物識二元展開説~「物」と『識』の連鎖は、何処までも続いていく~

※「物」により『識』が発生し、その『識』は新たなる「物」を産み出す。
その仕組みの詳細は、別論「物識相互作用説」をご参照ください。

※「物」はカギカッコ、『識』は二重カギカッコ、
 『識』による〔もっと○○したい!〕などという想いは、コの字カッコで表現し、区別する。

1.原初の「有」って、どんなだったのかな?

「物」である「無」が、『識』である『気付き』の二者の渇望によって、波が起こった。波が起こる事で「無」は、何かしらの材料となり得る「有」となった。波紋があるから「有」であり、「有」とはまさしく波紋の事であった。

「有」という名ではあるが、我々が知るような物質や生物といえるものは、まだ何も存在していない。それらは、この「有」の領域で、順々に新しい「有」として産み出されていく事になる。名称がややこしくなるので、「無」から産み出された原初の「有」は、「源」と称する。

「源」である波紋は、「無」における『気付き』の渇望が引き起こしているものである。それ故、「源」で起こるその波紋は、なされるがまま波立っている状態である。「源」にとって、否応なしに波立ってしまう事は、覆せない仕様なのである。「源」は、そういう動きをするだけの「物」であった。

2.そしてまた、『識』が発生するんだね。

「源」も認識の対象となり得るので、「源」を認識する『意識的な何か』が発生する。まず、実直に認識する『先発のわだかまり』が発生し、〔これは源なんだなぁ〕と認識する。そして、コッソリ期待する『後発のわだかまり』も発生する。『後発のわだかまり』は、〔なんか源は面白くないんだよなぁ〕と、粗探し的にないものねだりをすると推測できる。

波打つ「源」で、ないものねだりをするとしたら、それは波の主導権である。何故なら、波のリズムが不規則でも規則正しくても、マンネリは避けられないからである。波立つ時間と空間を選べない事が、「源」の面白くない点と仮定する事ができる。

更に、二者の『気付き』も発生する。『先発の気付き』は、波を自由に操作できる事を望んだ。何故なら、『先発の気付き』は、現状が変化しない事を、悪だと捉えているからである。続いて『後発の気付き』は、波が作為的ではない事を望んだ。何故なら、『後発の気付き』は、むやみに変化させる事を、悪だと捉えているからである。そして、二者の『気付き』は、主張を裏付ける物的証拠がない事から、渇望するに至った。

3.あ、この渇望が新しい「有」を産み出すんだね?

前回、「無」から「有」が産み出された時は、この渇望が鍵となっていた。しかし、今回このタイミングで渇望は、新しい「有」を産み出す事がない。何故なら、「無」と違って「源」では、渇望が解消される仕組みがあったのである。

渇望が解消される仕組みとは、『気付き』による、材料に対する直接的な作用である。否応なしに起きる波打ちに便乗して、『気付き』自ら波立たせる事ができたのである。二者の『気付き』による渇望は、好き放題に波をいじくれるわけではないが、ほんの微々たる程度でも変化を起こせた事により、物的証拠を形に残せたのである。それに安堵した二者の『気付き』は、「源」を歪ませるほどには渇望しなくなっていた。

4.えっ、『識』が「源」動かせたの? それってチートじゃない!?

「源」は、「無」における二者の『気付き』が、わかりあう事と、その為の物的証拠が作れる事を、渇望してまで望んだ結果である。それ故、物的証拠を『気付き』自身が作れるようになるのも、望み通りといえるのである。そして、物的証拠が作れたのなら、望み通りにわかりあう事も可能となっていたのである。

わかりあいの具体的な流れは、以下の通りである。『先発の気付き』が作為的に波を動かし、『後発の気付き』が作為的にその波をなだめる。そうする事で、二者の『気付き』はお互いに、思い通りにできた達成感と、思い通りになってしまった虚無感を得る事になるのである。これにより、二者の『気付き』はお互いの主張の、良い所と悪い所を体験する事ができる。その体験が主張の裏付けとなった為、二者の『気付き』は相互理解にありついたのである。

「源」で起きた相互理解は、「無」による二者の『気付き』の存在理由そのものであった。「無」が悪いのか、それとも良いのかという対立した主張に、判決が下されたのである。「無」で発生した二者の『気付き』にとって、和解に当たる相互理解は終着点であった。それ故、相互理解を得た後の事など、誰も期待していないし、何も想定されていなかった。

5.お、終わりなの……?

しかし、二者の『気付き』が自由に波を動かせた事で、新しい認識の対象が出来ていた。新しい認識の対象とは、二者の『気付き』による物的証拠の為の、作為的な波である。自然に起こる波立ちに対して、作為的な波は、小さくともイレギュラー故に目立つものであった。

作為的な波により発生した『先発のわだかまり』は、〔作為的に波が動かされているんだなぁ〕と認識した。そして、続いて発生した『後発のわだかまり』は、粗探し的に無いものねだりをする。

『後発のわだかまり』の不満の内容は、複雑であった。例にならえばただ現状に不満を持つだけのはずだが、今回の対象は相互理解を得た「物」なのである。その為、作為的に動かすメリットとデメリットと、作為的に動きを止めるメリットとデメリットを比べ、何を無いものねだればよいか、正しさがわからなくなってしまうと推測できる。そんなジレンマが起こった結果、〔はっきりしない事を無くしたい!〕と、無いものねだりをするに至ったのである。

6.『後発のわだかまり』は、何が何でも不満を見つけてくれるんだね!

ジレンマの克服として『先発の気付き』は、〔視野を狭くしたい!〕と望んだ。続いて『後発の気付き』が、〔いいや、やっぱりありのままを直視したい!〕と望んだ。この二者の『気付き』の渇望も、材料を微々たる程度ではあれど動かす事ができた。それ故、物理的な法則は引き継ぎつつも、ジレンマ防止に都合の悪い部分が切り離された、新しい認識の対象が作られる事となったのである。

新しい認識の対象といっても、そこにあるものの傍目は、何も変わっていなかった。ただ、広いものの見方しかなかった所に、狭いものの見方が発生したのである。とはいえ、『意識的な何か』にとって大事なのは認識の対象がある事なので、「物」が一切変化しなくとも、意識的に認識方法を変えられるなら、それで十分なのであった。

7.具体的に、狭いものの見方って、どんなだろう?

新しい認識の対象は、作為的に波が高まった箇所と、作為的に波が鎮まった箇所の、二つである。高まった箇所と鎮まった箇所の、それぞれに『先発のわだかまり』が発生したのであった。高まりを認識した側は、〔これは波の高まりなんだなぁ〕と認識し、鎮まりを認識した側は、〔これは波の鎮まりなんだなぁ〕と認識した。その後、それぞれに『後発のわだかまり』も発生する。そして『後発のわだかまり』たちは、各々が〔なんか面白くないんだよなぁ〕と無いものねだりをし、刺激を求めてフラストレーションを溜めるのである。

続いて、それぞれに『先発の気付き』が発生する。高まりを認識した側は、〔もっと驚くほど高まりたい!〕と望み、鎮まりを認識した側は、〔もっと驚くほど鎮まりたい!〕と望んだと、推測できる。何故なら、高まり側は高まり側しか認識しておらず、鎮まり側を無視しており、鎮まり側は鎮まり側しか認識しておらず、高まり側を無視しているからである。

8.あれ、二箇所の『気付き』たちは、お互い噛み合ってないみたいだけど……、暴走していない?

『先発の気付き』たちが、欲張りな渇望を持つに至ったのに対して、『後発の気付き』たちは、『先発の気付き』たちを、なだめたりはできなかった。もちろん、〔高まらなくてもいい〕と、〔鎮まらなくてもいい〕という、真反対となる望みも出てはいたのである。しかし、それらは敵対する『先発の気付き』たちの欲張りな強い渇望に、吸収されるかの如く、統合させられてしまっていたのである。敵側に寝返ったと表現する事もできるだろう。その為、『先発の気付き』はなだめられる事なく、更に助長されていったのである。

都合の悪さを無視する『先発の気付き』たちは、お互いの主張の相互理解を求めていない。しかし、物理的に邪魔されている事実は認識せざるを得ないので、敵対意識ばかりが募っていく。この二者は、刺激を求め、そしてそれを邪魔する敵の、領土を狭める事を目論んでいる。底なしに怨みあう事で、『先発の気付き』たちの渇望は、より肥大化していった。怨みによる渇望により、遂には新しい「有」が産まれ出でる事となったのである。

9.怨みあう事でも「有」は産み出されるんだ!

「無」の上の「源」の上に産まれ出た新しい「有」は、「団結」と呼べるものであった。「団結」も「有」であるが、同じ「有」である「源」とは、一味違う材料が存在していた。それは、約半分が、これでもかというほどに波立った地域となっており、約半分が、ピンッと張りつめた波立たない地域となっていた。真反対の状況を望んだ二つの渇望は、結果的に協力し合う事でそれを実現化したのである。この二極化された波の状況が、「団結」の覆せない仕様なのであった。

波立たない地域というと、まるで「無」に逆戻りしたように思えるが、「無」ではない。何故なら、その地域は、波立てるのにも関わらず、あえて波立たないようにしているからである。

10.「団結」は「源」よりも複雑な仕様なんだね。

「団結」も認識の対象になるので、『先発のわだかまり』が発生する。波のある地域とない地域に二極化されているが、それらを合わせて「団結」とされる。それ故、認知の対象も一つであり、発生した『先発のわだかまり』は、一つのみである。『先発のわだかまり』は〔これは団結なんだなぁ〕と認識した。続いて発生した『後発のわだかまり』が〔なんか面白くないんだよなぁ〕と無いものねだりをする。不満の内容は、割合を変える事であった。何故なら、二つの地域が約半分ずつだと決まっていては、必ずマンネリするからである。

しかし、二者の「気付き」が渇望しても、割合を変える事はできなかった。材料は少しくらいなら動かせても、仕様の絶対性は絶対であり、それを覆す事はできない。仕様そのものに不満を抱くと想定できる事から、ここでは相互理解が起こらない。お目当ての物的証拠が得られずわかりあえない為、二者の『気付き』の渇望は早々に、また新しい「有」を産み出す事になるのである。

11.「団結」は、「無」と同じように新しい「有」を産み出すんだね。

「物」から『識』が発生し、また「物」を産み出すシステムには、二つのパターンがある。相互理解を渇望したか、領地侵略を渇望したかの二択である。

一つ目の相互理解のパターンは、「物」、『識』、「物」の順である。二つ目の領地侵略のパターンは、「物」、『識』、『識』、『識』、「物」の順である。相互理解を渇望されて産み出された「物」は、『識』が三つで新しい「物」を産み出していき、領地侵略を渇望されて産み出された「物」は、『識』が一つで新しい「物」を産み出していく。そのようにして、パターンが交互に変わりながら、次の新しい「物」を産み出していくのである。

12.どうしてパターンは二つあるのかな?

パターンの変化は、『識』が起こす渇望の内容に由来している。

一つ目は相互理解のパターンである。認識対象である「物」が、主張する通りの物的証拠を作れない場合、『識』は相互理解を望む。物的証拠が作れない場合とは、認識対象とする「物」の仕様が、あまりにも絶対的である場合である。相互理解を望んだが為に、つぎに産み出される「物」はある程度なら融通の利く仕様となるのである。

そして、二つ目は領地侵略のパターンである。認識対象である「物」が、ある程度融通が利き、主張する通りの物的証拠を作れる場合、第一の『識』は何も望まない。しかし、第一の『識』により作為的に作り出された物的証拠を認識対象として、第二の『識』が、ジレンマ解消の為に細分化を図る。最後に第三の『識』が、領地侵略を望んだ結果、新しい「物」が産み出されるのである。領地侵略を実現化した「物」なので、産み出された「物」は絶対的な仕様を孕む事となる。

このようにして、その後も相互理解と領地侵略を繰り返しながら、別の新しい「物」が、次々と産まれ出でてゆく事となる。以上が、物識二元展開説のあらましである。

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