していき、親友になっていく。

こういうお話であれば、性的マイノリティの苦悩をきっちり描きつつも、"クィア映画"という色は薄まり、良いバランスになったと思う。浮きがちなノンケ男子の救いにもなったはずだ。
少なくとも小学5年生の子供にとっては、誰も寄りつかない森の奥で恋人を作ることよりも、この社会の中で幸福になれるという希望を持てることの方がよほど大切なことだと思う。

やっぱり"小学5年生の同性愛"となると今の時代ではまだまだインパクトがあり、そこばかり注目されてしまう。前の記事でも触れたけど、この映画が真に主題とするのはもっと大枠、「普遍的なディスコミュニケーション、人間が分かり合うことの難しさ」にあると思うので、"同性愛もの"としてだけ認識されてしまうのはもったいないと思った。

あくまで2023年現在、性的マイノリティを扱う作品に30代のゲイである自分が求めるものとしての率直な感想です。これが書かれたのは2018年頃だそうなので、時代性とのズレが生じるのは無理もないかなとも思う。ここ数年で性的マイノリティの状況と、フィクションに求められる性質はめまぐるしく変わっていったと思うので。

4. 作家2人が共有する"傷"

『怪物』のキービジュアルを見た時まず思い出したのが『万引き家族』への坂元さんの寄稿だ。坂元さんは是枝さんに向けてこんな妄想を膨らませていた。

劇中で父親が子供に犯罪をさせていることは、撮影現場で演出家が子役に過酷な場面を演じさせていることに近いものがあるんじゃないか。(中略)子供に万引きさせる男を描く時、もしかしたら子役に演技指導した時に残った傷のようなものが糧になったんじゃないか。自身の傷を開いてみたんじゃないか。

『万引き家族』パンフレット内コラム

坂元さんも子供が酷い目に遭うお話を沢山作られているから、ここで語られているものと同質の傷…子役への罪悪感みたいなものがあって、是枝さんにはある種"共犯者"としてのシンパシーを感じていたのかもしれない。

その2人が『怪物』というタイトルで子供がメインの作品を作るとなれば、"自身の傷を開いて"、その罪悪感みたいなものと真正面から向き合うこともテーマに据えるだろうと予想していた。是枝さんの真意は分からないけど、坂元さんはそのつもりで取り組むのだろうと。

こう考えると、劇中子供がどんな過ちを犯そうとも、やはり最後は"私欲の為に子供を傷つける大人達の罪"に着地せざるを得ない。大人に言い訳する逃げ道は残されないのだろう。

ひどい父親たち

実際作品を観ると、これまでの是枝作品と違い、父親というものに救いが一切無いことに気がついた。依里は父親に繰り返し虐待され、湊の父親は不倫相手と旅行中に事故死してしまう。他のキャラクターには与えられた"この人も被害者なんです、仕方ないんです"という様なエクスキューズは父親には一切なく、ただの加害者として突き放される。

今作の麦野家は、坂元ドラマ『Woman』の青柳家と設定が酷似している。早織も小春(満島ひかり)もスポーツ好きな夫を事故で失くし、クリーニング店で働くシングルマザーだ。大きく違うのは、『Woman』で事故死する夫、信(小栗旬)は最期まで善人であり、遺された母子の心の支えになっていたということ。この対比にも意味を見出したくなる。

映画監督は映画制作において大黒柱であり、古くから父親に例えられることも多い。鑑賞前の予想を踏まえると、今作での父親の描かれ方は大いに納得がいくものだった。

5. ラストシーンの解釈

台風が過ぎたあと、2人は助かったのか、死んでしまったのか。ちょうど半々に解釈できる、絶妙なバランスになっていたと思う。

・水浸しの暗く長い横穴をハイハイ歩きで出口へ向かう=産道を抜けて生まれる
 →心が別人のように変化した、生まれ変わった / 生まれ変わった=湊と依里の肉体は死んでしまった

・鉄橋への道を塞ぐフェンスを超えた
 →心が自由になり2人は新しい世界へ歩き始めた / 行ってはいけない、あっちの世界へ行ってしまった

普通に考えれば、早織と保利が電車の窓を開ける所まで来ていたのだから、その位置から見えないからとあっさり引き返すとは考えにくい。消防団の制止を振り払って来たのだから、子の姿を確認できてすらいないのに彼らが再度一緒に向かってくれる見込みはない。
もし生きていたなら、中に入って来た2人に見つけられ4人で脱出したはずだ。でもそうなってはいない。

自分の中で前段の文脈が出来上がっていたこともあり、自分は"2人は死んでしまった"と解釈した。ハッピーエンドにも見えるようにというより、バッドエンドにだけ見えないようぼやかしているんだろうと。

生死の判定はそんなに重要なのか?

そうだ、坂元さんは生死の線引きすら取り払おうとした作家だった。
生きていたらハッピーエンド/死んだらバッドエンド…そんなものの見方に抵抗してきたのが坂元裕二という人だった。

「なんで幽霊を好きになったらダメなんですか?生きてるとか死んでるとか、どっちでも良くないですか?生きてても死んでても、好きな方の人と一緒にいればいいのに。」

『anone』4話・辻沢ハリカ

「人間は現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、30、40…その時その時を懸命に生きてて、過ぎ去ってしまったものじゃなくて。
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っているし、5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて、今からだって、いつだって気持ちを伝えることができる。

人生って小説や映画じゃないもん。幸せな結末も悲しい結末も、やり残したこともない。あるのは、その人がどういう人だったかっていうことだけです。」

『大豆田とわ子と三人の元夫』7話・小鳥遊大史

加害者/被害者、怪物/人間、男/女…それらの線引きに疑問を投げかける今作は、最後には生者の世界/死者の世界、ハッピーエンド/バッドエンドさえも曖昧にして行く。

✳︎

電車から抜け出た時の2人の何気ないやりとりが、解釈に戸惑う鑑賞者を導く道しるべのように感じられた。たしかこんな台詞。

依里「生まれ変わったのかな?」
湊「生まれ変わりとか、そんなのは無いんだよ。」

生まれ変わりたい、今の自分とは違う人間になりたいと願っていた少年が、吹っ切れたような爽やかな表情で「そんなのは無い」とあっさり言い放つ。

ラストシーンの2人は、生きている姿なのかそうではない姿なのか、結局よく分からない。
はっきり分かるのは、自分自身を受け入れられず葛藤していた少年が、「生まれ変わりとか無い」つまり「このままの自分でいい」と言い切るまでに変化したことだ。
この大きな成長を見届けることができた。この暖かな光の感触は自分の中に残り続けると思う。そしたらもう、助かったのか死んでしまったのか、ハッピーエンドかバッドエンドか…そんな判定などは取るに足らないことに思えた。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?