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月食む父【かねこの食べもの自由帳】

 布団に包まって、まどろみの中で幸せいっぱい惰眠に溺れていると、嗅ぎなれた匂いが鼻をくすぐります。父ちゃんが作る鯖と玉ネギのカレーつけ汁の匂いです。

 あぁ、今日は土曜日か。

 単身赴任の父と不定休の母が家計を支える我が家は、休日は父ちゃんが昼飯を作るのが当たり前でした。布団の中から脱皮するように抜け出して、眠気を引きずりながら階段を降りていきます。

 おはよーと声をかけると、おはよーと目は素麺を茹でる鍋から離さず返してきます。茹で上がった素麺をザルにあげて、流水で洗う手捌きが、長年の研鑽を垣間見せます。ザルを持ち上げて勢いよく垂直流れていく水をチャッチャと切ると、父ちゃんは兄ちゃんと弟をでっかい声で呼びます。

 遅れて来た二人が席につくと、テーブルの真ん中に出現する、素麺の山。一体何把茹でたんだろう。一人、二人前半といったところか。スパイシーな香りが立ちあがるつけ汁も到着して、遅めの朝食が始まります。食べ切る気合を練り上げて、いざ、いただきます。

 食いたかったら自分で作る。いつのまにか出来た我が家普遍のルールです。明確なおやつシステムが導入されていなかった我が家では、学校から帰って来て小腹が空いた時は兄ちゃんも僕も自分でラーメンやチャーハンを作って食べていました。冷蔵庫の材料を勝手に使うので、母ちゃんは食材管理が大変だったことでしょう。子供ながらに料理を作ることに抵抗がなかったのは、父ちゃんが台所に立ってなにか作る姿を常に見ていたからだと思います。

 これは父の悪友たちが酒に酔うと定期的に話してくれる話なのですが、「コーラには智恵子さんのタクアン」という定説があるそうです。智恵子さんは父方のばあちゃんです。なんでも中型バイクを乗り回して悪さをしていた高校生の時分、その頃の若者の定番のドリンクは瓶コーラだったそうで、このコーラのに最も合うと評判だったのが、ばあちゃんが漬けたタクアンだったそうなのです。

「タクアンを爪楊枝で刺して口に放り込むべ?ポリポリ噛みながら飲むコーラがとにかぐうんまいんだ」

 赤ら顔のおじさん達の顔は真剣です。魅惑の組み合わせを知った悪友たちは事あるごとに父ちゃんの家に来ては、コーラ片手にタクアンをせがんだそうです。やんちゃな盛りの高校生がこっそり家の漬物樽から、丸ごと一本タクアンを引き出して、ザクザク切って出してやると、みんな夢中で食べてコーラで流し込んでいたそうです。異様な光景ですが、きっとその頃のからなんでしょう。

父ちゃんが人を食べ物でもてなすのが好きになったのは。 高校卒業後に料理人の道に進むのを、厳格だったじいちゃんに「水商売なんか許さない」と阻まれてしまってから、父ちゃんは行き場のない料理を作りたいという欲求が抑えられずに、別の道で働きながら少しずついろんな料理に挑戦してきました。父ちゃんのレシピは大抵がどこかの飲み屋で食べたつまみです。自分が美味しいと思ったものを、記憶の中からあーでもない、こーでもないと本物に近づけていきます。

 発展途中の料理を実験台として食べされられる事もよくありました。家族の評判がいいとニコニコでレギュラーメニューに昇格しますが、評判が悪いと本人は隠してるつもりでしょうが、不貞腐れているのを顔に出しながら、封印となります。なので、不機嫌な父ちゃんにビビっていた僕は、「美味しくなれ!美味しくなれ!」と言葉の意味以上の気持ちを込めて祈ったものです。基本は美味しいんです。ただ岩石のように硬くて火の通りの甘い「そばがき」は、食べられたもんじゃなかったな。封印メニューの一つです。

 牛すじ煮込み、フルーツカレー、塩鍋、トマト素麺、キャベツの煮物、ジャンボ焼売、ダシ、どれも父の味です。きっかけは「自分が食べたい」なんでしょうが、人に食べさせるということには責任感を持っているようで、初出しの料理の時は「どうだ?」と聞いてきます。言葉で聞かないと不安になるのは、親子なんでしょうね。僕もそうです。というかこの状況を見て育ったから同じ気持ちになっているのかもしれません。

 いつも人のために飯を作る父ちゃんですが、自由に料理をするようになったのは、今の実家を新築してからだと思います。家が建つまでは一時的に母方のじいちゃん、ばあちゃんの家に住んでいたので台所の主であるばあちゃんに多少気を使っていたんだと思います。

 それでも溢れる欲求を発散させるために、あくまで自分のためだけに作るつまみがありました。

 ある日の夕方、玄関から現れた父ちゃんの手に握られていたのは、土のついたでっかい大根。乱暴に水道でゴシゴシ土を落として、まな板の上にデンッと置きます。葉っぱに近いところを菜切り包丁でゆっくりストンストンと薄く輪切りにしていました。薄すぎず、厚すぎず、二本の指で持った時に弓なりに曲がるくらいの厚さでした。何を作るのかなと思ったら、そのまま輪切りの大根を10枚ほど皿に乗せて、冷蔵庫から小瓶を取り出し茶の間に帰ってきました。

 大きなガラスのタンブラーにビールを注いで、輪切りの大根の上に、瓶から箸でつまみ上げたイカの塩辛を乗っけて、そのまま一口シャックッとかぶりつきました。大根に父ちゃんの歯型が綺麗について、満月が三日月になります。

 うんうんと何かに納得したように小さくうなずき、噛みしだきながらビールで流し込んでいる様がどうにもうまそうです。兄ちゃんと並んで大根をねだると「おまえらには早いかもなー」と言いながら、二人分塩辛を乗っけて渡してくれます。さぞ美味いだろうと食べた一口は生臭さと塩っぱさと、ちょっとだけ苦味。うえーっと流しに吐き出しにいくと、茶の間から父ちゃんがケタケタ笑っている声が聞こえます。あの頃はまだ塩辛の美味さが理解出来ませんでした。そこで兄ちゃんが持ってきたのがマヨネーズ。改めて父ちゃんのそばに並んで座ります。大根をもらってマヨネーズを絞って、シャクッと一口。大根のみずみずしさと甘さが感じられます。これなら大丈夫。二人して得意げな顔で父ちゃんを見てやります。

「おまえらも酒呑みになるなー」

と嬉しそうに笑う父ちゃん。皿の大根がなくなるまで三人でずっとシャクシャクやっておりました。

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