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本気で生きているか

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人生の在り方について問うています。なぜ、人は生きるのか。何のために生まれてきたのか。なぜ、この時代にいるのか。みんなの素直な思いを共有して下さい。
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#未来

感情に支配されず、今、この時に集中し、ただ在るということ。

今。 “今”とは何か。 今とは、過去とも未来とも言えない時。 即ち、ただ今。 今ここに在るとは、眺め観察し、気が付くこと。 今この瞬間の自分自身の在り様、身体感覚、感情に気づくこと。 従って、今に生きるとは、四六時中、過去への後悔に苛まれたり、未来に不安を感じている生き方とは違う。 感情に支配されず、今、この時に集中し、ただ在るということ。 そこには、後悔も不安も存在しない世界。 “空”の状態であるとも云える。 空とは自然。 即ち、今ここにあるとは自然で

人間は、なぜ未来を考えることが出来るのか。

人間は本来、未来を考えることが出来る生命体。 それは、時に理想や妄想と云われるものかもしれない。 然しこれ、他の生物にはない能力。 即ち、人間以外の生物には皆、“今”しかない。 そう、過去も未来もない。 人間にしか未来に思いを馳せ、考え行動することは出来ない。 己、この意図が汲み取れるか? なぜ、人間にだけ、この能力が持たせられているのか。 「まったく意味が分かりません。そんなこと考えたこともありません。だって、そういうもんだと思っていました。別に理由なんてな

現人類が抱える課題

人間の責任。 先人、先達、先輩として、そして親として、これまでの恩恵を後世にしっかりと引き継げるか否か。 これ実相における最大の責任。 己が生きてきた真の生き様がこれに現れる。 私は何事もなく幸せに生きてこれたからそれでいい、僕は自分のことで精一杯頑張ったのだからそれでいい、自分さえ良ければいい、この先、誰がどうなろうが知ったこっちゃない…。 「いやあ、自分のことで精一杯で、他人のことなんて考えている暇はありませんて。とにかく今忙しいんで、未来の話とか後にしてもらえ

『サルの覚醒/存在意義を思い出したサル 〔第一章〕 』

拙著『サルの覚醒/存在意義を思い出したサル 〔第一章〕 』が、ようやくAmazonで単行本/オンデマンドペーパーバック/Kindle電子書籍版の3つのフォーマットで販売が正式に開始となりました。お蔭様で、直接納品の方もご注文を頂いております(画像は、明日出荷待ちの本たち☺)。皆さんのご支援により、少しずつ広まっています。有難う御座います☺ 人類よ。覚醒せよ! 夢、希望を捨てかけているあなたたちへ 藤井啓人、渾身の感動作!『サルの覚醒』シリーズ〔第一章〕! これからの時代を

安心して生きるがいい。

未来は明るいに決まっている。だから人類は、希望を持ち、自由と平等、愛と平和の神気を自分自身に流し込み、安心して生きるがいい。だが、そのためには、世に充満する神気の存在に気付き、それを受容出来るまで、一人ひとりが自分自身の感性を高め、苦労と向き合い、情熱を持って日々を生きねばならない。「いや、こうなりたい、こうしたいのはやまやまですが、現実はそうじゃないんですよ。世の中苦しいことばかり。頑張ってもがんばってもうまくいかない。一向に幸せになれない。生活が苦しいまま。こんな世の中で

世の中、ぶっ壊した方がましだ!

この世の人間皆恵まれている。なぜか。それは、この世に生まれることが出来ているから。これほどの最良の機会はない。長い永い人生の中で、この時代に生まれ体験が出来るチャンスを得れたのだ。これ程恵まれたことはないであろう。増してや、己が願い望んで希望が叶ったのだから尚更だ。余程の感謝をし、有難くこの時代を生き切る以外に何があろうと云うのか。「私はなんでこんなに不幸なの?何も悪いことをしたわけではないのに…」「こんなつまらない世の中、ぶっ壊した方がましだ!」「何をやってもうまくいかない

変わらないことは、本当は“楽”ではない

万物は変化し続ける。刻一刻と変わる。常に無常の世。好もうが、好まざろうが今に留まることは出来ない。変化するものと思えれば、流れに身を任せられる。良く変わることも、悪く変わることもあるし、そうなろうと思って、そう成ることも出来る。ただ、人間は、必死に変わらないように変わらないように今に留まろうとする。これが苦痛や悩み、迷いの種となる。なぜ、人間は変わることを恐れるのか。なぜならば、今に満足も納得もしていないけれど、“楽”だから。膨大な人生の過去の痛みを繰り返したくないし、未来へ

これ全て由ありにて、汗まみれ、涙まみれ、泥まみれの人生

「実相」とは何か。それは、人間が生きる世界そのもの。一切のもののありのままの真実の姿であり、真実の本性、万物の真相。即ち森羅万象。あらゆる現象の仮の姿のその奥にある真実の相であり、真如、如実、法性とも云う。「実相」は、己が好もうが好むまいが厳しい。厳しくも慈愛に満ちている。そこで由(わけ)をもって生きることを願い出たのは己自身。これ解からずして忘れたまま正さずじまいの人生を生き続けるのか、解かって己の人生を改革し、完成させるのかは、全て自分次第。この厳しい実相を仕上がり、自分

だから己の人生に“規制”が掛かっている。

人間、良くなりたい。幸福になりたい。もっと良い人生を送りたい。もし、そう思っているならば、“条件”がある。それは、真実(本当のこと)を分かる(理解する)こと。「なあんだ、そんな事か。ならば簡単だ。ネットに書いてあるよ。」「こんな世の中だから、それはもう無理かも。本当のことが何かなんて、もう分かりっこない!」「この世に本当のことなんかないよ。全部ウソまみれ。社会も大人もウソばかり。何も信じられない。」「でも、難しいと思うけれど、やってみる価値はあるような気がする。でもどうしたら

悪を“必要悪”として見てしまう

宇宙は“神気”で満ち溢れている。人間は、この“神気”の光で包まれている。即ち“愛”。“人間愛”とも云える。この“人間愛”とは、人間性の絶対的尊厳と、その無限の発展性とを確信し、すべての生命を信じ、尊重し、あたたかく慈しみ、優しく思いやり、育むこと。人間はこの愛を感じる感性を持っている。そして人間は、これを体験の中から磨いていくことが出来る。これは、善悪の感性、良心でもあるから、白か黒か、善か悪かを見極める眼を持たねばならない。しかし人間は、悪を“必要悪”として見てしまう傾向に

「孝行のしたい時分に親はなし」と云うが

「孝養心」はあるか。“孝養”とは、親に孝行を尽くすこと。子が親を大切に養うこと。我が親を「本当に思う切なる願い」が有るのであれば、人頼みではなく、自分が努力をして何とかする。世間では、「孝行のしたい時分に親はなし」と云うが、もし親は既にこの世に居なくとも、本当は、あの世で“生きて”いる。然らば“生きている親”へ出来る孝行をなぜしないのか?このような実相の認識を持って、生きることが子にとって大切なことなのである。現日本は、悲しいかなこの「孝養心」が薄くなり、現世界を見ても、精神

3次元の世界で生きるということ

過去を見つめ生きる。是、永き人生の中で、極めて重要なこと。自分自身の過去の在り様を逃げることなく、避けることなく全て向き合い、受け入れていかねば、未来が啓けない。成長、発展出来ない。進歩、向上出来ない。自分はどの様な人間か、どの様にして生きて来たかを、目を背けること、蔑ろにすることなく見つめ生きる。本当の自分を知らねば、今も先の人生もより良く生きることは出来ない。即ち、現世も来世も自分自身にとっての内観界であるということを推して知るべし。その日暮らしで、いい加減で、今が良けれ

人生、信頼がものを云う

「信頼」とは何か?人間社会では、「信じて頼りとすること。信用して任せること」という意に解釈されている。“信”を見るならば、真実で偽りのないこととされる。また、友情に厚く、人を欺かないこと、誠実なことともある。更に云えば、真理を信じ悟ることにより、心が清らかに澄みわたるという意でもある。一方、“頼”とは、「よる」、「たよる」「たのむ」「たのもしい」「得る」「よい(善)」「さいわい(幸)」となる。従って、「信頼」の本来なる意、実相ではどう解釈するか。それは、真理を信じ悟ることによ

だから一向に前に進まない。

人間は皆、重き荷物を荷車に乗せ、坂道を登っている。大きな荷車もあれば、小さなものもある。その荷物もそれぞれの事情によって重いもの軽いもの大きなもの小さなものを積んでいる。荷物は、意図したもの、意図していないもの、厄介なものもあれば、宝だと思い込んでいるものもある。そして長く積み重ねてきてしまった悪事や罪もその中に含まれている。人間それぞれが思い思いに荷車に荷物を積み込んでいる(または持たされている)。人生は、その荷物を運ぶことが目的ではない。正しい目的地に無事に到達することを