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障害者の人生が美談として取り上げられるときーメディア批判で終わらないために

私は過去、うっかり感動ポルノを容認しそうになっていた。テレビでの取材を受けたとき、広く分かりやすく世間に場面緘黙の存在を認知してくれるならば(私の取り上げられ方においては感動ポルノとも言い切れないし)、まあいいかと。また啓発における責任として、ネガティブな要素を排除する思考が無意識にはたらいて、自ら「希望のある語り」を意識してもいて、そんな「分かりやすい語り」に違和感を感じつづけてもいた。知らない障害を知ってもらうには、分かりやすい物語が求められる。だが大袈裟かもしれないが「希望のある語り」こそが差別・偏見を、「分かりやすい語り」こそが誤解を生んでいた面もあったかもしれないと今は思う。

現在の意見としては、基本的には感動ポルノを容認してはいけないと思っている。その理由としては、格差や差別の現状を含めて容認することになるから。障害=ゼロからでなくマイナスからの努力で成功したという美談は、そのマイナス要素とされる障害ゆえ感動が増進されている構造と思う。障害は感動を増進させるための記号や装置ではないし、大衆の感動が増進されうること自体が差別の存在を証明している。障害=生まれながらの逆境・マイナスという意識は、合理的配慮が進んで軽減されるべき。障害者が取り上げられるとき、極端な感動ポルノばかりではないだろうが、障害分野に関わらず、自分自身も安易に様々なコンテンツを消費してきてしまったゆえ、消費する側であることを自覚をしつつ、そう思う。

また障害当事者界隈から、美談や感動ポルノ的ではない=幸せや成功への輝かしい物語の成立していない障害者、本当に苦しんでいる当事者のこともテレビで取り上げるべきという声が時折聞こえてくる。しかし、一般の人が障害名を出し、顔出し名前出し家族取材OKで、「苦しんでいる」となると、メリットがないどころか差別・偏見に遭う可能性が出てくる。今の時代、ネット上に情報が残り続けたり、何が炎上するか分からなかったりといったリスクもある。また、もし救いのない物語として切り取られた場合、同じ障害の当事者・保護者のコミュニティ内部での断絶さえ起こりうる。例えば、絶望させるので子どもに見せたくないと当事者の保護者は思うだろうし、回復への希望をなくしてしまった、などとと同じ当事者から受け取られることもあるかもしれない。一般の人からは、障害を克服するための努力不足なのではないか、など安直・差別的に叩かれる可能性もある。すると、一般の人が抱く特定の障害界隈全体へのイメージさえ左右される結果となり、救われない当事者の現状までもが良くない方向へ変化することだって、あり得ると思うのだ。つまり、取り上げられた特定の人物や障害への風当たりが強くなり、世の差別・スティグマを助長するような現象を懸念するのだが、テレビはそこまでの事態は回避してくれているし、たしかに幼い当事者を安易に絶望させたくはないなとも思う。テレビなどで取り上げられる障害当事者がすでに顔・名前・障害名を公にして何らかの活動を行っている人・現在は幸せな人・成功している人といった内容に偏って発信されてしまうのは、そういった理由もあるのではないだろうか。しかし様々な現実があるのも事実なので、当事者としては私もその辺りにモヤモヤしていた。メディア 、主にテレビで取り上げられる場合「応援したくなる障害者像」やそういったストーリーが多いのは、ある種、取りあげられた障害当事者本人やその障害界隈全体を守るための矢面にもなっていて、結局はまだこの社会には根強い差別や偏見があること・スティグマの存在を証明しているのだと思う。

もちろん、メディアに露出するメリットもある。例えば、広域に周知でき、認知度が上がる(啓発になる)。知らない障害を知った人たちから、理解や配慮が拡がる。特定の障害の活動者(影響力・発信力のある人)が取り上げられることで、当事者をはじめとする界隈の意見・感想を集約し、制作側にフィードバックできる。取材を受けることについても、体験知として界隈内で共有できる。取材を受ける当事者自身、矢面に立つ・消費されることにはなるが、上記のような社会的役割や責任を感じて引き受ける場合もあるのだろう。

あるとき、自分の障害をカミングアウトしてもデメリットしかないから言わないのだという人がいた。私は大した活動はできていないけれど、世界中の人に自分が場面緘黙だったことを知っておいてもらったほうが生きやすくなりそうだと考えていたから、とても驚いた(これはこれで特殊かもしれないが、当事者研究に影響を受け、弱さの情報公開を大切に思っていたのだ)。けれど、世の中の多くの人はメリットがないどころか、デメリットだと感じるらしい。その感性こそが世のスティグマの存在を裏付けている。

私が取材を受けた際、「応援したくなる当事者像→子どもの当事者も見ているから希望がある方がいい」という話になり、それもそうだなあ(でも大人の当事者だって見ている。それに、過去の苦しみや努力を軽視されているような気持ちになるので美談にされたくない、実際は美談ではない)と思った。

「テレビで苦しい二次症状のことも伝えたい」と言うと、「何の障害の話をしているのか分かりにくくなるのでむずかしい」となり、たしかに(でも二次症状で長年生きづらい大人の場面緘黙の人たちがいること、その苦しみや困難が伝わらない)など納得いかなかったのだが、仕方なく削ぎ落とされてしまう部分は拙著『かんもくの声』に書いた。テレビで取り上げられる「希望のある当事者ストーリー」は、大抵保護者にはウケが良くて、当事者にはウケが良くないのだが、障害当事者テレビ取材あるあるなのかもしれない。それはもともと、希望を前提につくられているのだ。

マスメディアは民衆の欲望をうつす鏡でもある。ある視点で見れば、その欲望と差別を巡って当事者・保護者界隈とメディアコンテンツ制作者側との連携的配慮、あるいは取り上げられる内容の限界としての妥協点が自ずと決まってきてしまう。広域に向けた放送ゆえ、そんな構造があるようにも見える。もちろん、製作者側・取材側があらかじめ設定したストーリーに素材として落とし込まれ、部分を切り取られて消費されることに当事者が憤怒する案件も起こってきたのであろうし、そのような気持ちは<取材する側・される側>の今後の関係のためにも対等に伝え合っていくべきと思う。実際、障害者差別や搾取を、美談や感動といったオブラートに包んだだけに見える腹立たしいコンテンツも散見するし、それを多くの視聴者が内面化し賛同する様に出くわすと悲しさと悔しさが湧いてくる。「感動ポルノ的障害者像」一般は、スティグマや差別の存在といった現在の社会状況が生んでいる側面もあるゆえ、例えば障害や合理的配慮、社会モデルへの理解などを発信していくことは重要だ。

また、メディアコンテンツ製作者側のすべてがマスゴミという言説はかなりの偏見だし、とくに障害はセンシティブな話題であることもあり、よく学んでていねいに取材してくれる場合もある。私個人はむしろ、センシティブな扱いであっても取り上げたいという取材者側の個人的動機の強さや気概を感じてきたゆえ、ただ批判するのではなく可能であれば障害当事者からも意見を伝え連携し、発信・報道の質を上げることの大切さを思う。たとえひとりの意見でも、些細な気付きであっても、伝えるべきことは伝えたい。お互いの立場と意見の違いを確認し合い、そのうえで見えなかった部分に気付き合うためにも。例えば一視聴者としてご意見ご感想窓口からメッセージを送ることにも、充分意義があると思う。

現代日本で社会生活を営んでいると、自分自身が知らぬ間に何にどう加担してしまっているかは見えにくい。障害者差別やスティグマを軽減していきたいが、場面緘黙に関わる活動をするなか、方々で「歩み寄り」「対話(対等に伝え合うこと)」のむずかしさを感じ続けてもいる。多様性と言えば言うほど、私たちはお互いさまに傷をこしらえることになる。それでもあきらめず、私にも何らかの加害性が常にあるのだと自覚を持ったうえで動いていたい。


以下は、障害当事者が取材を受けること、メディア(主にテレビ)に露出することについての関連記事です。現在と考えが変わっている部分や重なる部分があるかもしれませんが、何となくずっと考えているテーマのひとつです。





「分かりやすい・希望のある語り」だけでなく、「複雑な・救いのない語り」ゆえ救われる人もいるかもしれない。そんな発信も必要と思い、本を書きました▼


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