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俺の心に 春一番

 3月も中頃だというのに、外は相変わらず寒かった。週末からは春らしい暖かさになるでしょう、と天気予報士が言っているのをもう3回は聞いた。今日は風が少しキツい気がする。待ち合わせ場所を第一食堂にしていて良かったと思う。先輩が先に着いていても寒くない。
 昼過ぎの食堂は人も少なかった。奥の調理場では洗い物の音と換気扇の音、売店では冷蔵庫の音。そういう聞こえるというより、感じる音で埋め尽くされていて、静かなのに騒がしかった。
 食堂を一通り回って、先輩が居ないことを確認する。比較的綺麗な席を探して、窓に面したカウンターへ腰掛けた。横の椅子を軽く払いながらスマホを確認すると、先輩からラインが来ていた。
『すみません、少し遅れてしまいそうです』
 丁寧な謝罪の文面を何度も目でなぞる。返信を打つ前に、深呼吸をした。
『大丈夫ですよ』
『窓際の席にいます』
『ゆっくり来てください』
 スマホの画面を閉じてポケットにしまおうとしたとき、暗い画面に顔が写った。そのまま画面に向き直って、前髪を軽く撫でつける。横を向くと、後ろ髪が少しハネていた。あっと思ったものの、直す手段も時間もないのでそのままにする。
 今度こそスマホをしまってから、いつもより大きいバックの中を探る。コラージュ柄の紙袋が、ちゃんと綺麗なまま出てきてホッとした。中にはキャンディーが入ったオシャレな小瓶と、花びらが入ったネイルオイル。それから、手紙。そっと抜き出して、最終チェックをする。
『マドレーヌ、とても美味しかったです。ありがとうございました。お返しと、敬愛を込めて』
 2回読み返してから、「敬愛」の文字に触れてみる。この言葉を渡してしまっていいのだろうか。先輩を困らせたりはしないだろうか。手紙を書いた昨日から、なんなら先月から、ずっと自問していた。
 思考の渦に飲み込まれる前にひとつ頭を振って、手紙を戻し、バックに紙袋をしまった。あまり考え込み過ぎてもいけない。当たって砕けろと、友達にも言われた。
 自分の頬を軽く叩いて気合を入れる。そろそろ来ないものかと食堂を見回していると、入口の扉の向こうに、儚げな人物が見えた。ギュッとなる心臓に、落ち着けよと手を当てる。今度こそ、ちゃんと。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、来ていただいてありがとうございます」
 申し訳なさそうに眉を下げている先輩に感謝を伝えて、席を勧める。座る拍子に、つめ先がキラリと輝いた。ネイル自体は無色だったが、パールのような飾りが綺麗につけられていて、思わず見とれた。
「……? どうしました?」
 席についても何も言い出さない俺を不思議に思ったらしく、先輩は首を傾げていた。
「あっ、いや、今日もつめ、素敵ですね」
「あっ、ありがとうございます」
 いつもと同じやり取り、のはずが、先輩はいつもより表情を崩していた。定型的なやり取りではなく、本当に喜んでいる感じがした。
「そのパールって、シールとかですか?」
「はい、ピンセットを使ってつけるんです」
 先輩が、指を軽く曲げてつめを見やすくしてくれた。ワンポイントにつけられている大きな粒や、つめのカーブに合わせて綺麗にならんでいる小さな粒もあった。細くて華奢な先輩の手がピンセットを操るのを想像してみる。
「すごい、器用ですね」
「ふふ、ありがとうございます」
 口に手を当てて笑う先輩は、いつもより柔らかな雰囲気をまとっていた。それでも引き込まれるような神秘的な魅力は相変わらずで、一食の音はだんだんと遠くなっていった。
「そういうネイルって、先輩初めてじゃないですか?」
 まだ本題に入るのを怖くって、雑談を続けようとした。すると、先輩の様子がおかしくなった。あっ、っと呟いたかと思ったら、パッと顔を背けられた。何か良くないことを言ってしまった? と、背筋がヒヤリとしたが、すぐに違うとわかった。手で押さえられた顔が赤くなっていた。
 その時すでに、なんとなく、本当になんとなく、良くないと思っていた。
 ちらりと振り向いた先輩と目が合う。気まずそうに照れ笑いをしているのは、初めて見た。
「すみません……いや、あの、ふふふ」
 話そうとしてくれているが、言葉を紡ぎかねているようだった。言葉を選んでいるのではなく、言葉にしようとすると、ふわふわしてしまうというか。俺は待つことしかできなかった。
「……この後、約束があって」
 やっと教えてくれた先輩はすごく笑顔だった。今まで見たどんな表情よりも、ずっとずっと……。
「ちょっと、浮かれてしまいました。良くないですね」
「――いいと、思いますよ」
 心にも思っていない、形式的な言葉を吐いた。上手く笑えているかわからなかった。
「約束があるなら、さっさと済ませますね、すみません」
「いえいえ。まだ時間には余裕があるので、焦らずに」
 すみません、俺には余裕がないです。バックから紙袋を取り出そうとしたとき、手紙が見えた。一瞬止まってしまったが、手紙を引き抜いてバックの奥に押し込んだ。
「これ、あの、マドレーヌのお礼です」
 紙袋だけを取り出して、先輩へ差し出す。できる限りの笑顔で。目は見れなかった。
「わあ! ありがとうございます」
「適当に選んだやつなんで、気に入らなかったらすみません」
 嘘だ。めちゃくちゃ調べた。先輩の好きな色も、美味しいお菓子の店も。
「そんな、とっても嬉しいですよ」
 たぶん、笑ってくれているんだろうと思う。顔が見れなくても、声でわかる。
「よかったです、へへ」
 誤魔化すような笑い方をしてしまった。これ以上ボロが出る前に切り上げよう。
「じゃあ、俺はこれで」
 言いながら席を立って、返事も待たずに食堂を出た。そのまま大学の外に続く坂道を降りながら、なんとなく空を見上げた。薄く広がった雲が一面に広がっていた。不意に強い風が吹いた。全身に襲ってくる寒さに思わず首元を上着で押さえた。

 あ、降りてきた。

 スマホにメモをしようとバックを探ると、紙の質感が指先に当たった。取り出すとさっき押し込んだ手紙だった。くしゃくしゃになってしまって、破れているところもあった。

 ――見惚れるは キャンパスで咲く 他人の花

 きっとこれは春一番。これから本当の春が来る、だなんて、何かの漫画で言っていた。本当に来てくれるんだろうか。手の中の可哀想な手紙はひらひらと風に揺られていた。

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