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雑記 #8 中塚一碧楼の中でもっとも好きな11句

はじめに

自由律俳人の句を選んで感想を述べる雑記第5弾だ。今回は、種田山頭火や尾崎放哉と同じ時代を生きた中塚一碧楼について書いてみる。一通り味わってみたところ、山頭火よりも現実的でさっぱりしており、それでいて放哉のような難解さはないというような、なんというかバランスの良さを感じた。
また、Kindleで彼の句集が売られているため、さくっと読みたい人はおすすめだ。
※あくまで私個人の感想であり、一碧楼本人の意図とは別の解釈になっている可能性があることに注意されたい


私が選んだ11句

道から闇が流れ入り蜜柑酸っぱい

道とみかんの大いなる対比の句である。みかんの酸っぱさを、窓の外の道から流れ込んでくる黒い黒い闇と比較することで、それに勝るとも劣らない酸っぱさであることを表現している。暗闇の強い黒さに対抗できるほどのみかんはどれだけ酸っぱいのだろうか。
ちなみに、私はとても甘いみかんも酸っぱいみかんも好きである。嫌いなのは、甘さも酸っぱさも中途半端なやつである。甘くも酸っぱくもないような腑抜けたみかんを食べるくらいなら、身悶えするほど酸っぱいみかんを食べるほうを選びたい。


雑草の花咲き人の醜き

これまた対比だ。普段はそれらを「雑草」と呼んで見下しているのに、花が咲いたら美しいと感じてしまう。そんな人間の現金な部分に愚かさや醜さを感じたのかもしれない。
また、人間が勝手に自分たちの役に立つかどうかという観点で分類しただけであり、生物というくくりで見れば価値なんぞ変わらないのに。などということを考えていると私たち人間の醜さが理解できるような気がする。しかし、そのくくりの中に人間も含まれているのだから、それについて考えること自体が傲慢な気すらするのだ。


一冊の日本歴史よ樹の下の眞夏よ

対象が小さいところから大きいところへ移っていく、なんとも壮大な句である。
詠み手が日本の歴史の本を木の下で読んでいる。昔の日本ではこんなことがあったのかなどと思いを馳せている。そして、自分もその歴史の一部なのだと感じ、その歴史を古くから見守ってきた太陽へと思いが移り変わる。そんな夏である。
少し憶測も入ってしまったが、大方このような感じであろう。一人の人間という具体的な存在から、歴史という抽象的な存在を結びつけるこの句にはなんともいえない美しさがある。


水鳥見たはかない滿足で歸ります

どんなものにも永遠はなく、いつしか消えゆくのだと改めて感じさせてくれる句である。水鳥は美しく、見た者の心を揺さぶる。そして、彼らは満足して帰っていく。しかし、その満足はいつか消えてしまう。そして、消えてしまうというはかなさを持っているからこそ美しいのだ。
また、語尾がですます調で終わっているのがまた謙虚さを感じられ、味わい深くしている気がする。


火燵にゐる母にうちあけず一日二日

現実感のある句だ。詠み手には母に何か言わなくてはならないことがあるのだろう。打ち明けづらさがあるということは悪い知らせだろうか。そして、打ち明けられないままこたつにいる何も知らない母の背中を眺めて時間が過ぎていく。いや、何も知らないかはわからない。母というのは往々にして察しが良いものだから、本人が言わずともとっくに気づいている可能性すらある。
単に情景を詠むこともあれば、この句のように現実感の強い句も詠める一碧楼の器用さが感じられる良い句である。


住吉天王寺大阪の春の空

これはリズムと情景の句である。4・5・5・5のリズムだろうか。とても陽気なリズムであり、はずむ感じがなんとなく春を感じさせる気がしないでもない。そして、味わい進めていくうちに情景は町から寺、そして空に飛び立って大きな大阪の街を見下ろすように展開していく。なんだか、大阪に旅行した気分になるようなお得感もあるかもしれない。


人のすがた野に出でて草を摘みつゝ

不思議な句である。単にこれを日記にするならば「野原に行って草を摘んだ」でよい。しかし、この句には「人のすがた」という枕詞がついていて、ここが散文ではなく自由律俳句たらしめている箇所である。なぜこのように書いたのだろう。自分が果たして人間なのかわからなくなってしまうような出来事があったのだろうか。それとも、あえてそう書くことで俯瞰的な句に仕上げようと思ったのだろうか。はたまた、哲学的ゾンビというやつだろうか。考えれば考えるほどわけがわからなくなってきた。


山一つ山二つ三つ夏空

「住吉天王寺大阪の春の空」に続いて、リズムと情景の句である。5・5・2・4のリズムだろうか。ちなみに「三つ」は「みつ」と読んでみた。そのほうが読みやすかったからだ。どこで区切るのか難しいところだが、山々が次々に目に入ってくる情景がリズムで表現されていて気持ちが良い。そして、最後に山から空へ対象が展開されるのがまたすがすがしい。


木槿の花もをはりとなるらしいしつかり暮らさうぞ

これまた一風変わった決意の句である。「木槿」は「むくげ」と読む。そして、むくげが花を咲かせるのは7〜10月頃らしいため、そろそろ冬支度も始めてしっかり乗り越えていこうという句だろうか。また「ぞ」で終わるのはなかなか珍しい。そんな固い決意を俳句にしようとする心意気や発想が私にはないため、非常に魅力を感じる句だ。


橋をよろこんで渡つてしまふ秋の日

情景がふわっと広がる良い句だ。秋の陽気に影響を受けてなんとなく楽しくなり、橋を喜んで渡ってしまう。そう書くとかわいらしさもあるような気がしてきた。
ところで、「秋」でなければいけないのだろうか。まず、夏はどうだろう。太陽がじりじりと照りつける炎天下にわざわざ喜んで渡る人はいない気がする。冬も同様に、寒さがつのる中喜んで渡らないだろう。ならば、春はどうだろう。陽気は秋と同様に心地よいため問題ないように思える。しかし、私は秋でないといけないと考えている。その理由は「不安」である。春は新しい環境に飛び込むことの多い季節であり、何らかの不安を抱えていることが多い。対して、秋はそうではなく、春から半年経っていて環境にも慣れている。だからこそ「よろこんで渡つてしまふ」のではないだろうか。


炎天陸軍タンク百うごき草地凹凹

リズムがすばらしい句だ。4・4・3・5・3・4くらいの切り方だろうか。また、このリズムの良さが、タンクが通ったあとの草地のぼこぼこ具合を表している気がする。そして、楽しげなリズムに反して戦争を連想させる内容もまたアンバランスでありつつも受け手を考えさせる一要素となっており、よく作り込まれていると感じる。


おわりに

一碧楼の句について感想を述べてみた。美しさもありつつ、それでいてさっぱりしていてバランスの取れた彼の句はかなり気に入っている。そして、だからこそ句集を何度も読み返してここに挙げたもの以外にも良い句がないかどうかをまた確かめてみたい気持ちになった。
また、人生楽しいことも苦しいこともありつつ、秋晴れの下で橋を喜んで渡ってしまうような生活を歩んでいきたいものである。

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