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第4夜 微酔観音、泥酔菩薩に祈る 坂口安吾と村山家の酒肴

 かなうことなら、その片隅に座ってみたい。そう思わせる酒席がある。1932(昭和7)年12月、新潟市出身の無頼派作家、坂口安吾が鎌倉で療養中のめい、村山喜久(きく)を見舞った時のこと。胸を患っていた喜久を元気付けるため、村山家の人々と酒を飲みながら、戯れに絵や文章を書いた。「小菊荘画譜」と呼ばれる詩画集だ。「菊」は喜久にかけてある。
 山深い旧松之山町(十日町市松之山)で造り酒屋を営む名家、村山家には安吾の姉、セキが嫁いでいた。安吾は若いころから親しみ、長く滞在もした。喜久は村山真雄とセキの長女。残された写真を見ると、清楚で美しい人だ。この感性豊かなめいを安吾はことのほか、愛した。先の画譜に、こんな文章がある。
 「菊は娘の娘也と叔父安吾世に推して憚(はばか)らず」「微酔観音、泥酔菩薩その他、もろもろの酔ひ佛、来(きた)つてきく子の病魔退散を祈れ祈れ、たのむ」
 「画譜」に参加したのは安吾と真雄、真雄の弟政司(まさじ)の計3人。このように風流な遊びができたのは、村山家の人々に豊かな感性と教養があったゆえなのだろう。供された酒は村山家で造っていた「越の露」。肴(さかな)の方も気になるところだが、真雄の次男で松之山町長を務めた政光氏によれば、鎌倉では「仕出し屋の出前により酔客を賄った」(「『小菊荘画譜』と当時の食物について」)。サザエや焼き豚、刺し身などで、つまむ物がなくなるとキュウリを丸ごと出した。一方、松之山では山の幸がふんだんに食卓に上った。「味噌(みそ)皮のみそ漬」「いぶし納豆」「うどのごったく煮」。いずれもうまそうだ。
 喜久は無事、回復したが、38年、堀に身を投げて自らの命を絶った。婚約者の出征や自身の病などがあったとされるが、詳しいことは分からない。その翌年、安吾は松之山を舞台に『木々の精、谷の精』という小説を書いた。不可解な死を遂げる印象的なヒロインは、喜久がモデルという。
 (トップ写真はわが家の本棚。「小菊荘画譜」に、安吾が描いた絵と文をラベルにした日本酒「越の露」も並べた。♡好きを押していただくと、猫おかみ安吾ちゃんがお礼を言います。下記では猫おかみ動画も見られます)

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