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多様性を認めるということは、「多様性を認めない」人も認めなくてはいけないのか?

思考のループ状態。

自分で疑問を投げかけておいて、答えが出ない。


今までの人生を振り返ると、大学生くらいまでは短気な性格だった。人の言動、行動が合理的ではなさすぎて注意する感じ。

社会人になって関わる人の量が圧倒的に増えて、自分の性格が短気というだけじゃもう済まなくなってきた。人にイライラすること、注意するにもすごくエネルギーが要る。短気だった性格が一変、大人しい性格になったと思う。

人はみんな違うんだから。あなたが私のことを100%理解できないのと同様に、私もあなたのことを100%理解できない。

と当たり前のことをより一層自分に言い聞かせるように過ごしてきた。

人に多くを期待しても無駄だと思ってしまう。

こういう思考回路になるのも、私が多くの人と意見が食い違うことに起因する。自分で主張していることが間違っているとは思わないし、相手が間違っているとは思わない。単純に意見が合わないだけなのだ。

その場合、多くの人は互いの意見を尊重して歩み寄る姿勢がみられる。一方で、ごく稀に(稀でもないか)、特に自分の役職に依存してトップダウンで部下に意見を従わせてきた経験をした人に多いが、まるで自分の意見が100%正しいかのように振る舞う人が現れる。そこに他者の意見が入る余地はない。すんなり入る他者の意見はご想像の通り、自分が従ってきた目上の人物の意見だ。

自分は頭が凝り固まっている意見を受け入れる多様性を持たなければならないともがいているにも関わらず、多様性を尊重しない人を受け入れるなんてすごく矛盾してはいないだろうか。

当然何でもかんでも多様性をあてはめているとしんどいが、それにしても本当に矛盾している。この矛盾を受け入れると多様性を尊重している人が、圧倒的に息苦しく辛い世界でしかない。

Aさんの意見とBさんの意見があり、Bさんが多様性を尊重しない人であったとしよう。

Aさんは、Aさん自身の意見とBさん自身を検討する余地がある。

Bさんは、Aさんの意見を全くきかない。

こんなシチュエーションになったら、Bさんの意見が通用されるケース圧倒的に多い。それが日本の縮図にはなっていないのだろうか。

政治、ジェンダー、会社、社会通念、常識。

もはや「多様性」の定義もよく分からなくなってくる。

つまりは、明言しないが、少々過剰気味な人の思考も、それはそうだよねと、受け入れるしかなくなってくる。

おかしい。何かおかしい。

「多様性を認める」という表現が危険を孕んでいるとさえ思ってきた。

多様性を認めて、多様性を認めない人を認めてしまったら、事態が進展するわけがない。現状維持。

そもそもこんな問いを投げてしまったことさえ後悔しているが、多くの人にとって生きやすい社会は実現するのだろうか。難しすぎないか?

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