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雑記 #9 きむらけんじの中でもっとも好きな8句

はじめに

自由律俳人の句を選んで感想を述べる雑記第6弾となる。今回は、現代の自由律俳人きむらけんじさんだ。かつてせきしろさんがどこかの記事で紹介していたのを見て、本を買って読んでみたところこれは興味深いということで、書いてみることにした。こちらも本の購入先のリンクを貼っておくため、よかったらどうぞ。
※あくまで私個人の感想であり、きむらさん本人の意図とは別の解釈になっている可能性があることに注意されたい
※作品の著作権が切れていないため、本記事は無断転載ともとれる記事となっている。仮にきむらさんから指摘があった場合には、速やかに本記事を削除することを約束する



私が選んだ8句

鉛筆をここまで使う子の顔を覗く

これは、思いつきそうで思いつかない句だと感じた。子どもたちが勉強している姿をうしろから見ていると、一人だけとても短い鉛筆を使っている子がいる。ここまで使うとは、親御さんからものを大切に扱うように育てられたとても良い子なのだろう。どんな顔をしているか、ちょっと見てみよう。といった感じだろうか。
こうしてみると、鉛筆の使い方にすらその人の人間性が表れるということを気づかされるとともに、そんなことに気づくのもまたすごいと感じる。


なりたい人にもなれず天道虫にもなれず

良い。何者にもなれない人の心の叫びである。あの人になれたらこんな良い人生を送れるのではないかと思いを馳せてみる。しかし、当然なれるわけはない。だったら、てんとう虫になって何も考えずにおてんとさまへ向かって飛んでいってしまいたい。しかし、こちらも当然なれるわけはないのだ。
何者にもなれないからこそ、自分としてどう生きるかが問われるように思える。しかし、実際のところはどう生きようと自分は自分なのだ。重大な選択を間違えようとも、行動を起こせずにいようとも、失敗をし続けようとも自分なのだ。それを忘れずに生きていたい。


鼻の管抜いてやる満天の星

美しい句だ。詠み手は、誰かを看取ったのであろう。医者が臨終を告げ、病人に繋がれていた医療器具はもはや意味のないものになる。それの一部である鼻の管を抜き、窓の外を見ると満天の星である。彼(彼女)はあの星々へ行ってしまった。情景としては、こんなところだろうか。
私は誰かを看取ったことがないので詳しくはわからないが、悲しさや寂しさ、そしておのれの無力さに加えて自然の美しさが感じられる気がした。


寝返っても寝返っても夜の底

これはうまい。種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」のオマージュだろう。リズムを踏襲するだけでなく、内容もしっかりとしたものになっている。どれだけ寝返りを打とうとも眠ることができず、それを「夜の底」にいると表現しているのだろうか。
前の句でも述べたが、これもまたおのれの無力さにさいなまれている句である気がする。自分は無力である。だからこそやれることをある程度やり、あとはほっぽっておくのが良いのかもしれない。


いろいろ殺して板前眠る

こんな句思いつかない。種々の魚や肉、野菜をさばいて客に提供する。板前の「仕事」としてはおおまかにこんなところだろう。しかし、仕事の枠を超えて見てみると、ただ生き物を殺しているだけになるわけだ。そして、句の結びに「眠る」としているところが興味深い。昼間は偉そうに生き物を殺して神のような立場だったかのように思われたが、板前も所詮は人間。眠りにはあらがえないのだ。
...こんな解釈で大丈夫だろうか。自由律俳句は短く、場合によっては受け手に解釈を委ねる場合もある。受け手の数だけ解釈があると思いこんでおくこととしよう。


こんなに晴れて税金のしくみが解らぬ

これである。空を見上げるとこんなにも晴れている。しかし、なぜか脳裏によぎるのは税金のしくみのことである。なぜだ。こんなに晴れているのだから良い気分になり、楽しく散歩でもすればよいところであるのに。しかし、考えてしまうのが自由律俳人の性である。この句に共感する人は、自由律俳句の素質があるといえるのではないだろうか。人と違うことを憂い、それでもちょっと優越感にひたり、最後はこれが自分らしさだと理解する


死ぬような気がして眠る

これはよくある。いつものように一日を終えて寝ようとすると、なぜだかおかしな気分になることがある。「あれ、私は今日寝たら二度と起きないのではないか」という根拠のない思いが浮かんでくるのだ。私は特にいつ死んでも良いかなと思って生きているため、不安を抱くこともなくそのまま眠るが、翌朝いつものように目が覚める。そして、昨晩に浮かんできた思いのことなどすでに忘れている。
あの思いの正体は何者なのだろう。自分の中の何かが作り出したのだろうか。考えれば考えるほどわからず、気になって眠れない。いや、どうせ眠れてしまうだろう。寝る前の考えごとなんて、所詮その程度のものなのだ。


列車見送る線路が残った

この発想はなかなかできない。列車を見送っているときは、その列車に着目してしまうものだからだ。そして、列車が見えなくなったらそのまま帰るのが通常だ。しかし、詠み手は線路のほうに着目した。どうしてだろうか。列車は行ってしまったが、その列車に向かって確かに線路は続いている。そして、その気になればその列車に乗っていってしまった人にいつでも会いに行けるということを噛み締めているのかもしれない。そう考えると、ちょっとすてきである。


おわりに

きむらけんじさんの句について感想を述べてみた。現代的でありつつ、戦前の自由律俳人のよいところを踏襲して自分の句として昇華している点は非常に尊敬し、私も「自分の句」として昇華させたいと思った。しかし、やはり自分は自分である。それだけは忘れずに自由律俳句を作り、人生を歩んでいきたいと思った。
また、自由律俳人の句を選んで感想を述べてみる雑記が一段落したら、今度は自分の句をいくつか選んで振り返ってみても良いかもしれない。とはいっても、もう少しこの雑記は続けるつもりである。河東碧梧桐や橋本夢道といった俳人がまだ残っているのだ。

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