君が最後に笑うまで
相手チームのチャンステーマを背に、階段を上がる。とてもじゃないけど聞いていられなくて、時間つぶしをかねてソフトドリンクを買いに向かう。売店の前で列を作っているのは、私と同じユニホームの人たちばかりだった。みんな考えることは同じだな、なんてぼんやり思いながらため息をついた。
最終戦も終盤に入った今日の試合。前日が悲しい結果だったこともあって、何とか今日は勝ってほしいと応援していた。けれど、本当にどうしてと嘆きたくなるような、見ていてつらい試合が進行していた。
売店スタッフさんから受け取ったドリンクがこぼれないように、サッとストローをくわえる。ジンジャーエールの香りと炭酸の爽快さを合わせても、暗い気分は晴れなかった。カップの柄には相手チームのロゴがポップな色合いで描かれている。いちいち可愛くてなんか腹立つ、という理不尽過ぎるいちゃもんを心の中で唱えていると、突然耳を刺すようなアナウンスが鮮明に聞こえた。
『ただいま、――投手が治療中のため、今しばらくお待ち……』
「うそ」
背筋がサッと寒くなって、衝撃が思わず口からこぼれた。投手変わったんだとか、昨日も七回投げてたよねとか、今朝見たインスタの写真とかで、頭の中がぐしゃぐしゃになった。何度か人とぶつかりそうになりながら、速足で自分の座席へ戻る。
『ただいま、――投手が治療中のため、今しばらくお待ちください』
通路をくぐった瞬間、さっきよりもはっきりアナウンスが聞こえた。何があったんだろう。大丈夫なんだろうか。モヤモヤしながら座席のある列につくと、端に座っていたおじさんがサッと立ち上がってくれた。おじさんのマスクとメガネの隙間から見えた目は、なんだか優しげに見えた。
「あの、治療中って、どうしたんですか」
聞こう、と思うより先に言葉が出ていた。
「当たったんやぁ。危ないかも知らん」
突然声をかけたのに、おじさんは快く答えてくれた。少し間延びしたようで、家にいるような気持ちになるイントネーションに、関西の人だと思った。と同時に、「おじさん」と言うよりも、「おっちゃん」という感じがした。
当たった、ってことは打球が……。ピッチャーの治療といえば確かにそうだけれど、そこそこ時間が経っている気がして怖くなった。無事でいてほしい。それだけが心を埋め尽くした。
「マジか、えっと、そう、ですか。ありがとうございます……」
「お嬢ちゃん」
お礼をなんとか言って座席につこうとしたら呼び止められた。
「お嬢ちゃん、どこから来たんや? ――か?」
「えっと、――です」
会話が続くと思わなくて、少しおどつきながら答える。
「おぉぉ、えぇ? その辺りーったら相手チームやろうに、なんでこっちのチームなんや?」
おっちゃんは自分の着ているユニホームを指さしながら言った。今日の相手チームは確かに地元と関わりが深い。行きの電車の中の広告にも、相手チームのエースや4番バッターがいた。この球場だって相手チームのホームだ。それでも、私はこのチームが好きになった。
「あの、私、――選手が好きで……!」
「やろうなぁ。だってユニホームも――の着とるもんな」
1番好きな野手の名前を挙げると、おっちゃんがニヤッと笑って私の服を指さした。今回の観戦のために買った、彼と同じ番号のユニホームと、彼のイラストが描かれたTシャツ。同じ球団が好きな人に褒められたような気がして、嬉しくなって笑い返した。昨日今日と球場に来た中で、初めて笑えた、と思った。
「元気で、一生懸命で……好きなんです」
「うんうん。この間も記録出しとったな。よぉ打ちよるな」
「はい! 本当に、嬉しくて……」
さっきまでの、暗く沈んでいた心が少しずつ軽くなっていった。胸に渦巻いていた黒い感情も薄くなった。
「実は、昨日今日が、人生初の生観戦で」
「そうやったんかぁ。じゃあ今日は勝ってもらわんとな!」
「へへへ、ですね」
「応援しよう、逆転や!!」
「はい!」
お互いにガッツポーズをし合って、それぞれ座席についた。と同時に、治療を受けていた投手がベンチから現れた。良かった、と思った瞬間、周りで大きな拍手が起きた。逆転。そうだ、まだ試合は終わってない。応援しよう。対になっている、チームのメガホンを改めて強く握りなおした。
バットが鈍い音をたてて、ボールがてんてんと遊撃手の前へ転がっていく。二塁に送られてファーストランナーがアウト。すぐに一塁へ送球される。視界の端ではバッターランナーが必死に走っている。
「間に合え。間に合え!」
一塁手のグラブの中にボールが収まってから、ワンテンポ遅れて一塁ベースが踏まれた。審判の手が上がった瞬間、涙が出てきた。私が顔を伏せた瞬間、遠くで歓声と拍手が起きた。手で覆った隙間から、いくつものライトが目まぐるしく地面を照らしているのが見えた。相手チームを称えるアナウンスと音楽が大音量で響く。すぐ近くの人が席を立ったのが気配で分かった。ここに居てもつらくなるだけ。わかっているのに、動けなかった。涙が止まらない。膝の上に置いてある彼の応援タオルを濡らしたくなくて、必死に手の甲で拭った。けど、止まらなかった。
初めての生観戦で贔屓球団が勝てなかったから? 好きな選手が活躍できなかったから? どちらでもなかった。何も出来なくて、ただ、つらかった。
不意にざわめきが強くなった。何があったのか気になって、あふれる涙を押さえながら、ほんの少しだけ顔を上げた。ついさっきまで試合が行なわれていたグラウンドに、大好きな、彼らが出てきていた。
『――の、今季レギュラーシーズンの、――での試合は、全日程が終了しました』
アナウンスが流れ始めると周りに残っていたファンが拍手をした。どんどん大きくなっていく拍手につられて手を叩く。そうか、今日が最後なのか……。
彼らが1列になると、拍手の音がもう1段階大きくなった。割れんばかりの拍手に混じって、心無い言葉が聞こえた気がした。彼らに絶対届いてほしくなくて、かき消すように強く強く手を叩いた。拍手の雨を受けながら帽子を取って礼をする彼らは、格好良かった。
列が崩れたのを見て、止まり始めた涙を拭った。拍手も少しずつ小さく、バラバラとしてきた。帰ろう、と荷物を掴んだときだった。斜め後ろから「向こうにもするんや」と声がした。小さくなって消えていくはずの拍手が、また大きくなり始めた。何も理解できないまま、顔を上げる。
ホーム側のスタンド――相手チームのファンに向かって、彼らが同じように列を作っていた。
ビジターの内野席からは、彼らの後ろ姿が綺麗に見えた。英姿颯爽としていた。脱帽した彼らが頭を下げた瞬間、今まで以上に大きな拍手が球場いっぱいに響いた。多少の贔屓目があれども、今日1番、大きな拍手だったように感じた。
私はまた泣いていた。なんで彼らが報われないんだろう。なんで私は何もできないんだろう。どこのチームも頑張っていて、それぞれにファンがいて。なんでどこかが負けてしまうの? なんで、だってそんなのって――。
「お嬢ちゃん!!」
沈む思考をすくい上げるように、明るい声が聞こえた。声の方を向くと、さっきのおっちゃんがいた。えらく優しい笑顔をしていた。
「クライマックス、行くからな」
おっちゃんの言葉は力強く、一点の曇りもなかった。そうだ、今日1日だけが試合じゃない。明日休んで、明後日も、その次の日も、まだもう少し彼らは戦う。最後に笑うのはどこなのか、まだ誰もわからない。
「……はいっ!」
何もできない、訳がない。最後まで信じて応援することができる。未だ涙は止まっていなくて恥ずかしかったけど、おっちゃんに負けないくらい、力いっぱい返事をした。
「応援しよな!」
「もちろんです!」
お互いにグッと拳を作って笑い合った。それからおっちゃんは、手を振って球場から出ていった。私もそろそろ帰らないと。どうにかこうにか涙を落ち着かせて、今度こそ席を立った。
「まだ諦めんなよ‼」
後ろから、誰かの声がした。きっと彼らに向けられた言葉。だけど、私の胸にもすっと入ってきた。
外に出ると、やけに空が綺麗だった。心地良い風が涙の後を乾かしていく。同じユニフォームの人達に混じって駅への道を急いだ。悔しさに押しつぶされそうだったけど、不思議と背筋は伸びていた。頭のてっぺんから糸が引いているような。その力強い糸が、彼らの最後の笑顔に繋がっていれば良いと、心の底から思う。
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