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本気で生きているか

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人生の在り方について問うています。なぜ、人は生きるのか。何のために生まれてきたのか。なぜ、この時代にいるのか。みんなの素直な思いを共有して下さい。
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2022年11月の記事一覧

これで変われねば人生終焉

人類は、思想の時代は既に終わり、想念の時代となっていることを早く気付かねばならない。「想念の時代」とは、“本当のこと”、即ち“真理”“道理”に基づいた時代にあるということ。人間が拵えた自由奔放の思想に塗れた世界ではなくなっているということだ。このことへのポイントの切り替えが出来ていないまま生きている人間があまりに多いことか。21世紀に入り、全人類にとっての指針が出ているにも関わらず、過去の栄光にどっぷり漬かり、唯物科学を信望し続け、何を浮かれて宴をし続けているのか。今、世が乱

その道は何の道か

「人の道」というけれど、人間が通った道だから良いということはない。寧ろ、「人の道」ほど危ういと思った方が良い。人間は未熟。その未熟な人間が通った道は、「真の道」ではない。その道は、大概が甘い道、楽な道、弱い道、虚飾に満ちた道。一見良さそうなその煌びやかな道を、何も考えずにふらふらと跡を追い進むことほど、愚かなことはない。増してや自分が人の道を切り開くなどと考えるのは、愚の骨頂、傲慢甚だしい。人間は、未熟な状態でこの世に生を受ける。自分の足で歩けるようになる、即ち、自立のために

最後に残るのは

末法の世。人間、どう生きるか。末法の世は、人間の想像を超えた天変地異、天災が起きる。地球も生きている。そして、「悪」が出る。次々とこれまで鬱積してきたものが“悪”となって吹き出てくる。そして、モノ金は、飽和状態となり、何を作っても、何を得ても満足できない時代となる。従って、最後に残るのは、人間性、人柄、良心、感性、そして完善なる行い。どのような絶大な権力があろうとも、一生に使い切れない財産を持とうとも、これまでの既存価値で賞賛された名声も、どれだけの最新技術や科学や知識をもっ

それを自由と称し浮遊し続けている

何かが足りない。何が足りないのか?何かが足りないから、心が満たされない。不安が拭えない。苛々が収まらない。ものごと思うようにならない。この「何か」が足るに至るには、どうすれば良いのか。何か条件でもあるのだろうか。この何かに対し、モノや金を想像したものには、残念ながら一切何も訪れない。条件すら提示されない。どう頑張っても人生好転しない。モノや金ではなさそうだと感じるものでも、よろよろ、ふらふらと、外ばかりが気になり、目に見えるから何か良さそうだからと言って誰かの言うことや幻想ば

“考える葦”だけでは片手落ち

「人間は、考える葦」ということをある哲学者が言っている。その意味は、「人間は自然の中では葦のように弱い存在である。しかし、人間は頭を使って考えることができる。考える事こそ人間に与えられた偉大な力である」としている。確かに人間には、“思考”する能力を持っている。しかし“葦”のような存在でもある。葦はアシともヨシとも読む。アシは悪に通じるのを忌み、「良し」に言い替えることも出来る。即ち、人間、良くも考えるし、悪くも考える。であるから、善悪の分別を知り、善に徹する生き方が大切なので

人間卒業

「人間」であり続けること、「人間」として生き続けることを望むのであれば、それなりの覚悟が必要だ。人間としてどう生きるか。即ち、人間としての役割を果たし、この世における人生の目的に、どう真摯に向き合って生きるか。そもそも「人間」は未熟。未熟であるが故に、「人」に成長するための多くの試練に耐えて行かねばならない。その自覚と責任と忍耐を持てるか。この世で「人間」として生きているということは、その約束を持って産まれてきている。その約束が今度は守れるであろうと許しを得て来ているというこ

自立せよ。

この世界の戦国の世は悲惨であった。目にする史実などは、金持ちや権力者の道楽により脚色され、現実は、我欲と我欲のぶつかり合いの中に、大義名分などは微塵もない。末端では雑兵が「乱取り」と呼ばれる略奪行為(放火や刈田による略奪、一般民衆や農民を奴隷として拉致するなど)がどこの国でも行われていた。さも、その時代の庶民は厳しい生活をしているように思うだろうが、実は現代は、昔よりも更に悪く、その憫然たる様は、闇の中で見えなくされ、その怨念の鬱積がどんどん溜まっている。即ち末法の世。なぜ、

人生、何が起こっても、大概のことは乗り越えられる

失敗や恥をかくことに恐れを成すことはない。人間は、万人が“未熟”なのだから、出来ないのは当たり前。私は未熟、あなたも未熟、みんな未熟なのだ。もし完璧な人間であれば、人間やっていない。一見、完璧なようで見えて、大概が未熟さが透けてみえる。なぜならば、自分を無理に取り繕っているからだ。人間の舞台は、失敗や恥をかくためにある。その大小や、捉え方の違いはある。良い時もダメな時もある。しかし、それが実相の舞台。だから、何も躊躇することはない。逃げる必要もない。堂々と思い切って、ありのま

大きな認識の齟齬

人間、人生の後悔の臍を噛みたくなければ、心しておかねばならないことがある。それは、真実を求め学び、そして悟り、己の人生に思う存分に活かすこと。ここで大きな認識の齟齬がある。「学ぶ」とは、人間かく云う表にある見えている一般的な学問だけのことではない。物事には“表”があれば、かならず“裏”がある。物事は、全て表裏一体が原則。この世の“表学問”だけでは、片手落ちであることを推してしるべし。この真意がどれほど伝わっているか。この目には見えない“裏の学問”は、見えないから“無い”わけで

これは本当に厄介だ。

“本当のこと”を知っているか?「ああ、知ってるよ!新聞やニュースで毎日本当のことを伝えてくれている。」「学校で教わることが本当のことでしょ!?教科書に書いてある。」「え?本当のことって何?本当のことと思っていたことが本当でないことなんてあるの?」「大人はいつも本当の事だというけれど、実際にそれって本当なのだろうか。何を根拠にしてそう言っているのだろうか。自分の目で本当に見たの?自分で実際にやってみたの?誰かが言ったことを鵜呑みにしているだけじゃないの?」「ネットにあることは嘘

未熟なだけに、弱く腐りやすい

今世の人間の大半はいい加減。この“いいかげん”とは、「程よい、丁度よい様」というような良い意味のことではない。ここでの“いいかげん”とは、「徹底していない、投げやりな、疎か、出鱈目、誤魔化し、ちゃらんぽらん、無責任」などの意。一方、自然はどうか。自然界、即ち実相には、“いいかげん”はない。一切が明瞭。はっきりとけじめがある。この自然界(真実界)は、嘘を付かない、誤魔化さない。即ち本物。超大宇宙の法則、道理よって生かされている。今世の人間は、この実相で生きていながらも、自然な生

弱部と細部

人間社会の日常には、様々な綱引き事がある。国家どうしの綱引き、政治による綱引き、社会問題に関する綱引き、仕事のコンペでの綱引き、スポーツなどの競争事の綱引き、友だちどうしの綱引き、家庭内での綱引き、自分の人生における綱引き…。「世の中、勝つか負けるか。強い者が勝つ。それだけよ。」「負けるのは努力と根性が足りないから。」「勝敗は戦略で決まる。優れた分析力がものを言う。」「綱引きは駆け引き上手が勝つ。相手をそつなく騙すことも大事」…。人間社会の中で起きる綱引きとはこのようなことが

最後の言い訳

人間は“言い訳”をする。他者への言い訳。自分への言い訳…。毎日毎日何百回も…。なぜか。「言い訳」を支配しているものは“不安”。自分自身が未熟であることを補正するための潜在的防衛本能。誰かから、がっかりされたり疑われたり責められたりするのではと不安になり、人間関係を崩したくないという感情が襲う。自分の非を認めると、下にみられたりするのが怖い。今の自分を否定され、変えられたりするのを必死で拒む。人間は、無意識に、瞬間的に「言い訳」を繰り返してしまう。これは周囲を困らせるだけでなく

ビッグリップ

世のリーダーたちよ。国家、政府、企業、組織を司る役割を担う者たちよ。己が今の地位にあるのは、なぜか?己の実力か?能力か?知恵か?努力か?それとも運か?真実は、調和を目指す宇宙総体における役割を全うするために、その地位が与えられている。それは、己が今世に成し遂げたい使命を願い出たことに対する最大の配慮でもあり、責任。従って、その地位は、自分の実力で勝ち取ったなどと思わぬ方がいい。そのことに一喜一憂する人間が、あまりにも多過ぎる。なぜか。それは人間が作り上げた我欲の牙城に立ち、賞