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鰯離婚


七瀬は離婚弁護士だ。
「先生。今朝は9時より土元さんの予約が入っております。」
事務の玲奈は学生だけどなかなかしっかりしていて言われたこと以上にがんばってくれている。
5分前、コンコンとノックされ、玲奈がどうぞと言い開ける前に太った女性がハンカチで額を抑えながら入ってきた。
玲奈が中へ案内する。
「お待ちしておりました。土元様ですね。」
名刺を渡し着席を促した。
彼女は玲奈がお茶を出すと一気に飲み干してしばらく黙ったまま一点を見つめていた。「ご要件をうかがいま、、、」
切り出すと遮るように唐突に話し出した。
「鰯の缶詰」
「は?」
「鰯の缶詰が臭いって理由で旦那に離婚を言い渡されました。旦那は魚が大嫌いで臭いががするだけで激怒するんです。もし本気で離婚されたら慰謝料って貰えるんですか。」
一息おいて答える。
「結婚は契約ですので正当な理由が認められるか相手の合意が得られ調停で解決するか裁判で判決がされなければすぐには離婚出来ません。でも理由に合理性がないので最初から裁判にもなりません。まずはご主人とよく話し合われてはどうでしょうか。冗談かもしれないですし。」
と答えると「いいえ!冗談なんかではありません。わたしにはわかります。あれは本気で別れたがっている様子でした。」鼻息も荒く土元さんは七瀬をまっすぐに見る。
「ご主人が結婚生活において不満を抱えているのは確かなんですね。食べ物の好みが合わないという裏にかくされた本当の理由はあなたもご存知でしょう。」
「いいえ、わたくしに不満があるとしても何が気に入らないんだかわからないんです。」
「では直接聞いてみたらどうですか。まず二人で話し合いをすることをお勧めします。話し合いで解決せず離婚届を提示された場合はお手伝いさせて頂きます。」
土元さんはしょんぼりうなだれてしまった。
少し雰囲気を変えるために敢えて笑顔で話を切り替える。

「それにしても、ご主人がそこまで嫌いなのに何故ご自宅で魚を食べるのですか。」
土元さんは意を決したかのように顔を上げた。

「旦那は結婚した当時は優しかったんです。でも5年くらいたった頃から毎日毎日私を頭が悪い、アホだ馬鹿だと罵るのでちょっとした仕返しです。わたしなりの。それに鰯を食べたら少しは頭が良くなるかなと思って隠れて食べてたんです。ほら、DHCだのなんだのが脳に良いっていいますでしょ?」
それを言うならDHAです奥様。
笑いそうになるのを辛うじて我慢し咳払いで誤魔化した。
「強いて言えばハラスメントで逆に訴えることが可能なのは土元さんあなたの方です。馬鹿とかアホとか直接的な言葉は侮辱に当たりますし、精神的苦痛を感じていればそれは言葉によるドメスティックバイオレンスです。
でもこのまま結婚生活を続けたいなら訴えるのはあまり得策ではないですね。」
「そうですよねえ。私働いたことがなくて要領もわるいし、生活力は全くないし1人にされたら死んでしまうかもしれません。ああどうしましょう。不安になってきました。旦那は起業家で事業は大成功して余裕のある人だから、今の暮らしを手放すなんて考えたくないんです。」

「ご主人が本気で考えているとしても、決定的な離婚理由がないから理不尽なハラスメントをやめないのでは。」

「そうものでしょうか。そうかもしれません。嫌がらせしたらわたしから逃げていくと思ってるのかしら。」
彼女はハーッとため息をつく。
暫く様子を見ることにして具体的に何か動きがあったらまた来ますと相談料を置いて去っていった。
鰯の缶詰。
わたしは大好きなんだけどな。ご当地物の高級な缶詰などをつまみに一杯やれば頭脳労働の疲れが一気に飛ぶ。ご褒美が欲しくなった。かつての相棒、八十嶋に電話だ。
「わたしだけど。久しぶりにいつもの店で飲みましょうよ。終わったら連絡してね。」
さて、楽しい時間のために山積みの書類をやっつけよう。






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