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雑記 #5 尾崎放哉の中でもっとも好きな15句

はじめに

以前、種田山頭火の作品で好きなものをまとめてみたが、この人について書いたら尾崎放哉についても書かないわけにはいかない。放哉の句は渋く、極めきっていて玄人向けかもしれない。私は自由律俳句についての知見がまだ浅いため、何か味わい損なっているような気がしないでもないが、今の自分の感性を大事にして書いていきたいと思う。
※あくまで私個人の感想であり、放哉本人の意図とは別の解釈になっている可能性があることに注意されたい


私が選んだ15句

何も忘れた気で夏帽をかぶつて

一見すがすがしい夏の情景が浮かぶ気がするが、この句はそれだけではないだろう。忘れているのではなく「忘れた気」になっているのだ。夏帽をかぶることをどんなことも忘れた気になれるスイッチとしているのだろうか。そうまでして忘れたいことがあるが忘れられず、夏帽をかぶって粛々と作業をするのだろう。それは人生そのものだ。


何か求むる心海へ放つ

「何か求むる」というのは非常にわかる。何を求めているかはわからないが、確かに「何か」を求めているのだ。そんなもやもやとした心の内を、この海であれば受け止めてくれる。そんな海の偉大さと人間のちっぽけさを描いたすてきな句である。
この句を味わっていたら、私も海を見に行きたくなってきた。家の近くに川はあるが、海はないのでなかなか行く機会がないのが残念だ。川は川ですばらしいが、海にしかない良さもあるのだから。


なんにもない机の引き出しをあけて見る

何もないとわかっていながら、開けてしまう。なぜだろう。少し考えればおかしいことはわかるはずなのに、それでも開けてしまうのだ。冷蔵庫においても、何も入っていないのに開けてみることがあるが、これは食べ物を求めているから目的は明白だ。けれど、引き出しの場合は違う。何を求めているのかもわからない。この点、先ほどの「何か求むる心海へ放つ」と似ているところがあるかもしれない。


背を汽車通る草ひく顔をあげず

情景がすっと浮かんでくる句だ。自分のうしろを汽車が通っていることは音や草に吹きつける風からわかる。しかし、顔を上げてそれを見ようとはしない。汽車なんて見慣れているからか、あるいは顔を落として取り組んでいる作業に集中したいのか。その作業は考えごとか、あるいは読書か。こんな連想がどんどん浮かんでくるほど情景描写がすばらしい句だと感じる。
また、リズムも良い。私は7・4・6として味わったが、バランスが悪いようでいてそんなことはない、癖になる句だ。


考へ事をしてゐる田にしが歩いて居る

こちらも情景が浮かんでくる。タニシは人間の目線よりもはるか低くを這っているだろうから、放哉が目線を落としているのは明白だ。
下のほうを見ながら考えごとをして自分の中に深く深く潜っている中で、歩いているタニシを見てふと我に返る。タニシに現実世界へ引き戻してもらったというべきか。
この句を味わって思うに、考えごとは外でやったほうがいいかもしれない。部屋の中でやってしまうと、タニシのような自分に対して「邪魔してくれる」ものがほとんどなく、考えすぎてしまうような気がするからだ。


すばらしい乳房だ蚊が居る

これは癖がすごい。他の句と情緒が違いすぎる。すばらしい乳房があって、そこに蚊がとまっているのか。それとも、すばらしい乳房に見とれていたら蚊がいたことに気づかずに刺されてしまったのか。どちらなのかはこれ以上読み取りようがないが、もし前者だった場合はその蚊を叩きにいったのかが非常に気になるところだ。いくらすばらしくてもそんなにかんたんに叩いて良いものじゃないし、むしろそんなにすばらしいなら叩きたくないだろう。しかし、そのままにしてしまうと血を吸われてしまう。究極の選択である(?)。


なん本もマツチの棒を消し海風に話す

マッチに火をつけても海風に何度も消されてしまう。そうまでしてまで、明かりをつけて海風に話したいことがあるのだろう。それにしても、放哉は海についての句にすばらしいものが多い。いや、私の選び方が偏っているだけだろうか。・・・それだけ海はすばらしいということにしておこう。放哉だって海に何かを求めてしまうくらいなのだから。


ぴつたりとしめた穴だらけの障子である

これは、なんだか笑けてしまう。張り替えたばかりのきれいな障子ならばすきま風が入ってこないようにぴったりと閉めたくもなるが、穴だらけだったらぴったりと閉めようが閉めまいが関係ないのに。それでもちゃんと閉めた放哉の几帳面さが存分に発揮された一句なのではないだろうか。
ちなみに私は、カーテンが少し開いていると気になりはするが、閉め直すのも面倒なのでそのままにしてしまう。


咳をしても一人

これである。放哉といえばこれである。咳をしているということは何かしら患っていて、一人でいるとしんどい状況ではあるだろう。それでも、一人である。この9音でここまでの情緒を表現できるなんて、すばらしいとしか言いようがない。
ちなみに、以前この句についてこんな感想を抱いたりもした。それぞれの時代での「咳をしても一人」がありそうだ。


雪積もる夜のランプ

これはまた少しロマンチックな感じがする。外には雪が積もっていて、家の中にはランプに火が灯っている夜。たったそれだけを表しているだけなのだが、なんて美しい句だろう。これ以上私の感想や説明を加えても陳腐になるだけだろうから、ここまでにしておく。


霜とけ鳥光る

これも先ほどの句と同じように美しい。霜が融けてそこかしこが光って見える中、それが鳥に重なって見えたということだろうか。この句も無駄に長く書くと作品を汚すだけになりそうだからやめておこう。
そういえば、東京には霜がめったに降りない気がする。私のふるさとでは冬になるときまって霜が降りていたし、鼻の頭が痛くなるくらいの寒さだった。それが東京にはない。寒くない冬はいいものだが、それはそれで物悲しいものである。


冷え切つた番茶の出がらしで話さう

これは温まる。「冷え切つた番茶の出がらし」という、新しいお茶もお茶菓子もない中でも話をしたい人がいるのだ。放哉は先述した「咳をしても一人」という句が有名だが、それに対してこの句を詠めるようなときもあったということを考えると、万感の思いである。そして、やはり人は一人なのだと改めて思わされる句でもある。


何がたのしみに生きてると問はれて居る

これである。私もたまに「人生楽しい?」と聞かれることがある。そのとき、パッとは答えられない。いや、時間をかければ何かしら答えようはあるのだが、日常会話の中でふいにそんなこと聞かれても答えられないだろう。
なんだろう。生きている中で楽しいことはときどきあるが、それが人生を楽しいものとしているかというと違う気がするのだ。楽しいことも苦しいこともあるがそれはそれだ。本質はそこではなく、あくまで人生は虚無であるというのが私の考え方だ。だが、こんなことを日常会話の中で事細かに答えるわけにいかない。かといって、ごまかすのも違う気がする。その結果、答えられずに終わるのである。
ところで、放哉はこの問いにどう答えたであろうか。そんなことを考えるだけで放哉との時間を共有できている気がして、たまらない気持ちになるのだ。


針の穴の青空に糸を通す

これは発想が豊かだ。針には小さな穴が空いている。そして、そんな小さな穴の向こう側にも空はあるのだ。そんな針の穴の向こう側の空に糸を通すとは、なんてすてきな表現だろう。そして、上を向きながら針に糸を通そうとする情景が浮かんでくる。
こういった非常に細かいことを気づく性格こそ、自由律俳人にとって必要な素養なのではないだろうか。


縁がわあたゝかくて居る木の葉が一枚とんで来た

これはちょっと長めの句だ。縁側が温かいからそこにいたら、木の葉が一枚飛んできた。意味だけを考えると「そうですか」という感じがしないでもないが、字面を見ると散文という感じがせず、しっかり「俳句」だと認識できる。なぜそうなのかはわからないが、もしわかった際には私も長い自由律俳句を詠んでみたいと思う。


おわりに

尾崎放哉の詠んだ句の中からいくつか選出してみた。その中でも「何がたのしみに生きてると問はれて居る」が一番のお気に入りだ。自分の人生の楽しみを探してみてもいいし、そもそも楽しみが必要なのかどうかを考えてみても良いかもしれない。そんな考えごとのお供にこの句がぴったりだ。
ところで、次は現代の自由律俳人について書いてみたい気になってきた。山頭火や放哉といった戦前の俳人とはまた違った良さがあるため、今から楽しみだ。

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