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逢魔刻の女



鏡を覗く。そこに毛のない猿がいた。

ギョッとして身体が反射的に硬直する。心臓に痛みが走った。凍りつくとはこういう時をいうのだろう。猿は背中を丸めて真っ白な冷たい皮膚を晒していた。
そして窪んだ眼窩(がんか)から虚ろで大きな眼球がじっとこちらを捉えたまま、様子を伺っている。
それが自分だと気づくまでに時間はそれほど、かからなかった。和室に置かれた古い三面鏡に、映し出された自分を確認する。一瞬にして凍りついた心臓は徐々に落ち着きを取り戻したが、これで何分寿命が縮まったかと槇絵は不安になった。
失った時間を取り戻すかのように鏡の前で無理に笑顔を作ろうとした。ふと、部屋が薄暗くてよく見えず灯(あかり)が必要なのに気がついた。
こんなに薄暗くては、猿や幽霊に見えてもおかしくはない。今度は安堵のため息が漏れた。流行病に罹り、しばらくの間ろくに飲まず食わずで床に伏せっていたせいか、やつれて頬がこけている。それにしても自分の姿に驚くとは。それとも、自分はまだ本当は伏せったままで、熱に浮かされて悪夢を見ているのだろうか。
小さく咳払いをしてみる。喉元を手のひらで抑えた。脈打つ感触がある。まだ少し熱い。額を触ると汗ばんでいた。気を取り直して鏡台に向き直り、まだ引き攣ったままの顔を筆でなでるように薄く化粧をほどこしていく。歳のわりには若い。けれど月日は残酷にも端正な顔立ちに影を落としていた。
昔は美貌で浮き名を流していたというのに老化や劣化だけは引き留める術はない。窓から挿す陽がかなり傾いている。
じきに暮れて闇夜が自分を隠してくれるだろう。
夜は好きだ。特に月と星のない夜は。漆黒のマントで覆われる安堵感と醜さを抱いている罪悪感とが入り乱れる感情の波に流されて、たどり着いた異空間を彷徨う気持ちになれる。
この部屋には時計がない。日めくりカレンダーは三日前のままだった。今日は7日だ。9月7日。巳の日。
髪を整えて素早く着替えた。
逢魔時に鳴瀧澤(なるたきさわ)バス停前で会いましょう。あの日、彼との約束の場に行けなかった自分を呪う毎日から解放されるために。
今回こそは約束を守らねば。あの人が亡くなった日に果たすことができなかった約束を今度こそは反故(ほご)にしないために。

毎月彼に会いに行っていたのだ。それを半年も怠っていた。過去へ何度も何度も引き返さなければならないそんな義務が苦痛になっていた。
逃げ続けて逃げ続けて前を向こうとしてその都度、大きな波に押し戻されるようにして同じ場所に戻ってしまうのだ。
わたしの往生際の悪さにうんざりして嫌気が差して、彼がわたしをあちらの世界へ連れていくのをやめてしまうことが時折心配になる。引き戸を開けると、冷たい風が舞い込んできて、黒髪がなびいた。遠くで何故かひぐらしの声がする。掠れた女の鳴き声のように哀しく侘しく後悔の音色がする。それを背景にして血のように赤い彼岸花が咲き乱れる畦道を小走りで急いだ。早く会いたい。槇絵は着物の裾を手繰り寄せ短めにした。血のように赤い夕陽の中へ彼女の姿が飲み込まれていった。



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