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子供の成長と信号機、どっちが早いのか

娘、ただいま1歳4か月。身長は少し低めなものの、体重は重めだし、発達は問題なく成長していってる。つい数か月前まではハイハイしかできなかったのに、今ではトタトタ駆けまわるし(ダッシュではない)すべてのスイッチを背伸びして押そうとするし、宇宙語でおしゃべりもする。
もちろんわたしだって生まれて三十数年経っているので、自分の成長期くらいは体感している。料理レパートリーがめちゃ増えた春、四泳法をマスターし個人メドレーが泳げるようになった夏、一気に仕事ができるようになった秋に、マフラーを編み上げた懐かしい冬の日……。思い返せば、できることが増えた日なんて山のようにある。ああ、自分が成長しているなあ、なんて感じたことは両手の指の数くらいある(はず)だ。
でも、娘の成長速度に比べたらカタツムリよりも遅い。というか、本当に子供の成長スピードがはやすぎて立ち眩みがする。
今朝は二段しか積めなかったはずの積み木を夕方には四段積んでいるなんてことはざらにあるし、仲良く遊べなかったお友達と急にべったり遊びはじめたりする。手づかみでぐちゃぐちゃにしていた食事が、いつのまにかスプーンで口まで運ぶように(結局最後は皿も床も手も顔も頭もぐちゃぐちゃなのはご愛敬)なっているし、眠たくなったら自分で寝室に行くようになった。

たった一日の間で、こんなにできるようになるのって、きっと物心つくかつかないかの子供の頃が絶頂期だ。なのに、とても残念なことに、この時期を本人が覚えておくことはほぼ不可能なんだと自分が子育てをするようになって気づいた。
もちろん子供を育てる前からも、幼い頃の記憶は消えるものだとわかってはいた。でも実際それを肌に感じてみると、新生児~幼児期の尊さが一段と美しく思えてくる。子供を育てている大人だけが、この尊さに気づける。一日一日が過去になっていって、もう二度と会えないあの子の新生児期に思いをはせる瞬間も、おんなじくらい尊い。

子供を育てると自分も成長するよ、なんてよく言われる言葉だけど、その本質は「自分の視野が広がる」ことにあるんじゃないかと思う。育児をするまでは、わたしは自分のことに全力投球できてきたけれど、子供ができると情も沸くし、なにより製造責任を果たすためにもしっかり面倒をみるようになった。危機管理能力はきっと以前の倍はあがったんじゃないかとすら感じる。
周りになにがあるか観察し、子供の状態を把握し、自分の装備を整え、子に合わせたスケジュールで動く。ぶっちゃけて言うと仕事をしている時よりも周りを見ている。すると、今までには気づかなかった事象はもちろん、知己の仲の見えてこなかった人柄までもが見えてくるようになった。
こういう言い方はすごく嫌いなんだけれども、生きているステージが独身の頃とはどうしようもなく違うんだと感じざるを得ない。それは独身をけなしているのではなく、子持ちを上げているわけでもなく、ただ単純に「自分以外の存在を優先して生きている」ことを指している。子持ちがいくら自分自身に時間や金や労力を使いたくても、やれる範囲は決まっている。その上限をあげることもできるが、独身の頃と比較してハードルは何倍も高くなる。
私が独身の頃は周りから心配されるほど自由に生きてきていて、いわゆる「ガンガンいこうぜ」モードだったにも関わらず、子育てをするようになった途端、子供に対しても自分に対しても「いのちだいじに」を選ぶようになってしまった。独身時代の私を知っている人は声をそろえて、あなたも親になったんだね・変わったねと言うが、私自身の性格や心情は何一つ変わっていないのだ。
選びたいのは昔も今も「ガンガンいこうぜ」だし、自分ひとりや夫婦のことであれば間違いなくそれを選ぶが、子供のことが関わってくるとすぐに「いのちだいじに」がデフォルトでついてくる。しょうがない。子供の尊さを知ってしまったのだから、その命に対して誠実に対応していくのはもはや尊いビームを浴びた大人の義務なのだ。

毎日が飛ぶように過ぎていくし、子供は二度見してしまうほどできることが増えていくし、ほんと瞬きする暇がない。
五秒で変わる魔の信号機が近場にあるんだけれど、気を付けていないとずっと足止めを食らってしまうから、そこを通るときはめちゃくちゃ神経を研ぎ澄ます。すぐにアクセルを踏めるように。それと同じで、娘のことをしっかり見ていたい。できるようになったことだけを気づくんじゃなく、しなくなったことに気づいてそれを惜しんで尊んでいきたい。
自分に使う時間も金も減ってきたけど、違うベクトルで得られる満足感は、独身の頃に思っていたよりも深いし気持ちがいいものだ。

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